ひとりめし、ふたりごはん
彼女と喧嘩した。
きっかけはちょっとした事だったんだと思う、だって理由が思い出せない。
話してるうちにあいつがどんどん不機嫌になって、気がつくと言い合いになっていた。
「あっついなあ」
外回りの合間、昼飯をとるため定食屋に入る。
カウンターに7、8人座れば一杯の小さな店はおばちゃんが一人で切り盛りしてる、安くて旨い、所謂お袋の味を出してくれる店だった。
「今日の定食はサバの味噌煮か」
古ぼけた黒板にチョークで書かれたメニューを見て、彼女の顔が浮かんだ。
「サバの味噌煮定食、豚汁付で」
メニューを頼み熱いおしぼりで顔を拭く。
親父くさいといつもあいつに嫌がられるけど、ついやってしまう悪い癖だった。
「ふう。腹へったなあ」
少しだけさっぱりした気分で冷たいほうじ茶を飲む。
水でも麦茶でもなくほうじ茶ってとこが良いと思う。
こういう店にほうじ茶はなんか似合う。
家ではお茶なんか殆ど飲まない。そもそも急須なんか必要ないし、あるのはインスタントコーヒーと冷蔵庫に常備された発泡酒の缶とペットボトルくらいなものだ。
「お待たせしました」
カウンター越しに定食が置かれ箸をとる。
豚汁に一味唐辛子を振り掛け汁を啜った。
「あちっ」
「熱いから気を付けて」
今更な事を言われて苦笑いしながら頷いて、ほうじ茶を飲む。
ヒリヒリした舌を冷やしながら、また彼女を思い出した。
『あちっ!』
『もー、慌てないでゆっくり食べてよ』
『熱すぎだよこれ、煮立てすぎじゃねーの?』
『そんな事ないと思うけど。はいお水、火傷しなかった?』
温度をろくに確かめず口にするのは昔っからの癖だ。
その日も目の前に出されたばかりの味噌汁をいきなり啜って悲鳴をあげた。
『ねえ、大丈夫?』
氷水の入ったグラスを手渡しながら、首を傾げる。その顔を見てたら可愛いなぁと 頬が緩んできた。
『ちょっとピリッとするだけ。大丈夫』
水を口に含んで口の中を冷す。それでも足りなくて、氷を口に含む。
氷で舌先を冷やしたら少し痛みがあったけど、大騒ぎするレベルじゃなかった。
『ゆっくり食べてよ。味わって』
そう言われたのに返事もせず、ガツガツとものの数分で食べてしまったんだ。
「……」
また火傷すると困るから、今度は息を吹きかけ用心しながら豚汁を啜る。
ゆっくりと口の中に出汁の味が広がって、舌先にピリッとくる一味唐辛子の辛さが心地よかった。
「なんで喧嘩したんだっけ」
口の中で呟いて、サバの味噌煮をつつきながら考える。
飯を食い始める直前まであいつは機嫌が良かった筈だ。
金曜の夜に家に来て、そのまま土日を凄し月曜日は一緒に家を出る。それが最近のパターンで、出掛ける予定が無くてもゴロゴロと俺の家でのんびり過ごすのが当たり前になっていた。
昼頃起きて、あいつが洗濯とか掃除とかして。
食料の買い出しついでにレンタル屋に寄ってなんか借りて帰ってくる。
一人でいたら虚しい週末だけど、あいつといればこんなんでも楽しい時間だった。
そのうちこうやって一緒に暮らすようになるのかな、なんて思い始めてすらいたんだ。口に出したことはないけど。
「ふう。腹いっぱい」
温度が適温なら食べ終わるのはすぐだ。
ひとりだろうがふたりだろうが、ガツガツと食べ進めその勢いのまま食べ終わる。
男ばかりの4人兄弟、ゆっくり食べていたらあっという間に兄弟に全部オカズを食べられてしまう。そのせいで食べるのが早くなったんだと思う。
大人になって、一人で飯を食う時でもその癖は抜けなくて一心不乱に食べてしまうのだ。
『もっと味わって。ゆっくり話しながら食べようよ』
ああ、そうだ。これが原因だ。
あいつはのんびりと食べる方で、というか俺が食べるのが早すぎるんだろうけど。
一緒に飯を食ってるとあいつがサラダをつついてる間に俺の飯が終わってしまう。
それがずっと不満だったと、あの夜言われたんだった。
『一緒に食べてるのに、一人で食べてるみたい』
『美味しいとか、おいしくないとかそれすら無いし。なんかあたし馬鹿みたいだよね。こんな食べさせがいのない人の為に、今度の週末は何を作ろうかなんて考えたりして。本当、馬鹿みたい』
食べさせがいがないと言われて、腹が立った。
まずいとか、感謝してないとかそんな事なかった。
狭い台所に、適当な調理器具で作ってくれる旨い飯。
それが嬉しくて、週末はいつもより余計に食が進む。
一緒に飯食って、一緒にのんびりした時間を過ごして、ああこうやってずっと一緒に居られたらいいななんて思いながら日曜の夜を過ごすのは幸せで。
いつか一緒に住む時には綺麗な広い部屋を借りられる様にと貯金を始めた。
同棲じゃあいつの親が許さないかもしれないから、結婚を認めてもらうためにも仕事をもっと頑張ろうと、営業にも力を入れだした。
