プロローグ
空にぽっかりと浮かんだ満月は周囲の薄い雲をベールのようにまとっていた。満月が放つ光はそのベールを透して少々気味が悪いほど地上の万物を青白く照らしている。
雲が流れると地上の青白さは更に際立った。上空には雲が流れるほどの風が吹いているというのに、地上ではまるで湿気を含んだ空気が動くことをやめたかのようにあらゆる物にじっとりと重たくのしかかっていた。
「フーッフーッフーッ」
そこにいるだけで肌に水滴が浮かんできそうな蒸し暑さの中、小山のように大きな動物が青白い光を受けながら体を小刻みに震わせていた。
すっぱりと切れた首筋の傷口からは真っ赤な血がたらたらと流れ出ている。
体をつたって流れ落ちた真っ赤な血は円く大きな葉の上にたまり、その中に青白い満月を映し出していた。
熱帯雨林のジャングルの中に開けた広い草むらに、湿った呼吸音だけが響き渡る。いつもは騒がしい虫やカエルたちも今は静かだ。まるで誰もがそっと息を潜めて事の成り行きを見守っているようだ。
ジャワサイの霊主「ラノイ」はその体を一度ブルブルッと大きく震わせると短い角の生えた頭部を低くして、小さな目で真っ暗な森の中をジロリとにらんだ。
「これが悪霊主の力か……。わしの攻撃が一切通じないとはな……」
ラノイはそう言って一瞬だけ視線を地面に落としたが、すぐさま小さな目をカッと見開き、再びつぶやくように自分に言い聞かせた。
「いや、しかし何があってもわしが負ける訳にはいかぬ。負けるわけには……」
ジャワサイはサイの仲間としてはけっして大きな種類ではない。とはいえ、平均的なオスの体長は三メートル以上もあり、体重は二トンを越える物も少なくない。角は他のサイより短めで、鎧のような皮膚が特徴的だ。
ラノイはほかのオスより二周りは大きな体をしていたが、傷を負い肩で息をする姿は心なしかいつもよりずっと小さく見えた。
心臓の鼓動に合わせるようにドクドクと血が流れ出している。高温多湿のため血はなかなか止まらない。失血は体力を急激に失わせる。体をつたう血の生暖かさがラノイをいっそう不安にさせた。
草むらを取り囲むように鳥、猿、鹿そしてたくさんのジャワサイ達がラノイを静かに見守っている。今のラノイには体の痛みよりも仲間たちの視線が辛かった。
「もし霊主であるわしが負ければ、全ての仲間たちの命が……」
そう考えるだけで頭がおかしくなってしまいそうだった。
「ちくしょう。何とかしなければ、何とか……」
ラノイがそうつぶやいた時、森の中からガサリという音がして、ラノイより更に一回り大きな黒いジャワサイがヌッと姿を現した。草むらにヒヤリとした風が流れた。
ラノイを見守っていた動物達はその恐ろしげな姿に震え上がり思わず後ずさりをした。黒いジャワサイの姿は異様としか言えなかった。その鼻先にはジャワサイの特徴である短い角ではなく、一メートルほどもある長く太い角が二本も伸びていた。他にも体のあちこちに太く短いトゲのような物が十数本も生えている。大きく膨れ上がった皮膚は金属のような光沢を放ち、まるでプロテクターみたいに体を覆っている。そしてサイ独特の穏やかな目は恐ろしげに吊り上がり、真っ赤な光を放っていた。その姿はサイというよりむしろ怪獣や妖怪に近いかもしれない。
「さあ、老いぼれさんよ。そろそろ覚悟した方がいいぞ。一撃で楽にしてやるから安心しろ。苦しみはしない」
恐ろしげなジャワサイがしわがれ声で言った。
「悪霊主よ、わしを倒して何になるのだ。わしが死ねば貴様の命もないというのが分からんのか」
