イダンと秋の妖精
主人公「イダン」が、秋の妖精と遊ぶ話です。
秋の特別なひかりを、妖精に例えています。
企画参加作品です。
霜月透子さま主宰「ひだまり童話館」「ぱりぱりな話」
この作品は、2016年11月22日に投稿した
「ひだまり童話館」「ぷくぷくな話」企画参加作品
「クスノキ」を基にしています。
イダンは、数年ぶりに徴を見ました。それは昨夜の月蝕の闇の中で聞こえた少し悪戯な、でもとても美しい音いろのような声でした。
次の朝、イダンは久しぶりに森へ向かうために、たいそう早起きしました。支度をして、外への扉を開けるとまだ夜明けでした。
高い空にまだいくつかの星を残しながら、東雲の薄紅が華やかに金へと照らされて、紫の影が次第に青く醒めたように薄れていきます。西の空では女神の青い影が横たわり、薄桃色の空が広がっていました。
秋の朝が目覚めようとしています。瑠璃いろの鳥が、鋭く澄んだ鈴の音のような声で朝を森へ告げています。その鳥の背は、神々しい程の金いろに輝いています。
夜明けすぐの森はすっかりいろづいていました。大きな紅葉の木が真っ赤に染まり、葉を散らしています。ナナカマドも燃えるように鮮やかです。銀杏は黄落して、散り敷いた葉で根本の一面を黄いろに染めています。秋桜の群れが茂るあたりでは、ゆらゆらとオレンジの花弁がいくつも咲いています。高く伸びた薄の群れが、朝日のほうへ遠く続いていて、ひかりを透かして白銀に輝いています。
イダンは朝の森の径を、まだ色褪せない桜やクヌギやぶなの落ち葉と、その枯れ枝を踏みながら歩きました。吸い込む朝の森の香りが胸を満たします。ひんやりとした小径は静かに、イダンを迎えてくれました。やがて、森の真ん中あたりまで歩いていくと、そこは広場のようになっていて、中央にはあの大きなクスノキが、堂々と元気なままに緑の葉を茂らせていました。落ちていた小枝を踏み折ったからでしょうか、辺り一面にクスノキの少し刺激的な香りが漂っていました。
イダンは、手にシャボン壺と藁のストローを持っています。まるで樹の鱗のようなクスノキの樹皮に、まだ冷たい朝のひかりがさらさらと流れています。でも、どうしたのでしょうか。そのひかりの帯の中を見上げても、いるはずの姿が見えないのです。そしてまるでその代わりのように、見上げるクスノキの大枝に点々とあったのは、茶色い蛹のようなものでした。ニワトリの卵よりも少し大きくて、よく見ると少しずつ形が違うようでした。
「・・・もしかして。」
イダンは、少し待つことにしました。
あたりが明けていきます。空にはひかりが強くなり、薄雲を薄紫に、金いろに、夕焼けの忘れ物の茜のようないろに染めていた魔法の空の色が消えていきました。やがて朝陽は昇り、薄青の秋空が広がるころ、クスノキの蛹たちへもそのひかりが隅々まで射してきました。朝のひかりが蛹を透き通して満ちています。
静かに待っていたイダンの耳に、鳥たちの囀りや木々の葉擦れの音に混ざって、
ぱり
と、音がきこえました。
ぱりぱり
音はクスノキの樹上のあちこちから聞こえてきます。イダンがよく見ると、蛹の背が割れ始めています。むくむくと、茶色の蛹の殻を破り、透き通った姿が背を丸めて、次々と起き上がってきます。やがて、頭を下にしてぶらさがるように姿をすっかりと現したのは、背に透明な羽を持つはだかの少女のような妖精の姿でした。その妖精は、てのひらよりも少し大きなガラスの像のようで、眼を閉じて両手で胸を抱いた姿でした。水晶細工の最も繊細な彫刻のような妖精たちは、その透明な羽を伸ばし始めます。やさしい朝の爽やかな風が、蝉の羽に似たてのひらよりも少し大きい羽を乾かしています。
