1-1. 夕暮れと月光の森
夕焼け空の下で、森の中を周は走る。
案の定、異形は黒紫の息を吐き出しながら、二足歩行で追いかけてくる。
「一体何なんだよ!」
周の思考は混乱していたが、ここで死ねないという思いと、殺気への怖れが体を動かした。
背の低い草木を掻き分けながら、通りやすそうな地面を選び、右へ左へと走る。
方向はわからなかったが、ここがどこだかもわからない以上、関係がなかった。
異形の体は周より二回りは大きかった。身長は2メートルほどであろうか。
大きさの割に小回りが効いており、周が走る方向を変えると、すぐに異形も反応した。
まるで、人間同士の鬼ごっこのようだ。
「はあ・・はぁ・・」
徐々に息が上がる。慣れない土道の疾走は、帰宅部で運動の習慣のない周を追い詰める。
「くそ、こんなときに、何かができたら・・」
周の定番の異世界妄想。何パターンかはあるが、決まって戦闘力は高かった。
ある時は伝説の剣豪、ある時は闇に落ちた魔術師・・
「ここが異世界だったら、チートはないのかよ!!」
脚がもたつく中、周は声に出して叫んだ。
直後、ツタにつまずいて周は転倒した。
体が一瞬前のめりに宙に浮き、肩から地面に激突して半回転。仰向けになった。
「ああ・・!」
強い痛みが体を襲ったはずだが、あまり痛みは感じなかった。
それよりも、正面に姿を捉えた異形の姿に改めて背筋が凍り付くような感覚、
周のこれまでの人生の言葉では表せない、未知なる闇への深淵の恐怖。
その強い恐怖を全身で受け止め、周の目は見開き、口がただ開いた。
確実に殺られる。
どんな方法かはわからない。撲殺されるのか、闇のブレスが噴き出すのか。
しかし、命がなくなることだけは間違いない。
短い人生に別れを告げよう。
辛いことはいっぱいあった。
でも生きがいはなかった。
将来やりたいことや、こうなりたいという目標もなかった。
ただ限られた人生の日々を無為消化していたようだ。
楽しいことはあっただろうか。
楽しいこと、良かったこと、嬉しかったこと。
心に響いたこと、心を震わせた感情。
―そうだ、菜浪。
菜浪はどこにいるのだろう。一緒に飛ばされたことは間違いないんだ。
近くにいるのか?
楽しかったこと、心を震わせた感情・・菜浪だ。
先ほど誓ったばかりじゃないか。
菜浪を見つけるまで、菜浪を見つけて、一緒に帰るまでは死ねない。
まだ帰りの分かれ道にはたどり着いていない・・!
「まだ死ねない!」
その瞬間、周の右腕に、感じたことのない力が走った。
心臓の動機が右腕に達し、エネルギーが蛇のように右腕に渦巻いているような感覚。
「これは・・っ!」
右腕の力は周の生への感情が高まるにつれて増幅されるように感じた。
周は無意識に、その右腕を異形へと向けた。
異形はもう目の前に来ている。そして、周に向かって腕を振り上げた。
振り上げた腕に、夕日を受けて黒く輝く鋭利な爪の刃が見える。
振り上げた腕が下ろされる。
周は突き出した右腕にあらゆる感情を込める。
爪の刃がまさに周の脳天に到達しようとしたとき、周の右腕から空気を震わす光が発せられた。
目がくらむような光と空気が震える轟音。
鼓膜が破けて目がつぶれるような感覚。
そして直ちに光と音は収まり、異形は吹き飛んで木に激突した。
「何だよこれは・・」
周は信じられないようなものを見た気持ちとともに、精神の強い感覚が体から抜けたことを理解した。
同じことはもう一度はできないことを悟った。
「倒したのか・・?」
命を奪っていなければ、今度はこちらが命を奪われる番だ。そんなことはわかっている。
だが、事実はチートではなかったようだ。
少しの間の後、異形は上体を起こして起き上がった。
衝撃を受けてふらついているのは感じるが、致命傷ではなかったようだ。
再び距離を詰められるが、周は動けない。
