第53話 「大ふざけ」
大浴場の男湯と女湯の仕切りをぶち抜き、代わりにテニスコートにあるネットの代わりに木板を備え付けた、広大な温泉コートが完成した。
俺、パンパカーナ、ルトチームと、筋骨隆々、剣山、ちょんまげチームに分かれている。両選手それぞれ、手には金属バットのような棒を持っていた。フィアンヌは審判の役割だ。
そして、これから行われる勝負に負けた者は、『なんでもひとつ、いうことをきく』という約束が勝手に交わされた。
「さあ、はじめようぜ」
「いいのかい? 姉さん。俺たち、勝っちゃうよ」
一触即発。ルトと筋骨隆々が互いにメンチを切りあっていた。筋骨隆々の方が身長が高いため、ルトは見上げる格好になっていたので、辛そうだった。湯に足が浸かっているのでわかりにくいが、おそらく背伸びをしているのだろう。だから足が小刻みに震えている。
「ふん。負けてもママのおっぱいにしゃぶりつくんじゃあねえぞ」
「ぬははははは!! 笑止千万。姉さんこそ、父の乳にむしゃぶりつくんじゃないぞ」
筋骨隆々が指をさしながらいった。その返しはどうかと思った。
両者、適当な位置へ着く。ルトが弾力のありそうな硬球ほどの大きさをした、赤い靄が内部で渦巻いているボールを持ち、ルールの説明をはじめた。
「こいつは『コルピーレ』というあたしの故郷に伝わる、由緒正しき伝統的な球技だ。ルールは単純明快。試合は一度きりの時間制限なし。この球を落とすことなく、その手にある棒で打ち続ける。空振りをする。や、自陣内で球を地面に落とす及び打った球が誰に当たることもなく場外へ飛び出すと負けだ。ど? 簡単でしょ」
「体に触れたらどうなるの」
タオルを胸と腰に巻いて、髪を後ろに結っているパンパカーナがいう。
「最終的に棒で打ちかえせばいいよ。ただし、体に当たった球が地面に落ちるか、そのまま相手の陣地に入った場合は負け」
「要は、ただ打ち返し続ければいいんだろ」
俺はパンパカーナと同様の格好をしているルトにいった。髪型はサイドテールになっていた。
「ふふ。そうだね。ま、やってみりゃわかるさ」
ルトはそんじゃ、いくぜ。というと、大きなビー玉のようなそれをスイングした。球は筋骨隆々へまっすぐ飛んでいく。球速は緩やか。簡単に打ち返せるだろう。
「ムンッ」
予想通り打ち返してきた。腰に巻いたタオルが翻り、丸太のような太腿にある、ハート型の毛にどうしても目がいく。気を散らせている俺ではなく、球はパンパカーナへと向かった。
「ふっ」
あの高校野球でよく聞く、金属がボールを打つ音がする。球はちょんまげへ。それを難無く返す。さあ、次は誰に来る——
(俺かっ)
鉄球が飛んできたのかと思うほどの衝撃。意外と重い。後ろ足をひねり、ヘッドを前に出しながら、ミートで捉えた。よし、真ん中にいる筋骨隆々へ行ったはずだ。球の軌道を追う。しかし、奴はすでにネット際で待ち構えていた。あれは、ボレーだ。テニスのボレーの構えだ。
「ンいやあッ!!」
コートの手前。左サイドあたり。誰もいない所を的確に狙ってきた。まずい。このままでは負けだ。走るか。いや、間に合わない。湯水の抵抗が足枷をして、普段のスピードを発揮できない。しかしなんだこの男は。水の抵抗をものともせず、音もなく走り寄ってきた。そしてあの構え。あれはまるで、プロテニスプレイヤーのロジャー・フェデラーのようだ。馬鹿な。天才か。とんでもないセンスを兼ね備えているぞ、この男は。この世界にテニスが存在しないことが惜しい。なんという無駄。現実世界に送還してやりたかった。彼ならばアンディ・マリーを倒せる。そんな気がした。
「まだ終わらせるかよっ」
ルトの声にはっとした。球はややフライ気味に宙に浮かんでいる。ルトがとっさに棒を投げたのだった。武器を失った彼女がこちらを振り向き、
「来るぞ! 構えろ」
と警告した。俺とパンパカーナは集中する。体の動きを追うな。球の動きを追うのだ。球は剣山の真上へ。だが、何かがおかしい。棒をまっすぐ上へ掲げ、膝を曲げてしゃがんでいる。
タイミングを見計らい、跳んだ。水しぶきが舞い、夕日に照らされて、美しく輝いていた。腰に巻いたタオルの中から、見えてはいけないモノが見えているようだったが、ひときわ強い夕日の光の線が、それを隠してくれていた。
「ウホッ!!」