クスノキの大樹からは、もうすっかり木洩れ日が溢れています。眩しくてまだ冷たい秋のひかりの帯の中で、妖精たちがひとり、またひとりとそれぞれのいろが濃くなっていきます。姿形の輪郭がはっきりとつくられていきます。その不思議な長い髪は、まるで水の中を泳いでいるかように、ゆったりとしなやかにそよいでいました。
やがて、それぞれのいろと形が定まると、妖精たちはちいさな背なかと、羽と、両うでを、それぞれに精いっぱいまっすぐのばして、まるで「うーん」というように、目覚めの伸びをしました。そしてひとり、またひとりと、ぱたと蛹を離れて飛び立ちました。
朝の白いひかりの中で、金木犀の甘く華やかな香りが不意に強くなりました。イダンの目の前を横切ったのは赤の妖精です。姿は、てのひらほどの大きさの動き出したやわらかな黒水晶の彫像のようです。黒曜石のように艶めく黒い髪に、揚羽の黒い羽にネオンのシアンが綺麗な模様です。真っ赤な透き通るブラッドルビーの瞳は、強くそれでも悪戯なひかりを湛えています。
――秋の木々があんなに急に色づくのはきっと、この妖精の仕業なのです――
イダンのすぐ胸のそばを何かが飛びました。爽やかに少し甘くてすっきりとした白薔薇の香りで、まるで吸い込んだ胸の内が透き通るようです。はっとして見ると、青い妖精です。濃く透き通る深いアクアマリンの姿です。美しい髪と大きな眼は藍いろで、そして、虹色トカゲのしっぽをくねらせています。背なかも虹色にきらきらしていて、なんだが頬が薔薇色なのです。
――秋の薔薇が雨上がりに一際美しく咲くのはきっと、この妖精の仕業なのです――
イダンのシャボン壺に、妖精たちは興味深々ですから、この小ぶりな茶色な壺の周りに無邪気に寄って来てくれます。
ひとりの妖精が近寄ってきました。ジャスミンのむせかえるような強く甘い蠱惑の香りを纏っています。金色の妖精は、いつまでも羽化したてのように、一際透き通っています。その姿も髪も薄緑に透けていて、透明なエメラルドのようです。その鋭い金色の瞳は固いままに、決して変わろうとしないなにかを信じているようです。
――秋の夜の虫の音が胸に沁みるのはきっと、この妖精の仕業なのです――
クスノキの梢の上で、軽やかにひかりのダンスを踊っているのは、銀いろの妖精です。踊りの一拍子ごとに、沈丁花の情熱的にこころをくすぐるやわらかな甘い香りを振りまきます。華やかなシラーに満ちた美しいラブラドライトの踊り子は、ちょんと飛んで、軽いステップ。くるり。開いた手足と身体の形は、まるで花が咲いたりほどけたり。ムーンストーンの瞳が悪戯にひかります。銀の髪をなびかせながら、しゃらしゃらまとった薄の穂は花盛りのふんわりです。
――お月さまを呼んでいる薄の音があんなにも賑やかなのはきっと、この妖精の仕業なのです――
そんな妖精たちが、いくつもいくつもひらひらとひかりの中に見え隠れしています。透き通る妖精の姿は、普段なら誰にもきっとみえないのでしょうけれど、こんな徴のあった日の近くには、豊かな花の香りを漂わせて、秋のひかりの帯の中に姿を見せることがあるのでした。
妖精たちは、イダンに近づき、離れては、時に触れ、かと思えば、その香りだけを残してふわっと消えてしまいます。
「ああ……どうして、秋はこんなに薫るのだろう。どうして、秋の妖精はこんなに美しいのだろう。」
イダンは、むせかえるような豊かな花々の香りに包まれながら、煌めくように色とりどりの妖精たちの飛び交うさまに、胸が迫りました。天上から音曲の響きが降り注ぎ、この広場を覆っているかのような、荘厳なほどの美しさに全身が打ち震えていました。
