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楽土  作者: 雨咲はな
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 アルとディーが一緒に暮らすようになって、一カ月が過ぎた。

 その間、なにもアルだって、ディーにせっせと文字を教えることだけをしていたわけではない。イーガルにうるさく言われるまでもなく、ディーの引き取り先については頭を悩ませてもいたし、ちゃんと探してもいたのだ。

 ……しかし、ねえ。

 身寄りのない子供の行き先として、まず最初に思い浮かぶのは、やっぱり孤児院だろう。かくいうアルも親と死に別れてから数カ月ほど、孤児院にいたことがある。

 短期間であったとはいえ、その経験を踏まえて言えるのは──


 孤児院というのは基本的に、弱肉強食の世界である、ということだ。


 孤独な身の上同士、互いを労わり合い肩を寄せ合って仲良く暮らす、などというのははっきり言って建前で、実際のところ、そこでの力関係は外よりもずっとシビアだったりするのである。

 強いものが上に立ち、弱いものは虐げられる。

 孤児院なんてのは大体がお偉いさんからの善意の寄付で成り立っているものなので、どこも財政は決して豊かではない。食糧事情も良いとは言えず、院によっては孤児の死亡率がやけに高いところもある。

 大勢の子供たちの世話に追われるのは少数の職員で、とてもではないが隅々まで目が届かず、常に忙しさで苛々しており、権力を振りかざすばかりで母性とは縁がない。

 子供たちは子供たちで、少しでも自分の取り分を増やすことに心血を注ぎ、大人たちの監視をかいくぐる悪知恵ばかりが身につくようになる。食いっぱぐれれば飢えるのは自分なのだから、そりゃもう必死だ。

 陰険な暴力もあれば、疎外もある。人から見下され、弱い立場にいるからこそ、悪辣さも覚えていく。孤児院というものが悪いのではなく、それだけ現在の社会が未成熟で、すべてにおいて余裕がない、ということなのだろう。

 未成熟で余裕のないこの国には、親がいても貧しい家庭はいくらでもあるし、寒くなると毛布の一枚すら買えずに一家揃って凍え死んでしまうケースだってある。

 イーガルは、そういう現状に我慢がならなくて、盗人稼業をはじめた。盗んだ宝石や美術品を換金したあとは、そのごく一部を手数料としてとっておき、残りは全部、今日の食べ物にも事欠いているような人たちのもとへと流しているのだ。

 金の余っているやつは、それを貯め込んでいるだけで使おうとはしない。たまに心の優しい金持ちがいても、それをどこぞに廻すためにはいちいち理由や口実や面倒な手続きが要る。そうしている間にも、誰かがどこかで死んでいるかもしれないのに。

 だからそれを代わりに手っ取り早くやってやろう、というのがイーガルの主張だ。まあ、それでも犯罪であることには変わりはないので、捕まれば禁固刑か縛り首が待っているわけだが。

 そんな金でもなんとか命を繋げられた、というような貧困に喘ぐ人々に比べれば、一応最低限の衣食住が与えられている孤児院は、まだマシなのかもしれない。

 しかし、二、三の孤児院を廻ってそっと見学してみたアルは、あまりにも昔と変わらない状況を目にして、気分が悪くなってしまった。自分が子供だった頃に受けた仕打ちを思い出し、腕や背中がちょっと痛くなったくらいだ。

 劣悪な環境でも、しぶとく雄々しく生き抜いていこうとする子供たちの姿には、それはそれで感嘆するような気持ちも湧く。孤児院出身でも、まっすぐ育つ人間もいれば、屈辱や怒りをバネにして大成する人間もいるだろう。

 しかし……しかし、なあ。


 ディーをこんなところに入れたら、すぐに死んじゃいそうだよなあ。


 なにしろディーは、自分の意志というものをほとんど持っていない。ぼーっとしている間に自分の分の食事も他の子供に横取りされて、栄養失調になるのが簡単に目に浮かぶ。ただでさえあんなに痩せているのに。

 自己主張をまったくしないディーが、弱肉強食の世界に入れば、たちまちド底辺の位置に納まるのは自明の理であるように思えた。あれをしろこれをしろという命令や指示に、ひとつも逆らわずに従っていたら、そのうち疲労困憊して、やっぱり死んじゃうんじゃないだろうか。

 そんなことばかりを考えていると、どうにも踏ん切りがつかない。

 せめてもうちょっと文字を覚えるまで、もうちょっと世間知ってやつを身につけるまで、もうちょっと野生の猿から人間に進化するまで──と思っているうち、引き取り先を見つける作業は、ずるずると先延ばしになっていった。