「ふん、そんな事は分かっている。しかしな、おれはお前の命が欲しいのだよ。理由はおれにも分からん。そう、おれの血がお前を殺せと命じているのだ」
悪霊主と呼ばれたその黒いサイはジャングルから草むらにゆっくりと足を進めた。ラノイとの距離が三十メートルあまりに迫った。
ラノイは喉がカラカラになっているのに気付き「ゴクリ」と唾を飲んだ。いつの間にか口の端には白い唾の泡が付着していた。
「みんなの前であの醜い姿を晒したくはないが、こうなっては仕方あるまい……」
舌で唾の泡を舐め取りながらラノイは考え、悪霊主の動きを探り始めた。
その時だった。
「父さんっ」という大きな声と共に一頭のジャワサイが群れの中から飛び出した。悪霊主やラノイに比べれば小柄に見えるが体長三メートルを越えた大きな若いオスだ。目は血走り冷静さをすっかり失っている。
「うぉぉ」と唸り声をあげた若いオスは、鼻面を低く下げ角を突き出した体勢をとって悪霊主に突進を始めていた。
この強烈な体当たりをまともに食らえば大抵の動物はひとたまりもない。ちょっとした大木なら根元からへし折ってしまうほどのパワーは十分にありそうだ。そう、例え象だって無傷ではすまされないだろう。
その声に気付いた悪霊主は足を止めて突進してくる若いサイを赤く冷たい目でジロリとにらみ、そしてニヤリと笑った。
「死ねぇっ」
「シャマルやめるんだっ」
ラノイの悲鳴にも似た叫び声が響く中、巨体と巨体が「ドムッ」と鈍く大きな音を立ててぶつかった。さすがの悪霊主もシャマルの体当たりをくらって数十センチほど体を横に滑らせた。そして一瞬時が止まったかのように二頭のジャワサイは動きを止めた。
シャマルの体当たりは完璧だった。サイの中には思わず「やった」と声をあげる者もいたくらいだ。
「いくらあいつが頑丈でも横っ腹を角で突き刺されたのではひとたまりもないだろう」
周りで見守っていた動物たちは誰もがそう思った。しかし、次の瞬間シャマルの前足がガクリと揺らいだ。そして次にガクガクと震えていた後ろ足から力が抜けた。シャマルは四本の足のひざを折ると次の瞬間には「ドオッ」と大きな音をたててその場に横倒しとなった。
シャマルは体当たりの衝撃を全て自らの頭と首に受けて失神していた。サイのシンボルとも言える角は根元からボキリと折れ、口からは血の混じった泡を吹いていた。
一方、体当たりを食らった悪霊主はケロリとした顔だ。「フン」と鼻息を吹き、体に力を入れると横っ腹にめり込んでいたシャマルの折れた角がボトリと地面に落ちた。
「少しも効かぬな」
悪霊主は平然とした表情で倒れたシャマルをにらみつけると、その長い二本の角をシャマルの巨体の下に滑りこませて巨体を一気に持ち上げた。そして首をブンと振って、まるで小さなウサギを扱うかのごとく二トン程もあるシャマルを空中に放り投げた。
「シャマル!」
ラノイの悲痛な叫び声が響く中、シャマルの体は空中を飛び、「グチャ」という嫌な音を立ててフタバガキの大木に激突した。根元からばっさりと折れたフタバガキは地面に落ちた血だらけのシャマルの上に覆いかぶさった。見ていた動物たちは声を失った。
「さて、とんだ邪魔が入ったな」
軽く首をかしげるような素振りをしながら悪霊主が言った。
「よ、よくもわしの息子を」
「ほお、お前の息子だったのか。そいつは気の毒な事をした。しかし、あまり気にするな。どのみち後十分ほどでみんな死んじまうのだ」
「許さん」
「ほお、どうしようというのだ」
「行くぞっ」