あれは、大根切りだ。棒と球が交差する範囲が極端に狭い、下から上へと振り上げるようなスイング。その力任せのバッティングから放たれる球速は驚くほど速い。パンパカーナが耐えることができる威力ではなかった。俺はパンパカーナの前に立ちはだかる。
「——っ! 戸賀勇希! なにを」
「お前、あんな球、打てるのかよ」
「打てる......打てるよ」
パンパカーナは強くかぶりを振った。
「無理だ。まだ体が出来上がっていないんだ。手首がイかれるぞ」
「イヤ。私は打つ。打ってみせる」
「ふざけるな! お前がいなきゃ——お前じゃなきゃだめなんだよ! 一緒に目指そうや、甲子園」
「戸賀勇希......」
目尻に溜まった涙の粒を指で拭い、パンパカーナは笑っていった。
「甲子園って、なに?」
その後、鬼の形相をしたルトが拳で球を打ち返し、音速を超えたそれは筋骨隆々の睾丸を粉砕した。白目で涙と鼻水を垂らしながら、声もあげずに、男は湯の海に沈んだ。俺たちの負けだった。ルトは「しまった」と頭を抱えて、叫ぶようにいった。
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「世話になったわネ」
あれから一週間が経った。約束とは別にして、彼らもまた、旅費を必要としていたので、時給を倍にして雇ったのだ。寝床も提供した。申し訳ないという気持ちからそうしたのだ。
筋骨隆々はオカマになった。睾丸は再生不能なまでに損傷しており、急いで病院に搬送したが、時すでに遅し。街医者はかぶりを振って「切除ね」といった。
男とした生きる意義を失った彼。いや、ママは新たな道を歩みはじめたのだ——ルトと共に。
「うっ......ひっく......うぅ......」
涙を流しながら顔を拭っているルトは、筋骨隆々のママに肩を抱かれていた。ごっつ太い腕で。
『なんでもひとつ、いうことを聞く』という約束。結果、ルトがすべての責任を負い、ママ達の仲間として加わった。
「泣かないノ。ほら、もうイくわヨ」
「バンバガーナァァ......」
パンパカーナは顔を横にやる。肩が震えていた。友と別れるのはやはり悲しいよな。と思ったら、笑いをこらえているだけだった。
「じゃあ、名残惜しいけど」
俺は握手しようと手を差し伸べると、愛撫するように、ママのごつい両手が包み込んできた。反射的に鳥肌がたったが、表には出さず、おそらく引きつっているであろう笑顔をした。
「あなたみたいな色男なんて、滅多にいないから。ホント、ママ寂しい」
隣で「ブフォっ」と吹き出す音がした。横目でちらと見やると、顔を手で覆い隠して俯いているパンパカーナがいた。うーん、どうしよう。こいつも引き取ってもらおうかしら。
「あ。いや、世界は広いんですから、俺なんかよりすごい人、たくさんいると思いますよ」
いうと、「やっだもウ! 謙遜しちゃってェ」
何度か背中を派手にど突かれた。
「じゃ、じゃあ。そろそろ」
「......うん、そうネ。じゃ。また、ネ」
投げキッスが飛んできた。如何わしく浮遊するエロティシズムの権化を鷲掴むと、パンパカーナの頬へ練り込むように押し付けてやった。ほどなくして、彼女はオポッサムのように擬死した。
「また! また会う日まで! あんたたち、死ぬんじゃないわヨッ!!」
旅立ちを祝福する朝日に逆らいながら、彼女たちは歩きはじめた。ルトは寂しそうにこちらを見ると、あかんべをした。いつの間にやら復活したパンパカーナも同様に、あかんべを真似した。
俺は手を大きく振った。ありがとう。ママたちと過ごした時間、わるくはなかったよ。
客足は少し減ったけれど、クレームの件数は倍に増えたけれど、地下に内緒でバーを造っていたけれど、なんだかんだいって、賑やかで楽しかったよ。また会えるといいな。そんな意味を込めて、全力で振った。パンパカーナも一緒に。さようなら。ありがとう。どうか、お元気で——
「さて、と! 最後の仕上げだっ」
地面にスコップを突き刺し、抜く。温泉施設を構成していた素材、それら全てを掘り起こした。轟音を立てて崩れはじめる。さらさらと粒子になって風に運ばれていく、儚くて、幻想的な様を見守った。たった三週間でも、たくさんの思い出が詰まった場所だ。
何もかもが初めてで、新鮮だった。上手くできるかどうか不安だった。しかし、協力して目標を達成することができた。それはなによりも代え難い報酬として、心に残った。今までありがとう。ふと、柔らかな感触が手に滑り込んできた。ああ、そうか。君も同じ気持ちか、パンパカーナ。




