3話目・その1
朝の9時を回ろうかという時刻。
エルは通学路の途中にあるコンビニの前にいた。
普段なら授業が開始されている時間だが、エルに急ぐ様子はない。
それどころか、コンビニの前で立ち止まっていた。
学校指定の物でない鞄を持ち、制服も着てはいない。
どう見ても学校に行くようには見えないが、それはこの日この時を考えれば、至極当然と言える。
今日は日曜日…つまり、休日なのだから。
このコンビニは以前、待ち合わせに使った場所であり、今回も同様に、エルは人を待っていた。
待ち人は、初めての友人だ。
「ごめん、魔王くん…お待たせっ!」
9時を数分過ぎたところで、急いでやって来た少女が、エルに話しかけた。
否、正確には少女ではない。
勿論、外見や服装は完璧に少女のそれであるのだが、エルのことを”魔王くん”と呼んだ人物は、歴とした男なのだ。
「構わぬ。というより、我も先程来たところだ。」
エルは、その少女のような外見をする少年───夏川 茉莉に、軽く微笑みながら言葉を返した。
では行こうか…と切り出そうとしたところで、エルに背後から話しかけるもう一つの声が有った。
『茉莉姉ぇと二人っきりでどこ行くつもりぃ?』
話しかけたというか、非難めいた口調で放ったのだ。世界中のどの国にも存在しない言語で。
声の主はリア。エルの妹である。
妹は、私も付いて行く…と、目で訴えていた。
『………何故お前がおるのだ、リア。』
と、エルが疑問を口にするのを横目に、
「リアちゃん、おはよう。」
『おはよ、茉莉姉ぇ!』
女性の格好をした二人は、互いに軽く手を挙げる仕草をして、親しげに挨拶を交わしていた。
「リアちゃんも誘ったんだね、魔王くん。」
「あ、いや……う、うむ。その通りだ。」
追い返すことも一瞬考えたが、茉莉がリアの同行に反対ではなく、むしろ嬉しそうだったので、連れて行っても良いか、と思うエルだった。
リアは、タイミングを見計らった甲斐があった、と心の中で得意気になる。
元々二人が今日出かけることは聞いていなかったが、今朝家を出るエルの様子から、察しはついた。
それこそ女の勘とでも言うようなものだったが、エルが茉莉と会うであろうことも勿論、分かっていた。
分かっていたからこそ、エルが家を出ると同時に、尾行を始めたのだ。
待ち合わせ場所に着いてからも距離を取り、今まで気付かれないよう注意を払っていた。
エルが一人の時に見付かって、追い返されるようなことになっては、わざわざ尾行した意味がないのだから。
そして今、茉莉が来たタイミングで近付き、あたかも茉莉からは、エルがリアを連れて来た、という風に見せることに成功した。
言葉は通じないにしても、茉莉の反応から、思惑通りに事が進んでいると、リアは確信しているところだ。
「それじゃあ、行こっか。」
まるでリアの考えを肯定するように茉莉は、エルとリア───人間ではない兄妹に微笑みかけた。
件のコンビニから歩いて約10分の場所に位置する、久十里駅。
この駅の名称は、エルや茉莉の通う、私立久十里学園の最寄り駅であることに由来する。
初めて駅というものを見たエル、リアの両名は、人の流れに圧倒された。
2人はまるで上京したばかりの田舎者のように、キョロキョロと視線を彷徨わせる。
茉莉はくすっと笑みを漏らしてしまう。兄妹とはいえ、反応が全く同じなのが、ちょっとだけ可笑しかったのだ。
人の波に目を見開き、券売機に困惑し、改札に狼狽する。そして何より、数分の後に駅のホームに現れた、彼らの想像を超える物体に驚愕した。
『何これ!』
「何なのだこれは…!」
声を揃え、眼前の電車に、たじろいでいた。
「電車、乗るって言っておいたよね…?」
「そ、そうか…これが電車か。実物を見るのは初めてだったのだ。」
茉莉は苦笑するしかない。
気後れする兄妹を車内へと押し込み、茉莉も電車に乗り込む。
文字通り、ぎゅうぎゅう詰めの車内へと押し込んだ。
すぐに電子音と共に扉が閉まり、有無を言わせることなく、電車は無慈悲に加速を始めた。
電車の旅…と言うと聞こえは良いが、現実は全く以て穏やかではない。
高層マンションやビルの多い街並みにほど近い久十里駅は、休日であろうと利用客は多く、車内から外の景色を楽しむ余裕など微塵もない。
満員電車で窮屈な思いを強いられる。苦行を共にする旅と言えた。
目的地周辺に着いた時には、エルとリアはすっかり疲れ切ってしまっていた。
人生で初めて電車に乗り、到着までの約20分間を窮屈な空間の中で過ごしたのだから、無理もないだろう。
しかし、降りた駅のホームで脱力する兄妹に、無情にも叱咤の声が上がる。
「まだ疲れるには早いよ、二人共!」
茉莉だけは満員電車に乗るのも初めてでない為、そこまで疲弊していない。
『我はもう帰りたくなってきたぞ…。リア…お前はどうなのだ…?』
エルは情けないことを言っている。
『…付いて来るんじゃなかったって、ちょうど今後悔してるとこ…。』
リアも同じのようだ。
彼らの話す言語は茉莉には分からないが、表情から大体のニュアンスは伝わってくる。
「茉莉、このまま帰るという選択肢も………。」
「ないよ!!!」
茉莉は弱気なエルの言葉を遮る。
「もう少しなんだから頑張ろうよ、魔王くん?それとも、降りたばっかりなのに、あの人ごみの中に今すぐ戻りたい?戻りたいって言うなら無理に止めたりはしないけど。」
感情というものを一切排除した機械のように、茉莉は淡々と続けていた。
エルを人間界に引き止めた際にも、似たような喋り方になっていた記憶がある。
心中穏やかでないなりに、エルは理解する。不機嫌になると茉莉はこういう喋り方になるのだろう…と。
「戻りたくはないな…うむ。すまなかった、茉莉。」
茉莉の言う通りなのもある。考えなしの発言だったのも勿論あるが、何より今のエルには、茉莉に逆らう気力など湧こうはずもなく、謝罪を述べる以外の選択肢はなかった。
「じゃあ、ちゃっちゃと歩く!リアちゃんもね!目的地はすぐそこなんだから。」
まだ少し不機嫌さを残しつつも、茉莉は普段と変わらぬように笑顔を見せた。
『行くぞリア…無理矢理にでも歩かぬと、茉莉にどやされる。』
『はぁ…兄貴、茉莉姉ぇと結婚したら、尻に敷かれそうだよね。』
説明はそれだけで事足りたらしい。リアは呆れながらも納得したように、エルに冷ややかな目を向けていた。
茉莉の後を付いて行く形で、二人は何とか歩き出す。
それから約5分、それはすぐ視界に入った。
程なくして、三人は目的の場所…アニマルランドへと足を踏み入れたのだった。