偽女王編 3章
「かぁ……はぁ……っ」
視界が眩む。波にさらされた船が揺れ、真っ直ぐ立つことが出来ない。
「ゲホ…っ」
口から咳とともに血が出る。切り傷はないが、身体中が強い打撲によって燃えるように熱い。
「……ヨベル様、こういうのもなんですが、そろそろ降伏した方がいいんじゃないですか?」
「………っ」
その問いに返事することなく、ヨベルは眩む視界の中で捉えた彼をめがけて踏み込む。
スッ
オールを振りかざすが、そこは何もない空虚で――、
ズンッ
「がぁああッ」
背中に強い痛みを感じて声を上げる。ヨベルの攻撃を避けたクリフォードが入れ違いに一振り浴びせたのだ。
ドズン――。
周囲に巻き起こる疾風と、床に体を引きずらせたことで舞い散る木の屑。
「……っ……ぐ」
「ですからヨベル様、貴方はもう真っ当に戦える身体じゃないんですよ。これ以上の戦闘は無意味ですって」
「……せん……」
「え?何ですか?」
「……降伏は……しません……っ」
言いながら痛む身体を叩き起こし、再びクリフォードに向けて踏み込む。
ズン、バンッ――。
クリフォードはヨベルの一撃を軽く受け止め、オールの軌道を外すと、すぐに自分のオールを持ち替え横から彼を弾き飛ばす。
「がぁ…ッ」
再び地面に叩き付けられるヨベル。
「ゲホッ、ゲホッ」
今度は多めに吐血をする。体内の損傷が激しく、誰が見ても明らかに身体の限界が来ているのだ。
「……もう一度だけ勧めておきますけど、降伏してもらえませんか?」
「――続きを……っ……ゲホッ」
「……そうですか」
ヨベルは立ち上がろうと身体に力を籠めるが、どうしてかうまく力が入らない。こんな時に地面に這いつくばっている場合じゃない。早く、早く立ち上がらなくては。
「私は…まだ…戦え……っ」
こんな弱いはずがない。人々が見てるんだ。カルデリア王国の親衛隊隊長は、こんなにボロボロに負けるはずがない。そんなのは許されない。許されないんだ。
「――降伏するわ」
凛とした声が響いた。顔を上げれば、そこには綺麗に着飾っていた彼女――ソランが居た。
「……!」
そして彼女の頭上には、クリフォードのオールが今まさに振りかざされようするところだった。鈍っていた身体の感覚でも、その強烈な殺気に気づく。……自分に、容赦なく振りかざされるはずだった武器だ。
「お願い、これ以上はやめて」
「…………はぁ。全く」
クリフォードがオールを下してため息をつくと同時に、その殺気は消え去った。
「代わりに主が降伏を言いに来るとは…、まぁ、これで終わりにしましょう」
……私は、庇われた?…また?
起き上がれない身体のまま、見上げる景色は本当に惨めなものだった。庇うように自分の前に立つソランに、やれやれと言ってクリフォードはこの場から去ろうとする。
「クリフォード、待…っ」
「――ヨベル様」
ヨベルの呼びかけに足を止めるが、彼は振り向かずに言葉を続けた。
「よく考えて下さい。引き際も分からずに仕える主に恥をかかせるなんて、最低ですよ」
「!…っ」
「最初の一撃であなたの実力は把握できました。それは貴方とて同じはずです。その後の茶番は試合でもなんでもありません。ただの貴方の意地です。……貴方のとこの姫様が利口じゃなければ、そのうち俺に殴り殺されてましたよ」
「………っ」
何も、何も言い返せなかった。目頭が熱い。身体中が焼けるように痛いのに、それ以上に胸の中が苦しかった。
「クリフ、言葉が多い。帰るわよ」
いつの間にか隣まで来ていたアリスが、クリフォードの袖を引っ張る。
「はいよ。……すいませんね、なんだか、同じ従者として、彼の馬鹿加減にいらついてしまいましたので」
その言葉は、アリスに言ったのか、ソランに言ったのか、それともヨベル自身に言っていたのか…。それだけを残して、クリフォードはアリスと共に船内へ戻っていった。
『可哀想に、クリフォードの相手をしてきた人の中で一番酷い有様じゃない?』
『そりゃ、彼が馬鹿みたいに引かなかったのがいけなかったんだろう』
『彼、あの大国カルデリアのとこの従者ですって』
『主に庇われるなんて、カルデリアも落ちたものだなぁ…』
遠巻きの見物客たちの声が、嫌というほどに耳に入る。起き上がれない身体で、床の木材の屑を吸い込んで、口に満ちた血を飲み込んで、こみ上げてくる涙を抑え込んだ。――夜風が冷たい。
「……ヨベル」
ふと、動かなかった身体が起こされて、暖かいものに包まれる。
「!……ウンリア様……いけません」
ソランが彼を抱きしめていたのだ。周りの目があるというのに。
「馬鹿……っ。馬鹿っ」
「………」
彼女の馬鹿という言葉が、クリフォードのものと違って優しさが籠ったものであることはすぐに伝わってきた。彼女の体温も、抱きしめる力も、締め付けられているような自分の胸には酷く心地良かった。
「失礼します、カルデリアのお客様方。……医務室をご案内いたしましょうか」
この事態を見ていたダヌ帝国の使者が二人に話しかける。
「……いえ。ヨベルを彼の客室に連れ戻します。そこに医療器具を持ってきてください」
あまり口を挟まないよう気を付けてきたソランだったが、この時ばかりは意志をもって主張していた。
「では、医者をお連れしていきますね」
「いえ、結構です」
「……では、一体どなたが手当てをなさるのです」