この色とりどりの妖精たちには、名前なんてありません。イダンは、色の名前をつけましたが、それで妖精たちが変わるわけではありません。彼らには言葉がないのです。いえ、もっと大きな言葉の中で生きているのです。
良い天気の秋の日です。こんな日は、朝の肌寒さが何処かへ行ってしまったように、昼になれば暖かく風は心地好く吹きます。森の秋は静かに、しかし確かに長けていきます。
イダンがふと気付くと、もう陽は中天をすこし過ぎていました。
「いけない。いけない。これをこうして。」
イダンは、手に持ったストローをシャボン壺に漬けて、それからシャボン玉を吹きました。この森で吹く特別な妖精のシャボン玉は、ぷっくりとふくれて割れることなく風に乗り、ひかりの帯の中へ混ざっていきます。イダンがストローを吹くたびに、
ぷくり。ぷくり。
と次々に虹いろのまあるい膜が揺れながら生まれていきます。ゆらありと揺れる虹いろの泡に妖精たちは大喜びして、
「はいりましょう。はいりましょう。」
口々にそう言ってシャボン玉の中へ入っていくのでした。
赤い妖精は
華やかな金木犀の香りを閉じ込めて
ゆうらりゆれて ふんわりシアンにおぼろに ひかります
青い妖精は
すっきりとして甘い白薔薇の香りを閉じ込めて
ゆうらりゆれて ふんわり朝日いろにぴかりと ひかります
金いろの妖精は
甘い蠱惑のジャスミンの香りを閉じ込めて
ゆれずにかちんと留まって 星のダイヤモンドに ひかります
銀いろの妖精は
情熱的にやさしく甘い沈丁花の香りを閉じ込めて
ゆらりゆられて しん と静かな想いでのように ひかります
どこまでも透き通る秋のひかりが森に流れます。草原をひかり渡る風のように、きらきらと煌めく水面のように、妖精たちはコロコロと転がり回って遊びます。大きなクスノキの周りで、イダンの周りを巡って、お互いがぶつかりあって、そのたびに燐光をきらきらとまき散らしながら、それぞれに持った魅力的な香りを、秋風に乗せて辺りに漂わせるのです。
ちんと、ちいさく、ガラスの鈴の鳴る澄んだ音がしたようです。
あっちから転がってきた赤い妖精と、こっちから転がってきた青い妖精のシャボン玉が触れました。
シアンのふわりと朝日のぴかりが混ざって、東雲の彩雲が立ち上ります。ぱっと華やかな金木犀の甘い香りと、すっきりと甘い白薔薇の香りがゆっくりと渦巻いています。
妖精たちは、あっちからもこっちからもやってきます。
ちりりんと、少し強くガラスの鈴のような音がしたと思ったら、銀いろの妖精と、赤い妖精、青い妖精のシャボン玉が、一度にぶつかっていました。
銀いろ妖精がおどけて踊り、きらっと小さなお月さまがいくつも生まれて、立ち昇る彩雲と踊りながら風に流れていきました。沈丁花の思い出が、華やかに甘く彩られて、すっきりとした白い薔薇の香りに包まれています。
楽しそうな妖精たちが香り立ちながら、転がり周り、風に泳ぎして遊んでいます。
でも、金いろの妖精は、ダイヤモンドになっているつもりですから、すっかりとまた迷惑です。
そのとき、ぴーんと、音叉の鳴るような音が響きました。みんなが金いろの妖精のシャボン玉を目がけてぶつかったのです。
「!」
爛々と金いろの瞳が煌めいて、金色の妖精が、鋭く虹色のダイヤモンドのひかりを放ちました。彩雲も、小さなお月さまたちも貫いて、眩い光の矢がクスノキを通り抜け、イダンを通り抜け、森の木々も、鳥たちも、全てを透かして、秋の澄んだ高い空まで飛んでいきました。