ラノイは一度息を止めてから口を大きく広げ「ぐぉぉぉぉ」と大きな雄叫びを上げた。すると首筋からの流血がピタリと止まり、それを機にラノイの周りで空気の流れが変わりはじめた。周囲の空気がゆがみ、地面から湯気のような闘気が立ち上った。闘気は「シュゥゥ」と音をたてラノイの体に吸い込まれ、闘気を吸収したラノイの体は徐々に変化を見せ始めた。角は「ミキッミキッ」と音を立てながら倍ほどにも太く長くなり、鎧の厚さも増した。元々がっしりしていた足や首も更に太くなった。
その姿は悪霊主にこそ及ばないがちょっとした装甲車のようだ。目尻もぐっと吊り上がり、元々の穏やかな優しい目とはすっかり別物に変化していた。
少し悪霊主にも似た恐ろしげな姿となったラノイは一度ブルブルと身震いをすると、叫び声をあげながら目をギラリと青白く輝かせた。
「ほお、特殊能力か。しかし、そんなちんけな体でおれに敵うと思っているのか」
「うるさいっ」
怒りに我を忘れたラノイは、前足で二度三度と地面を掻いて草と土を巻き上げた。
やがてラノイの怒りは頂点に達した。「バチバチッ」という音と共に、突如白い炎が燃え上がり体を包み込んだ。
「グヒヒヒ、火炎身と来たか。そう来なきゃな。じゃ遠慮なくこちらも行くぞっ」
ラノイの変化を見届けていた悪霊主は、嬉しそうにそう言うと、自らも「ふんっ」と唸って気合を入れた。悪霊主の大きな体がビクビクと震え出した。
「グギャゥウウ……ブギャググ」
悪霊主は苦しそうに口を開け奇声を発した。そして「メリメリ」という音を立てるとラノイ同様に変身を始めた。前足と後ろ足はみるみるうちに長さを増し、胴体はふた周りも細まった。更に前足にはまるで人間や猿の手のように指が伸び、終いには二本の後ろ足だけで直立した。
変化の具合はラノイの比ではない。奇声をあげてからわずか数秒の間に悪霊主は人間とサイの半獣半人の怪物に姿を変えていた。
「正体を現したな化け物め」
怒りに震えるラノイが大声で言った。
「くくく、そうさ化け物さ。お前と同じだ」
悪霊主はそう言い返すと、次に体から赤い炎を発した。
白い火の玉の中にはラノイが。そして赤い火の玉の中には邪悪な悪霊主の姿があった。二頭の炎は草原を昼間のように明るく照らし出した。
ラノイの白い火の玉はどんどん勢いを増し、やがて火柱は周囲の木々と同じくらいの高さまで燃え上がった。そして巨大な火の玉と化したラノイは信じられないような猛スピードで悪霊主に突進を始めた。続いて悪霊主も角を低く下げて体当たりの体勢をとった。そして赤い炎を大きく燃え上がらせながらダッシュした。
一瞬の出来事だった。火山が爆発したような大きな音をあげて二つの巨大な火の玉はぶつかり合った。大量の火の粉が飛び散った様はまるで打ち上げに失敗した数百発の花火が地面で爆発したかのようだった。二つの火の玉は草むらの中央でひとつになりゴオゴオと激しく燃え上がった。
突然太陽が地上に降りて来たような明るさに満月の光はすっかりかすみ、周囲で二頭の戦いを見守っていた動物たちは思わず目を瞑った。沈黙が十秒ほど続いた。
「どっちが勝った?」
そんな声が聞こえた。
目を瞑っていた動物たちがようやく薄目を開け始めた。火の玉はまだ十メートルほどの高さまで火柱を上げゴオゴオと音を立てている。
やがて炎は徐々に勢いを落し、中から悪霊主とラノイの影が姿を現した。そして炎が更に小さくなると動物たちは「あああぁ」と長嘆の声を漏らした。
炎の中でラノイは悪霊主の長い二本の角に体を貫かれ、口から血を流しながら体をピクピクとけいれんさせていた。傷口からは水道の蛇口をひねったかのように赤黒い血が流れ出ていた。一方、悪霊主はラノイを角に刺したまま仁王立ちしている。
「ラ、ラノイ様がやられた」