腕が振り上げられ、爪の刃が振り下ろされる。
周は力を振り絞って体を回転させたが、爪が腕をかすった。
血が飛んだ。
周は再び異形に向き合ったが、周の左腕からは血が流れている。
「・・くっ!」
自らの血が流れる姿を初めて見て、周は観念した。
これで終わりだ。
そして、異形の爪が、三度振り下ろされる・・
一瞬時が止まり、青白い光が軽やかで高い音ともに異形の体を貫いた。
光が消えると、異形の体に穴が開いていた。
穴から赤い血が流れ、異形はその場に倒れた。
そして、周の背後から男が姿を現した。
男は伏している異形に対して歩き、息も絶え絶えの周の横を過ぎると、立ち止まった。
数秒が経過しただろうか、男は周に振り向かずに言った。
「これは、まだ死んでいない」
周は、自分がまだ命を失っていないこと以外の状況がまったく掴めず、ただその状況を見つめていた。
すると、異形が再び起き上がった。
男の方を向き、空気の抜けるようなシューっとした音を吐き出すと、俯き、そして、
異形の首から背中にかけての部分から肉が避けるような音が聞こえ、文字通り肉が避け、黒色の翼が生えた。
身長の2倍ほどある翼だ。黒と紫の間の禍々しい色。
鳥が翼を広げるのと変わらぬ音を立て、異形はその翼を広げた。
男に対して殺気を向けると、口を大きく開けた。
口元に黒い力が集中し、男に向けて黒い光線として放たれた。
男はその攻撃を見通したように、周とは反対の方向に飛びのいて光線を回避した。
すぐさま次の光線が放たれる。
男は飛びのいてそれを避ける。
複数回繰り返されたところで、男は握っていた剣―いや、それは刀身のない柄だけで構成された剣のようなもの、それを構えた。
鍔から青白い光が伸び、光の刀身が誕生した。長剣の光の刀身だ。
男は、黒の光線を光の刀身で受け止めた。
光線が弾丸のように立て続けに放たれると、そのすべてを剣裁きをもって光の刀身で受け止めると、光線は消失した。
男は徐々に異形に近づき、もう少しで長剣の間合いに入ろうという距離で、歩みを止めた。
そして、人間であれば心臓のあたり、異形に剣を向けると、軽やかな高い音とともに、光の刀身が光速をもって一直線に伸び、
異形を貫いた。
異形は悶え苦しむ間もなく、刀身は頭の方に移動し、そのまま首を刎ねた。
鈍い音と焦げ臭さとともに、異形は倒れた。
刎ねられた首からは赤い血が流れている。
周は、言葉も出ず、その様子を見つめていた。
力が尽きたのか、光の力への畏敬からか、体は動かなかった。
「これで死んだ」
男は言った。
男は、周の方を振り向きもせずに、異形の死骸をまぐさり始めた。
「同じ型のようだな」
翼の羽を毟って眺めている。
羽はやはり黒く輝いていた。
ひっくり返したり、首の中に手を突っ込んだりと一通り済ませたかと思うと、
周に振り返った。
一瞬の間の後、
「お前は誰だ」
男は口を開いた。
「き、気が付いたらここに・・」
「いや、もういい」
疑問を投げかけた本人にすぐに止められた。
「お前が握っているもの、それは何だ」
周は、転げ回っても決して手放さなかったもの。生への最後のよすが。青白く光る石を男に見せた。
「これは・・なぜだ。お前は一体・・。それに、その力・・」
男は、周を見ながら何やら考え込んでいる。
どうやら、すぐにこの男に殺されるようなことはなさそうだ。
周は少し考える余裕ができた。
男を見る。黒髪。うまく表現する単語を持ち合わせていなかったが、今風の男性アイドルのような髪の長さだ。身長も180cmぐらいありそうだ。日本人とも欧米人とも取れないような顔立ち。そして、なにより、美形だろう、これは。
「青年」
「・・はい」
「お前は、生きたいと思うか?」
「・・・」
「お前を生に繋ぎとめている楔があるはずだ」
「・・・」
「私についてこい」
「・・・」
「やり残したことがあるのであれば」
「・・はい」