 それでもディーは、少しずつだが着実に、アルが教えることを吸収していっている。

 今まで知識を与えられていなかったから何も知らないだけで、ディーは決して頭が悪いわけではなかったのである。態度は素直だし、やれと言われればちゃんとやる。呑み込みも悪くない。

 この分なら、さほど時間をかけずとも、読み書きくらいは出来るようになるだろう。

 だとしたらあとは何が必要か、とアルは考える。

 この痩せた身体をなんとかする、というのが優先課題だというのは判っている。しかしディーはそもそも、非常に食の細い子供なのだった。食べろと言えば食べるのだが、その後で身動きできないほど苦しそうにしているのを見ては、こちらの罪悪感がハンパない。出されたものはなんでも食べるものの、それは「好き嫌いがない」というよりは、好きと嫌いの違いがよく判っていないだけのように見えた。

 困って隣のアイダに相談してみたところ、

「そりゃあんた、ぜんぜん体力を使ってなきゃ、お腹だって空くはずがないだろうよ。あの子、日がな一日、ソファでじっと座ってるだけじゃないか!」

 と叱り飛ばされて、そういやそうだと気がついた。

 部屋の中で大人しく座っているだけでは、あの暗い地下にいるのとそう変わりがない。体力を使う云々の前に、まずはもっとディーを陽に当ててやらなければいけなかったのだ。

 というわけで、早速、外に出してみた。

 家の前に椅子を置いて、そこに座ってなと言い含めた。そうしたら、ディーは本当にそこから動かず二時間以上も座ったままで、あやうく日射病を起こしそうになった。アイダには、ものすごく怒られた。

 遊んできていいんだぞ、と言っても、ディーには「遊ぶ」というのがどういうことか判らないようで、きょとんとされるだけである。しかしまさかアルが鬼ごっこのやり方を実地で教えるわけにはいかない。大の男が幼い子供を追いかけていては、どう考えても捕まるのはアルのほうだ。

 そこで、近所の子供のグループに入れてもらえないかと頼んでみた。

 グループのリーダー格は、ジェイという十歳の男の子である。腕白坊主だが、闊達で、性格もいたってさっぱりしている。間違っても、年下の女の子をからかって楽しむ性分ではない。

 アルの頼みに、ジェイは、はあ? という顔をしながらも、まあいいよと請け負って、ディーの手を取り、遊び場へと連れて行ってくれた。もちろん、アルもこっそりあとをついていった。

 引き合わされた他の子供たちは、遊びの輪に入れるのは承諾したものの、ディーがあまりにも何も知らないので、相当戸惑っているようだった。そりゃあなあ、無理もないよなあ、とアルも思う。

 一応、ルールを説明されれば理解は出来るようなのだが、走れば遅いし、体力がなくてすぐに息切れするし、勝とうとか一番になろうとかの欲がディーにはまったくないので、なかなか他の子供たちとのペースが合わない。

 ジェイがなにかと庇ってくれるので助かるが、そのうち苛めの対象になってしまうんじゃないかと、見ていて気が気じゃなかった。

 建物の陰に身を隠し、ハラハラしながらディーを見守るアルに、

「……お前、アホだな」

 と、イーガルがしみじみした口調で言った。



         ***



 アルの仕事は基本的に家でやることが多いのだが、外に出ていくこともよくある。

 そんな時、ディーは一人でお留守番だ。

 不在の時間が長くなる時は、隣のアイダおばさんが時々様子を見に来てくれる。一人で大丈夫かい? と問われて、意味がよく判らないながらも、毎回、うん、と返事をした。

 ディーはいつも地下の部屋で一人だった。だから、何が「大丈夫」なのかが判らない。静かな部屋でじっとしているのは、ディーにとっては普通のことでありすぎて、特になんとも思わなかった。

 他に誰もいないしんとした室内で、アルが買ってくれた絵本を、たどたどしく読む。

 読み終わったら、最初のページに戻って、もう一度読む。

 それを五、六回繰り返して、ようやく手を止める。

 窓から差し込んでいた明るい太陽の光は、だいぶ翳ってしまった。火を扱うのは禁じられているので、暗くなったら暗いままで、ディーは大人しく待ち続ける。暗闇は昔から慣れ親しんだ友のようなものだ。怖いと感じたりはしない。