資格手当とか昇給とか遅まきながら意識し始めて、あいつに内緒でこっそり英会話にも通い始めた。
来年のあいつの誕生日にはプロポーズ出来る様に、頑張ろうって思い始めたばかりなのに……さ。
「ごちそうさんでした」
「いつもありがとうね」
カウンター越しにお金を払い、おばちゃんの笑顔に見送られ店を出た。
「俺が悪いのかな、やっぱりそうなんだろうなあ」
仕事をしてるのはあいつも同じ、それなのに毎週末俺の家で飯を作ってくれる。
洗濯して、掃除して。
そんなに汚くしてないつもりでも、あいつは気になるらしく。
土日の間に部屋も風呂もトイレもピカピカに掃除して、あいつは月曜日の朝俺と一緒に家を出るんだ。
「結婚してるわけでもないのにな。あいつ俺の世話やきすぎだろ」
そんでもって、俺はそれに甘えすぎ。
美味しい飯が食えることも、部屋が綺麗になっていくことも。
心の中で感謝はしてたけど、それでもいつ間にか当たり前の様に思い始めていた。
「俺が、やっぱり悪いんだろうなあ」
ジリジリと熱いアスファルトの照り返しにぐったりしながら、どうやって謝ろうかと考えて。
考えるのが嫌になって、コンビニに入って現実逃避した。
怒らせるのは簡単だけど、謝るのは難しい。
どうしたらいいものかと冷えたコンビニの空気の中。
頭の中だけが、考えすぎて熱かった。
*****
「ああ、あっつい」
部屋に帰ったら、部屋の中は蒸し風呂だった。
クーラーを付け部屋が冷えるまでの間、シャワーでも浴びようとお風呂場に向かった。
「暑い暑い暑い」
口に出したらもっともっと暑くなる気がするのに、黙っていられなくて服を脱ぎながら一人で騒いでいた。
洗濯機に脱いだものを放り込み、洗剤を投入しスイッチをオンにする。
今日は棚卸しでいつもよりカジュアルな服装で出勤したから、遠慮なく洗濯機で全部洗える。
下着はネットに入れるけど、他は適当だから楽なもんだ。
裸のまま、洗濯始めるなんてなんて自堕落。
流石にあの人にこの格好は見せられないなあと考えて、喧嘩してたのを思い出した。
「ああ、思い出したらイライラしてきた」
イライラするから考えるのは止めよう。
お風呂場のドアを閉め、勢いよくシャワーを出し髪を洗うと洗顔フォームでメイクを落とす。
濡れた手で、ウォータープルーフも落とせますの宣伝文句がついていたちょっと高めなお値段の洗顔フォームは、ダブル洗顔不要な便利アイテム。
値段はちっとも可愛くないけど、お風呂で気軽に使えるところが気に入っている。
「ふう。さっぱりした。化粧落とすと生き返る」
夏だし厚化粧なんてしないけど、顔を洗っただけで少し涼しくなった気がするし、ミントの香りのボディーソープで体を洗えば完璧だ。
「さっぱりさっぱり。涼しい部屋でなに食べようかな」
ご飯作ってからシャワーの方がいいと思うけど、汗だくのまま部屋で過ごすのが嫌いなんだから仕方ない。
不経済でも後でまたシャワー浴びればいいやと、部屋着に着替え冷蔵庫のドアを開けたその時だった。
ピンポーン。ピンポーン。
「誰だろ」
冷蔵庫の扉を閉めて、玄関のドアをじっと見つめる。
宅急便が届く予定もないし、何かの勧誘だったら嫌だから無視しちゃおうかなと考えて、クーラーの室外機が回ってる事に気が付いた。
これじゃ部屋にいるってばれちゃうじゃない。
「なんであたしの部屋だけ、室外機がベランダに無いのよ」
濡れたままの髪をさっとブラシで撫でつけながら、諦めてインターフォンを取る。
他の部屋はベランダに室外機があるのに、あたしの部屋だけ玄関の横に設置されているのだ。
角部屋だからかもしれないし、その分ベランダが広く使えていいんだけどこういう時はちょっと困る。
「はい」
「俺」
「……誰ですか」
何しに来たんだ? とは思わないけど。
ちょっとぐらい嫌味言ってもいいよね。
「意地悪言わないで、ドア開けて」
「意地悪言われる様な事した覚えは?」
喧嘩したばかりだよ。わかってんのかな。
「あのさ、顔見て謝らせてよ」
え、謝りに来たの? 嘘でしょ。
慌てて玄関に走りドアを開けたら何かにぶつかった。
「って! おい、勢いよすぎだよ」
「だってなんでそこに立ってるのよ」
「あ、俺が悪いのか。ごめん」
素直すぎて気味が悪い。
「部屋入ってもいい?」
「うん。どうぞ」
仕事帰りのスーツ姿。この暑いのに、クールビズはどこ行ったって感じにネクタイに上着まで。
サラリーマンて凄いよね。
でも、ネクタイが似合うんだよなあ、この人。
本人には言ったことないけど、実はそう思ってるというか、あたしはこの人のネクタイ姿に弱いんだ。
「これ、お土産。会社の近くのケーキ屋なんだ。うちの部署の子達のご用達の店なんだ」
「へええ」
小さな箱に並んでるのは、綺麗な色のゼリーとプリン。夏はケーキよりこういう方が食べたくなるって言ったことあったっけ?