目の前で起きた惨劇に動物たちが愕然としている中、血で顔を真っ赤に染めた勝者がゆっくりと口を開いた。
「おいラノイよ、おれが間違っていたよ」
「な、なんの事……だ」
ラノイは血が溢れ出る口をようやっと開いて小さな声をあげた。既に声に生気はなく、敗者の惨めな運命を悟っているかのように哀れで弱々しかった。
「さっき、お前らがくたばるまで後十分と言ったが、実際は二分も持たなかったな。まさかお前がここまで弱いとは思わなかったのでな」
悪霊主はそう言ってからペロリと舌を出すとラノイの血を美味そうに舐め取った。
「み、みんな、すまん……」
ラノイの目はサイ独特の穏やかな優しい目つきに戻っていた。そしてその目からボロボロと涙をこぼしながら必至に声を振り絞った。次に一瞬ビクリと体を震わせたかと思うと、四肢をけいれんされ白目をむき、口からダラリと舌を垂らした。やがてけいれんが収まるとラノイは串刺しにされたままピクリとも動かなくなった。
「たわいもない」
悪霊主は首を振ってラノイから角を抜いた。「ドオッ」という音と共にラノイの巨体が地面に落ちた。
同時にラノイの体に変化がおきた。輪郭がぼやけ出したかと思うと、体が徐々に透明になり、そしてまるで地面に吸い込まれるかのように「すうっ」と姿を消してしまった。周囲にできていたはずの血だまりもいつの間にか見えなくなっていた。
それを確認した悪霊主は「さあ、これで全ての世界のジャワサイが滅びる事になった。おれの役目もここまでだ」と高らかに声をあげた。
草むらに集まったジャワサイ達が震え上がったのは悪霊主の声が不気味だったからではない。
「ああ、ラノイ様が」
「おれたちも消えちまうんだ」
そんな声があがったのも一瞬の間だけだった。まず、草むらの中央から最も近いところにいた一頭のサイの体が突然透明になり始めた。
「消えるのは嫌だ!た、助け……」
そう言いかけながらそのサイはラノイと同じようにすうっと姿を消した。今までそのサイに踏まれていた草が姿を現しフワリと持ち上がった。
それを皮切りに草むらにいた数十頭のジャワサイ達は次々とラノイと同じように姿を消していった。オスのサイもメスのサイも、小さな子供のサイも。消え入るような悲鳴をあげながら。
ここの草むらだけではない。森の中にいたジャワサイも、遠くの島にいたジャワサイも、全てのジャワサイが次々とこの世界から姿を消していった。 今までジャワサイと一緒にいた猿や鹿、猪たちは目を見合わせ、恐怖のあまりその場から逃げ出してしまった。
「そうだそうだ、みんな消えろ。みんな消えてしまえ。ウアハハハハ」
血に染まった悪霊主の笑い声が草むらに響いた。
シャマルの遺体の上にかぶさっていたフタバガキの大木がバサッと音を立てた。下敷きになっていたシャマルの遺体が消えてしまったためだ。
やがて最後の一頭が姿を消した後、悪霊主はガクリと地面にひざをつき、その場にバタリと倒れこんだ。倒れてもがき苦しみながらも「くくくく」と笑っている姿は無気味としか言いようがない。
悪霊主はしばらくの間、白目をむいて口から緑色の泡を吐きながら四肢を震わせていたが、やがて舌を出して「ぐぇぇぇ」と気味の悪い声をあげるとパタリと動かなくなった。
少し経つと悪霊主の大きな体はシュワシュワと泡を立てて溶け始め、中から白骨が姿を現した。白骨は次の瞬間には砂のようにボロボロと崩れ始め、その砂は突然吹き始めた風に乗って飛び散ってしまった。
辺りが静けさを取り戻し、虫たちが鳴き声を上げ始めた時、そこにジャワサイという生き物が存在した痕跡は一つもなく、満月の青白い光に照らされた草むらには大きな焼け焦げだけが残されていた。