2話目・その7
エルが喫茶店を出た時刻より、時は半刻ほど遡る。
「今頃は丁度、エル様がリア様に街を案内している最中でしょうな。」
老齢の執事は、マンションの一室で独り言ちながら、言葉にした光景を思い浮かべていた。
そして、間もなく訪れるであろう来客に備え、事前に準備を施す。
準備が終わり、5分程すると、部屋の中にチャイムが響いた。
無駄のない動きで機敏に玄関へ向かうと、グラゼルは外に繋がる玄関扉を開けた。
「お待ちしておりました、茉莉殿。」
グラゼルは一礼すると、ドアの先に立っていた人物の名前を呼んだ。
「あ、はい…おじゃまします、グラゼルさん。」
茉莉もそれに倣うように、丁寧に頭を下げる。
「エルくんは………あれ?」
と、言いかけて気付いた。エルの靴がないことに。
どこかに出掛けてるのかな、と茉莉は思う。
流石にエルがいないのでは、家に上がって待つ訳にはいかないだろう。
茉莉はグラゼルに困ったような笑顔を向けると、
「…いない、みたいですね。ごめんなさい、帰った方が良さそうですね。」
踵を返そうとする。
しかし、何故か茉莉はグラゼルに引き止められる。
「お待ち下さい、茉莉殿。」
「は、はい?」
茉莉は、まさか引き止められるとは思っていなかった。
グラゼルは、すっかり茉莉がエルの恋人であると信じてしまったようで、あまり茉莉に対して良い印象は持っていない。
そもそもグラゼルが二人を恋人と認識した経緯は、数日前にエルが茉莉を家に連れて来たことに起因する。
エルが予め性別や名前を語らなかったのもあるが、茉莉が女装姿のまま家にやってきたことで、女性にしか見られなかったのだ。
そして、あまりにも仲が良さそうだった為か、グラゼルが二人を恋仲の男女だと勘違いしてしまうのも、無理のない話だった。
トドメを刺したのはエルである。故意に、茉莉と恋人同士であると思わせる言動を吐いたのだから。
その後、訂正する機会もなかった為、現在もグラゼルの中では、茉莉はエルの恋人という認識なのだ。
そして茉莉が───人間の娘が、魔王の息子エルの恋人であるなど、認めてはいない。
その事を抜きにしても、茉莉には良い印象は持たないはずである。
何故なら、数日前に茉莉が家に呼ばれた理由とは、エルが魔法を使ったところを見られたかもしれない人物として、だったからだ。
本当に茉莉がエルの魔法を見たのかを確かめる為、グラゼルは自ら人間の前で魔法を使うという、魔人のルールを逸脱した行為を行おうとした。
しかし、それは禁忌であるとエルに咎められ、グラゼルは深く反省させられた。
つまり、茉莉はグラゼルにとっては、目障りな存在でしかないはずなのだ。
それを鑑みれば、追い返されるなら理由は有っても、留まらせる理由は、思い当たらない。
否、一つだけ思い当たった。
茉莉が昨日この家にやって来た時、玄関で出迎えたグラゼルは「よろしければ明日もエル様に会いにいらして下さいませ。お待ちしております。」と言った。
社交辞令なのだろうが、そう言われてしまっては、来ない訳にもいかないのではないか…という気になって、茉莉は結局エルとは約束もしないまま、のこのこと家にやって来てしまったのだ。
昨日のグラゼルは、茉莉に対して悪意のある行動や態度を取った訳ではないし、少しは友好的になってくれたのかもしれない…と、茉莉は前向きに考えることにする。
「エル様が帰って来られるまで、中でお待ち下さい。」
現在のグラゼルの言動を見ても、とても害意を持ち合わせているとは思えない。
せっかくの厚意を断る訳にもいかず、茉莉は頷いて玄関を潜った。
やはりグラゼルは快く茉莉をリビングへと迎えてくれる。
そしてリビングに辿り着き、ドアを閉めてから茉莉に向き直ると、ここでグラゼルは隠していた本性を現した。
「本日、私が茉莉殿とゆっくりお話しがしたかった為に、エル様には席を外して頂いております。」
「へ?」
「私は先日、エル様と茉莉殿の交際を認めない、と申し上げました。その言葉を撤回する気はございません。」
そう、グラゼルは茉莉に対して、これっぽっちも気を許してはいなかった。
表面上は友好的に見せていたが、単に猜疑心を持たせないように務めていただけの演技だった。
そして怪しまれることなく、茉莉が今日ここに来るように仕向け、邪魔が入らないよう念入りに計画を立てて、リアにも協力を持ち掛け、下準備もしていたのだ。
「しかし…茉莉殿が如何様な人物か、それを知りもせずに認めないと言い及んだのは、早計でございました。そのことに関しましては、私の落ち度であるとして、謝罪致しましょう。」
口を挟む余地がない程に、グラゼルは口早に述べていく。
何となくだが、茉莉はこの後の展開に想像がついた。
「ですので、失礼ながらエル様の恋人に相応しい人物かどうかを試させて頂きたいと存じます。…コレで!」
そう言いながら、グラゼルは俊敏な動きで、ある扉の前に立ち、それを開く。
扉の中からはひんやりとした空気が流れ出る。
そこにはグラゼルが用意した、生々しいモノ達が顔を覗かせていた。