ソランは一瞬言葉に詰まる。しかしすぐに、その答えとなる言葉を紡いだ。
「………彼自身に医学の知識があります。私の従者ですから、自分で自分の傷の手当てくらいできます」
「かしこまりました。では、医療器具のみお持ちいたします」
そう言って、ダヌ帝国の者はその場を去った。
*
「医療器具をお持ちしました、お返しは結構ですので、お好きなだけお使いください。…では、失礼します」
包帯や塗薬や鎮痛剤など一式おいていったダヌ帝国の使者は、静かに客室を出て行った。
「船の客室って、思ったよりも大きくはないのね」
ベットと、ベットと同じくらいの面積の床スペースがあり、そこに椅子と小さなテーブルが一つあるだけだったのだ。
「……ウンリア様の部屋の方は、ここの倍以上はあるはずですから」
「いや、こっちの方が落ち着くんだけどね」
「………」
喋ると傷が痛むのか、先程からヨベルは大した話をしていない。
「さて、と」
ヨベルをベットに座らせると、先程使者が持ってきた医用器具をソランは漁り始める。
「……ウンリア様は、お部屋にお戻りください。自分で…、やりますから」
「……え?」
「ご自分でおっしゃっていたじゃないですか、私が、自分で手当てをすると」
その言葉を聞いて、ソランは少し困った顔になる。
「…あれくらい、誤魔化すための言い訳だって、分かっているだろう?」
「……」
医療については、確かにヨベルは医者を出し抜くほどの知識と腕前を持つが、主に外傷に関してはソランもまたかなりの書物を読み、直接ヨベルから学んでいて、信頼するに値する器用さを兼ね持つ。
「自分の身体は自分では網羅できないだろう?人にやってもらった方がいいに決まっている。ダヌ帝国の医者に任せられないのは…まぁ、そこまで信頼できないからだけど…」
「――大丈夫ですからっ!……お戻りください」
言ってしまってから、ヨベルははっとした。まるで主君を突き放すような言い方だったからだ。
「…も、申し訳ございません。私は…」
ぎゅっ
弁明しようとした矢先に、ヨベルは言葉を失った。
ベットから上半身だけを起こしていた彼を、ソランは抱きしめていたのだ。
「…あ、あの……ウンリア、様」
「大丈夫。鍵は閉めてあるし、中の様子は誰も分からない」
「そうではなくて、その…っ」
「大丈夫、大丈夫だから」
「!…っ」
少しきつく抱きしめていた彼女の意図を、その時ヨベルは初めて読み取った。
――泣いても、大丈夫だと。
――誰も、見てないんだと。
「……っ……」
なんて、情けないんだろう。仕えている主に、ここまで気を遣わせるなんて。…だけど。
「甘えても、いいと言うのですか」
「……甘えじゃないよ、ヨベル」
「……」
あくまで抱きしめたまま、お互いに、顔が見えないまま会話は繰り広げられる。
「貴方は私に、私のままでいていいと言ってくれた。誰がなんと言おうと、世界で一番素敵な女性だと言ってくれた」
「!……そ、それは…その」
先程甲板で思わず口走ってしまった台詞だった。思い返すだけで消えてしまいたくなるくらいに恥ずかしかったが、そんなヨベルに構うことなく、彼女は続けた。
「だから、私も言うわ」
彼女のぎゅっと抱きしめる力が少しだけ強くなる。服越しでも熱いほどに伝わってくる彼女の体温。部屋を微かに占めつくす彼女の香り。耳元で響く凛として優しい声。ヨベルは、この時五感をもって彼女のことを感じ尽くしていた。
「貴方は、惨めなんかじゃない。情けなくなんてない。誰がなんと言おうと、貴方はたった一人の私の騎士。私は貴方以外に、従者はいらない」
「…っ!」
それは、ヨベルの心を鷲掴みにするには、少し強すぎるくらいの言葉だった。
「貴方とのダンスがすごく楽しかった。貴方と過ごした日々も…。お城暮らしなんて私にはちっとも向いてなかったけど、貴方がいたから、貴方が私の従者だったから、ユーシティ城は私の帰る場所だと思えられた。王族らしいこと何一つできなくたって、貴方は私の事を慕ってくれた。女性らしい振る舞いを何一つしてこなかったって、貴方は私の事素敵だって言ってくれた」
「…ウン…、リア…様」
この時ほど、ソラン様と呼べないことを悔やんだことはない。それくらいに、ヨベルにとってソランが特別な存在になっていたのだ。
「私は貴方がいい。貴方が誰に負けようと、何を言われようと、……私は貴方がいいんだ」
「……っ」
思わず、堪えきれない涙がこぼれ落ちてしまった。泣いたのはいつぶりだっただろうか――。いや、思えばそもそも、彼女の懐以外で泣いたことはなかったのだ。
「く……っ……」
涙は見られたくなかった。声を上げることもしなかった。…ただ静かに、背中を震わせていた。恐らく彼女には伝わってしまっているのだろう。だが彼女もまた、何も知らないかのように、抱きしめた手を離すことはなかった。
――この体勢では、泣いている酷い顔は見られなくて済むのだから。
「………少しだけ」
「え?」
「…少しだけ、このままウンリア様に身体を預けても宜しいでしょうか」
「……うん。気が済んだら、ちゃんと手当てをさせてよね」
「はい。……ありがとう、ございます……」
どうしてか、彼女のこの柔らかく心地よい身体を、一生手放したくないような感情が沸き起こった。それはヨベルにとってかつてない、見知らぬ気持ちだったのだ…。