 いつもの定位置であるソファに座り、アルの仕事机を見る。


 そこには、誰もいない。


 毎日のように眺めているその背中を思い出したら、なんだかちょっとお腹の上のあたりがもぞもぞした。たくさんご飯を食べすぎた時のような、変な感じ。喉のところまで何かが詰まっているようで、息苦しいのに、吐き出すすべがディーには判らない。

 その時、ギッ、と音を立てて扉が開いた。ディーは思わず、跳ねるようにしてソファから飛び降りる。

「悪い、遅くなった」

 走ってきたのか、息を切らせたアルが顔を覗かせた。いつもの黒髪、いつもの顔、いつものアルだ。不思議と、自分の中に詰まっていた何かがすーっと抜けていく感覚がした。

 ととと、と小走りでアルの許へと駆け寄っていく。

 えーと、えーと、なんて言うんだっけ、こんな時。アイダおばさんが、帰ってきた旦那さんに向かって言っていた言葉。

 あ、思い出した。

「おかえり、アル」

 そう言うと、アルが目を細めた。大きな掌がディーの頭の上にぽんと置かれ、くしゃりと掻き回す。

「ただいま、ディー。飴玉買ってきたんだけど、食うか?」

 ディーはこっくりと頷いた。飴は好きだ。ぽんぽんと胸のあたりが弾むような気持ちになるのは、そのためだろうか。

 暗くなりかけた部屋の中が、アルが入った途端、一気に明るくなった気がした。

 ふわふわと足が浮くような気分。さわさわと背中を撫ぜる温かいもの。お腹の中で踊っている何か。

 その感情の名前を、ディーはまだ知らない。




 ある時はめまぐるしく、ある時はゆっくりと、日々は過ぎていった。

 わりとしょっちゅう顔を見せにくるイーガルのおじさんは、ディーがこの家に来た最初のうちこそ、アルに対して渋い顔であれこれ文句を言っていたが、最近ではそれもめっきり聞かなくなった。いつもディーにお菓子をくれるため、逆にアルのほうから「虫歯になる」「夕飯が入らなくなる」と怒られてばかりだ。

 二人は、よく顔を近づけて、ひそひそと内緒話をしている。

 なんの話をしているのか判らないし、興味もないので、ディーはそんな時、絵本を見ているか、文字を書く練習をすることにしていた。たまにアルの目が、確認するようにこちらをちらっと向くので、きっとそれでいいのだろう。

 二人の会話には、「エルドラン公」という言葉がよく出てきた。


「……今までのところ、騒ぎ立てている様子はまったくないらしいが……」

「……そりゃそうだろ、だって……」

「……しかし、秘密裏に探し廻っていないとも限らんし……」

「……今さらだね。見たとしても、ここにいるのがあの子供だって気づくもんか。最近はぐんと健康的な顔色になってきたし……」

「……だからって、お前……」


 ひそひそ、こそこそ。

 二人して、声を潜めて話しては、ちらちらとディーに視線を送る。その目にはどこか不安そうな色、怒っているような色が浮かんでいるように見えて、ディーもなんとなく落ち着かない。意味もなく足を揺らしてみる。

 結局そういう話は、アルが「もういいだろ、この話は」と不機嫌そうに打ち切って終わりを迎えるのが通常だ。

 そして、イーガルのおじさんは、やれやれとため息をつくと、ようやくちゃんとディーのほうを向いてくれる。

「ディー、焼き菓子を買ってきたんだが、食うか?」

「うん」

「だからそう甘いものばっかり与えるなっつーんだよ。過保護な祖父さんか」

「いいじゃねえか、いちいち細かいことにうるせえなお前ってやつは」

 いつも通り言い争いを始めると、二人の間にほっとした空気が流れる。

 ディーもそれを見て、ほっとした。




 ある日の夜、ディーは突然、腹痛を起こした。

 眠っていたら、いきなり襲いかかってきた痛みで、目が覚めたのである。じっとしていればそのうち治るだろうと思っていたのに、いつまで経っても痛みの波が引いていかない。

 地下の部屋で暮らしていた時、病気になっても、熱を出しても、ディーはただひたすら耐えるという方法でしか、それのやり過ごしかたを知らなかった。自分以外に誰もいないのだから、そうするより他になかったのだ。