もう辺りはむせかえるような花の香りに包まれています。甘く情熱的で、かと思えばすっきりと爽やかに、そして華やかさと、誘うような香りが混ざり合い、それでも見事に調和しています。まるで花々の香りの海に溺れているような、そんな桃源郷に遊ぶかのような心地よさです。
妖精たちが思うさま遊んでいるうちに、秋の陽はつるべ落としに傾いてきました。西の山の端では、美しい茜雲がいろを失おうとしています。それに気付いて、妖精たちは大慌てです。
「かえらなきゃ。かえらなきゃ。」
「かえらなきゃ。かえらなきゃ。」
口々にそういうように、茜雲を目指して飛び去ろうとしましたから、
ぱちん。ぱちん。
とシャボン玉が次々に、一つ残らず割れてしまうのでした。そのとき、閉じ込められていた香りとひかりが一斉にあふれます。
暮れようとしている森の広場を、極彩色の煌めきが弾けるように彩ります。まるで、音のないやさしいひかりの花火がいくつもいつくも弾けては消えているようです。イダンはふわりとひかる妖精のひかりに包まれていました。花々の香りの海は、薄桃いろの水嵩を上げて、その海面はもうイダンの背を越えて、クスノキのてっぺんあたりまで達しているようでした。イダンは、むせかえるような妖精の花の海の底で、なんだか頭がぼうっとしてくるのでした。
(妖精たちが帰るところは茜雲の一番上のところ、夜になる前の最後の虹のひかりの中です。
それは、何層にも何層にも重なり合ったいろのひかりです。)
おそらのうえのそのうえは
いつもいつでもはればかり
からりかわいているそらの
ゆうぐれひとつほしひとつ
ぎんのおほしにききましょう
うまれたばかりのものがたり
よあけにひとつほしひとつ
わたしのみんなのすきなもの
からすあげはのすきなはな
にじいろとかげのひなたぼこ
いちばんしずかなあさのほし
すすきにしみるおつきさま
さあいきましょういきましょう
おおきなやさしいおふねにのって
ほんのすこしのまたたきの
とおくてとおいところです
…………
イダンがふと気づくと、妖精たちが、クスノキの梢を通って灰いろの気配の空へ昇り始めていました。クスノキの梢の一番上へ昇って行って、そこから弾けるように眩くひかって、一直線に虹の雲へと向かいます。それは、まるで反対向きの流れ星のようにイダンには見えるのでした。
ぴかり。ぴかり。
幾筋もの真っすぐなひかりになって、妖精たちが少しさみしい諦めかけたような空を昇っていきます。
イダンは次々に放たれていく逆さまの流れ星たちを見上げながら、はあ。と溜息をつきました。妖精たちの花の香りが薄れていきます。また、見送ることしかできないのです。でも、またいつか徴があれば、今日のように出会えるのです。それは月蝕の声かも知れません。夜明けの雲のいろかも知れません。秋がまた来るように、きっと妖精たちにはまた会えるのです。
最後に残った金いろの妖精が、イダンのほうを見たような気がしました。またね。と、聞こえたようでした。
逆さまの流れ星たちがすっかりぜんぶ消えてしまうと、冷め始めた夜の始まりの風が吹きました。イダンは少し寒くなりました。そして、西の空から太陽が今日の最後のひかりを投げました。そのひかりは、妖精たちの花々の香りを纏っていました。イダンはそれを受け取ってシャボンの壺の中へ、そおっと入れました。
ふたをして一晩静かに寝かせて、次の朝の白い時間にゆっくりとよくかき混ぜれば、特別なシャボン液が出来上がるのです。
そしてまた、妖精たちにあえるように。イダンは、いつも準備をしておくのでした。
おわり
2021.11.23 誤字訂正 きらきれ→きらきら