「冷やしておくね。後で食べよ。何飲む? アルコールは無いなあごめん」
ドライアイスが入ってるけど、少し冷やした方が美味しいよね。
箱ごと冷蔵庫にしまいながら、確認するけどビールもチューハイも買い置きなかった。
家ではあたし一人じゃ飲まないし、週末は家で過ごさないから買ってなかったんだよね。
「いいよ。なんでも。それよりさ、俺謝りたくて」
「何を」
あたしが何に怒ってたのか、本当にわかってるのかなあ。
きっとわかってないと思うけど、謝ろうと家に来てくれた、それでもういいやって気持ちになってきちゃった。
あたし甘すぎだろうか。
「おまえが一生懸命作ってくれた飯、味わってないわけじゃないし。作ってくれる事感謝してないわけでもないし。あのさ。だから……。悪いうまく説明出来ない」
あれ、なんか通じてたの? あたしの怒り。
「仕事してて疲れてんのに毎週家に来て、掃除して洗濯して飯作ってくれてたの。週末おまえがそうやってくれてたの、すげえ嬉しいって思ってたけど。どっかでそれが日常になっててさ、当たり前な気がしてたんだ」
そうだよねえ。そう思ってくれるといいなって意図的にやってたんだもん。
胃袋つかむのは、お付き合いの基本でしょ。
でも、思ってくれてたのは嬉しいよ。
あたしが居て当たり前いないの困るなあって位に思ってくれないかなって、実は考えてたし。
「それで」
だけど、ここで許すのは違うよね。
もうちょっとだけ様子を見よう。意図的にしてた事だけど、それでも寂しいなあって思ってたのも事実なんだから。
「これからはもっとゆっくりおまえと一緒に飯食うし、掃除とかも一緒にやるよ。家事とか苦手だけど、頑張るから。結婚する前から亭主元気で留守がいいなんて思われたら嫌だしさ」
あれ、今何か言わなかった?
結婚する前からって、あたしと結婚する気あったんだ。
「あの、今びっくりする事言わなかった?」
「へ。あ、いやええと。なんだ」
あれ、顔が赤い。
ちょっとまて、あたしの顔も熱い。
「ごめん出直す。今の聞かなかったことにして」
くるりと踵を返して。ちょっと待ってよ。
「帰っちゃうなら、喧嘩したまんまだよ。いいの」
ここで帰るとか、そんなの酷いよね。
「おい、そりゃないだろ。謝ったじゃないか」
「そうだけど、じゃあ逃げなくてもいいじゃない」
結婚する気はないのか、なんだ。
別にそれでもいいけど、別に期待なんかしてないし。
「逃げてないし。まだ、言うつもりなか……あぁぁっ」
へなへなとしゃがみこみ、頭を抱える。
これ、何? 一体何がしたいんだろ、この人。
「あのさ、落ち着いて。ねえ、結局なにが言いたいの」
「謝りに来たんだよ。色々考えて俺が悪いって思ったから」
「それは分かった。理解した。謝りに来てくれるなんて思ってなかったし、嬉しいよ」
嬉しいんだけどね、最後がね。
あれでポイントダダ下がりだよ、でも仕方ないか。
「聞かなかったことにすればいいのかな」
「……」
「謝ってくれたことだけ、覚えとくから。それでいい?」
取りあえず、そういう事で落ち着けばいいのかな。
結婚なんてただの言葉のあやだよね。あれ、単なるはずみで出ちゃっただけ。
ちょっとがっかりしたけど、思いっきりがっかりだけど。
「忘れられたら困る」
「え」
「したいって思ってた、結婚。正直言えばもう一緒に住んじゃいたいとか思ってた」
「はあ?」
しゃがみこんで頭抱えたまま、なんだか爆弾発言をかましてくれる。
いつからそんな事考えたんでしょうか。あたし全然気が付きませんでしたけど。
「でもおまえの親、同棲とか許さないだろうなあって。結構そういうとこ古風というか。そういう感じするし」
うちの親、結構アバウトだけどなあ。
