兄貴
「刑事さん。砂糖はいくつです?」
弘志は台所の奥から声をかけた。
「――結構です」
県警の刑事である清水は、汗を拭いながらそう答えた。
1LDKと言う作りだろうか、一人暮らしにしては綺麗に片付いている部屋である。
「おまたせしました」
弘志は、お盆にコーヒーを三つ載せ、清水の待つテーブルにやってきた。
「はい、刑事さん」
清水の前にコーヒーを置く。
「どうも……」
「はい、これは兄貴の。砂糖ふたつだったよね?」
兄貴と呼ばれた男は黙ったままである。
清水は、兄貴と呼ばれた男の方を見つめてさらに汗を拭った。
「どこまで話しましたっけ?」
「君の彼女が怒って帰った……」
清水は落ち着いた声でそう答えた。
「そうそう、早智子さんが怒って帰って……」
――三日前……
「頭おかしいんじゃないの?」
早智子はドアを勢いよく閉めて出て行った。
「待ってくれよ! 早智子さん」
弘志は途中まで追いかけたが、すぐに振り向いて部屋に残っている男に怒鳴った。
「どうしてだよ! なんで早智子さんじゃいけないだよ!」
「兄貴はいつもそうだ。僕の邪魔ばかりして……」
男は黙ったままである。
「なんで兄貴なんかいるんだよ!」
「兄貴さえいなければ……兄貴さえいなければ……」
弘志は男を押し倒し、首を両手で力強く絞めた。
「兄貴さえいなければ……兄貴さえいなければ……」
男は特に抵抗する様子も無く、ゆっくりと目を閉じた。
弘志は突然我に返った。
今まで男が居た場所には誰も座っておらず、コーヒーカップだけが湯気を立てている。
「そうだ……僕が殺したんだ……僕が兄貴を殺した……僕が兄貴を殺した……」
「落ち着くんだ、弘志くん」
「うわー! 僕が殺したんだ! 僕が殺したんだ!」
弘志は半狂乱状態でテーブルのコーヒーカップを手で払い除けた。
コーヒーカップが床に落ちて砕け散る。
「落ち着け! 落ち着くんだ弘志くん!」
清水は暴れる弘志を押さえ込んで叫んだ。
「君はお兄さんを殺してなんかいないんだ!」
「え?」
弘志は暴れるのをやめ、しばらく沈黙する。
「正確に言うと、君のお兄さんは初めからこの世にいなかったんだよ」
弘志は、清水が何を言ってるのか理解できなかった。
清水は、おとなしくなった弘志から手を離した。
「君からお兄さんを殺したと言う電話を受けて、ちょっと調べさせてもらったよ」
「実は、君は双子だったんだ」
弘志は、わけがわからないと言った表情で清水の顔をじっと見つめた。
「しかし、君のお兄さんは産まれてきた訳ではない」
「母親のお腹の中で君のへその緒がお兄さんの首にからまり、君のお兄さんは亡くなった」
「君はそれを自分のせいだと思い込み、罪の意識からお兄さんが生きていると思い込こんでいただけなんだ」
「そんな馬鹿な……」
弘志は愕然とした。
「いままで兄と暮らしてきた記憶はすべて幻だって言うんですか?」
「そう言う事になるな……」
弘志は、いまだに信じられないと言った様子で呆然としている。
「実際に殺人が起きていない以上、私の出る幕は無さそうだし……」
「引き上げさせてもらうよ」
清水が帰ろうとした時にその声は聞こえた。
「弘志……」
「兄貴?」
先ほどの席に男が座っていた。
「弘志……なぜ俺を殺した?……」
「兄貴……ゆるしてくれよ……しかたがなかったんだ……刑事さんも言ってたでしょ……これは事故なんだよ」
男はゆっくりと立ち上がり、弘志の首を両手で締め付けた。
「兄貴!やめてくれよ……苦しいよ……」
弘志は男を払いのけ、逆に男の首を締め付けた。
「兄貴、頼む……これ以上僕を苦しめないでくれ……」
弘志は更に両手に力を込めて首を絞め続けた。
「兄貴……ゆるしてくれ……」
男はぐったりとして動かなくなった。
しかし、その場所には目を剥いて倒れている清水の姿があった。
弘志は両手を見つめて震えながらつぶやいた。
「僕はなんて事を……」
弘志は放心状態でその場に座り込んだ。
その時、突然背後から声がした。
「弘志……」
弘志が振り返ると男が笑顔で立っている。
「弘志、また一緒に暮らそうな」
「兄貴!僕をゆるしてくれるのか?」
弘志は泣きながら男に抱きついた。
「ごめんな兄貴……もう兄貴を邪魔だなんて思わないよ……」
1LDKの居間、一人で泣きながら立っている弘志の足元で、清水の死体がじっと天井を見つめていた。
――完――
この話は、昔、ボクが俳優養成所時代にドラマを自主制作しようとして、個人的に書いた脚本を思い出しつつ小説に書き直したものです。