 闇の中、硬いベッドの上で一人、毛布にくるまって丸くなり、ちっちゃくなって、苦痛を我慢する。それだけ。

 だから、この時もそうした。

 玉のような汗がいくつも浮かんでは滴り落ちる。ぎゅっと目を瞑っても、強く毛布を握りしめても、ちっとも楽にならない。

 どうすればいいのか判らなかった。自分のお腹はどうなってしまったのか。もっともっと痛くなったら、我慢できるか自信がない。こうしている間にも、激痛に、意識が遠のいていく感じがするのに。

 ──以前、ジェイや他の子供たちと一緒に遊んでいた時、地面の上に小鳥がコロンと転がっているのを見つけたことがある。

 小さな身体は、冷たく固くなって、ぴくりとも動かなかった。目も、翼も、閉じられたまま、二度と開くことはなかった。

 これでは、もう空を飛ぶことは出来ない。

 埋めてやろう、とジェイが言って、穴を掘って小鳥を入れた。他の子たちがするのを見て、ディーもそこに土をかけた。

 それが、「死」というものだと知った。生ある者は、いつかは死ぬのだということも。絵本の中にだって、そういう話はいくつもある。誰かが死ぬと、「かなしい、かなしい」とみんなが言って、さようならとお別れするのだ。

 ぼんやりと麻痺していく思考の中で、考える。


 ……ディーも、あの小鳥みたいになるのかな。


 自分の死が、この時なのか。地下の部屋で一人死んでいたら、きっと誰も「かなしい」とは言ってくれなかっただろう。今なら、誰かがそう言ってくれるのかな。

 イーガルのおじさんが。アイダおばさんが。ジェイや子供たちが。

 アルが。

 イヤだな。それはイヤだ。なんだかよく判らないけど、とってもイヤだ。死んでしまったら、土の中に埋められてしまって、みんなに会えない。アルと一緒にいられない。かなしいと言ってくれなくてもいい、だけど、さよならするのはイヤだ。


 また一人ぼっちになるのはイヤだよ。


「ディー? ディー、どうした?」

 アルの声が聞こえた。

 痛みをこらえ、薄く目を開ける。滲んだ視界に、覗き込むその人の顔が入った。

「なんか、呻き声みたいなのが聞こえたんだけど。怖い夢でも見たか?」

「…………」

「どこか痛いのか? なんとか言えって──おい、ディー? ディー! しっかりしろ!」

 うろたえて、医者だ薬だと大騒ぎするアルの声を聞きながら、ディーはゆっくりと意識を手離した。

 暗闇に引きずり込まれる手前で、心の中で呟く。

 ああ、よかった。

 アルの顔が見られてよかった。

 アルがいるから、もう、「大丈夫」……




 数日経ち、ディーの容体が回復したところで、アルが抱っこして外に連れ出してくれた。

「ずっと寝たきりだったから、外の空気が吸いたいだろ」

 外はもうすっかり陽が落ちて、月も星も出ていたけれど、頬に当たる風が冷たく澄んで気持ちよかった。そういえば、以前に星を見て、「あんな高いところにあるたくさんのランプに、誰がどうやって明かりを灯すのか」と訊ねたら、アルがびっくりしていたっけ。

 今はもう、それが何であるかを知っている。アルが教えてくれたから。

「おまえなあ、腹が痛いなら痛いって、ちゃんと言えよな。声を出して、俺を起こせばいいんだよ、そういう時は。あのまま放っておいたら危なかったかも、って医者も言ってたんだぞ」

 ベッドで寝ている時にディーに何度も続けたお小言を、また蒸し返してがみがみと叱る。アルは時々ちょっとしつこい。

「あのね、アル」

「うん?」

「あの時、ディーこのまま死んじゃうのかなあ、って思ったらね、すごくアルに会いたかったんだよ」

「いや、なに言ってるかわかんないんだけど。だから呼べばよかったんだ、って話を、俺が何度も何度もしてるんだよな?」

「ディー、死ぬのはイヤだなあ。アルに会えなくなるのはイヤだ」

「だから──」

 また文句を言いかけて開けようとした口を、思い直したように閉じる。

 はー、とため息をついて、顔を空に向け、ぼそりと言った。

「……そういうのを、『寂しい』っていうんだよ」


 さみしい。

 その言葉を口の中で繰り返し、ディーも顔を上に向けた。暗い夜空には、星々が白く明るい輝きを放っている。

 すぐ間近には、アルの顔。伝わる体温。

 ふうん。そうかあ。

 それが、寂しい、ってことなのかあ。


 ディーはアルを見て、にこっと笑った。

「星が綺麗だね、アル」

「ああ、綺麗だな」

 世界はとても美しいのだということを、はじめて知った。





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