お姉ちゃんが結婚した時も、できちゃった結婚だったけど割とあっさり許してたし。
でも、ずるずる同棲はもしかしたら駄目っていうのかな。
「あたしが住みたいって言ったら、一緒に住んだりしちゃうわけ」
「……しちゃうかもな」
「部屋は? どうするの?」
「引っ越し資金貯め始めたばっかだから、今すぐ引っ越しは無理だな。どうせなら広いとこ住みたいだろ?」
引っ越し資金。そんなことも考えてたのか。
そういえば、この人財形とかもしてるって言ってたな。
「あたしの部屋、再来月更新だけど」
「え」
「更新したら、二年は住んじゃうかもよ」
「俺の部屋は春に更新したばっかだよ」
「じゃあ、あたしが解約した方がいいか」
狭くても一緒に住んだ方がが引っ越し資金は貯めやすいもんね。
「ちょっと待て。それ決定でいいのか」
「決定じゃ駄目なの?」
「俺結婚したいって言ったんだぞ」
「結婚前提のお試し同棲でいいよ。駄目だと思ったらその時考えよう」
結婚したいとか本気なのかな。なんか勢いに負けただけじゃないのかな。
自信がないなら、とりあえずでいいじゃない。
うまくいくかどうかなんてやってみなきゃ分からないし。
先の事なんて深く考えないで進んだ方がうまくいく場合もあるし。
「来年、プロポーズ……」
「へ。なにか言った? お腹空いてるよね。ご飯作るね」
冷蔵庫何が入ってたかなあ。あ、冷凍に鮭入れてたかも。
「ええと、鮭がこの辺に。ほら、あった」
冷凍庫の中を覗くとラップに包んだ鮭の切り身が二切れ入ってた。
これと、ご飯と。お味噌汁はジャガイモとネギが良いかな。
「ね、鮭でいい? ねってば」
落ち込んだみたいに俯いてぶつぶつ言ってるから、鮭を冷凍庫にしまって目の前に戻る。
結局この人どうしたいんだろう。
優柔不断なとこあるけど、こういう時もそうなるんだな。
大ざっぱなあたしに比べたら、この人の方が繊細な気もするしなあ。
まあ、優しいとこもあるし。誠実だし。お母さんに聞かれたら、そう答えよう。
「来年プロポーズするつもりだったんだよ。こんなへんてこなんじゃなく。おまえの誕生日に」
「……そう、なんだ」
う、うわ。なんだろうこの感じ。
顔がにやける、このくすぐったい感じは一体なんだんだろう。
「じゃあ、今しようよ」
「はいっ?」
「プロポーズ。今してくれないと、お母さんに。とりあえずの同棲って言っちゃうよ」
半分脅し。半分本気で言ってみる。
目の前にしゃがみこんで、無理矢理に目線を合わせて。
とりあえずのお試し同棲でもいいけど、どうせだったら。
結婚準備期間中な同棲に格上げしたいよ。
「ねえ、聞きたいなあ。プロポーズ」
「普通。リクエストしないんじゃないか。こういうのは」
ため息ついて、頭をぶるんと振った後大きく一つ深呼吸して。
「俺と結婚してください。色々間抜けで馬鹿な俺だけど。後悔させない様に頑張るから」
「うん。あたしも頑張る。結婚して一緒に毎日ご飯食べようよ。おしゃべりしながら、ご飯食べてくれるんでしょ?」
「……誠心誠意努力します」
「ぷっ。ご、ごめん」
あんまりにも真面目な、真剣な顔して言うから、思わず吹き出してしまった。
「どうしてそこで笑うんだよ」
「どうしてって、それは。幸せだからだよ」
喧嘩したら、今日の事を思い出そう。
情けないプロポーズと、真剣な顔して言った今の言葉を思い出そう。
そしたらきっと、喧嘩してるの馬鹿らしくなっちゃうよね。
「とりあえずご飯食べよ。お腹すいちゃった」
毎日、毎日、これからふたりで食べようよ。
それって凄く幸せな事だよね。
あ、気が変わらないうちに引っ越しの準備すすめちゃお。
引っ越しってなんの手続きいるんだっけ?
冷凍庫から出した鮭を焼く準備をしながら、あたしはこれからの事を考え始めていた。
ハッピーエンド?