生々しいというか、生だった。
「あー…やっぱり、そうなっちゃうんだー…。」
茉莉は、開かれた“冷蔵庫”を前にして、苦笑した。
「茉莉殿がエル様に相応しい女性だと仰るのであれば、料理くらいは作れて当然でございましょうな?」
そんなこと言った覚えないんだけど…などと言える空気ではない。
「ただ作れるだけではいけませんぞ。私に美味しいと言わせる料理をお作り頂かなければ、決して、エル様の恋人とは認める訳にはいきませんな!」
茉莉としては別に恋人と認められたい訳ではないし、むしろエルからグラゼルに恋人でないと言い直して貰った方が素直に解決するのでは、とさえ思っているのだが、如何せん断れる空気でもなさそうであり、結局はグラゼルの勢いに流されてしまう。
仕方なく、料理を作ることになった。
「こちらにある食材は、何を使って頂いても構いません。」
「はぁ…分かりました。それで納得するならやりますよ。」
もうある種、諦めのような感じで、茉莉は冷蔵庫を漁り始めた。
そしてその中から鶏もも肉のパック、玉ねぎ、使いかけの人参と大根、そして卵を数個取り出す。
玉ねぎは皮を剥いて細いくし切りに、人参は四等分位の大きさのものを包丁で皮を剥き、細切りにしていく。
大根は残り少しだったので全部かつら剥きにして、細く打ってから水に晒し、最後に鶏肉は一口大の大きさに切る。
そこから、まず片手鍋にサラダ油を敷いて、玉ねぎと人参を炒める。
玉ねぎが軽く色付いてきたなら、鶏肉を投入。そして塩コショウを振る。
肉の表面が白っぽくなれば、食材が浸る程度に水を入れて、顆粒だしを適当な量入れる。
酒、醤油、味醂、砂糖、それぞれ大雑把に入れて、軽く味を見てから、暫しそれは放置した。
その間に再び冷蔵庫を確認し、入っていた水菜を取り出す。
一度まな板と包丁を洗ってから、水菜は四等分に切って大根と一緒に水に晒し、そうしている内に沸騰し始めた鍋から、お玉でアクを取る。
煮込んでいる内に、もう使わない包丁とまな板は洗い、大根と水菜をザルに開けて水気を切る。
そうしていると鍋の具材に火が通ったので、卵をボールに割ってかき混ぜ、弱火にしてから卵を少しずつ流し込み、卵に完全に火が入らない内にコンロの火を止める。
後は卵をなるべく崩さないようにお玉で掬い、丼に炊飯器からご飯を盛って、その上に載せる。
大根と水菜は、水が切れたらよく混ぜ合わせ、皿に盛り付け、それらを調理台とは別の、カウンターのような台の上に置いた。
「出来ましたよ、グラゼルさん。あ、サラダは何か適当にドレッシングかけて下さいね。」
グラゼルは茉莉の一連の動作を見て、料理を作るのに慣れていることは直ぐに分かった。
出来上がった料理が、少なくとも及第点以上であることも、当然のように見ていれば分かる。
しかし、実際食べてみなければ判断出来ないこともあるだろう。
グラゼルは覚悟を決めて、丼に箸を付ける。
これを食べてしまえば、十中八九、茉莉のことを認めなければならなくなるだろう。
葛藤の中、それを口に運ぼうとする。
茉莉はその様子を、正直早く終わって欲しいなぁ、と思いながら見ていた。
だから気付く。
「あっ…。」
茉莉はリビングに駆け込んで来るエルの姿を視認したのだ。
エルは、声のした方向に目を向けたが、そこに繰り広げられる光景には、今一つ理解が及ばない。
グラゼルと茉莉が、ただ一緒にご飯を食べているように見えたからだ。
茉莉が声を上げたことで、グラゼルもまた、リビングの方を注視した。
「え、え、え…エル様ぁ!?」
そして同時に驚きの声を発した。
グラゼルからすると、エルがこんなに早く帰ってくるのは想定外だった。
本当であれば、未だリアが引き止めているはずの時間なのだから。
「………グラゼル、貴様…どうやら、茉莉に何かしたようだな?」
何が問題点であるかは分かっていないエルだが、グラゼルの反応を見れば、やましいことをしているのは一目瞭然だった。
「い、いえ…私はただ…。」
「惚けるでない。」
言い訳を述べようとするグラゼルを、エルが制す。
「ちゃんと、お前の口から説明して貰おうではないか…グラゼルよ。」
グラゼルはもう言い逃れは出来ないと悟り、腹を括った。
この時、茉莉は二人の会話よりも、別のことが気になってしょうがなかったのである。
冷めちゃうだろうなぁ…と、自分の作った料理の心配をしていたのだ。
エルがグラゼルをリビングに連行していくと、茉莉は料理にサランラップを被せて、鍋に残っている方には蓋をすることで、安心して二人の後を追いかけた。
リビングではグラゼルが、茉莉にテストという名目で料理を作らせていたことを白状している最中だった。
リアに協力して貰っていたことや、何故そんなことをするに至ったのか、まで洗いざらい吐かされていた。
尤も、魔人語(茉莉が今名付けた)での会話であった為に、茉莉に介入する余地はなかったが。
一応分からないなりにも、何度か仲裁しようとするのだが、結局エルが聞き入れたのは、グラゼルが全てを語り終えてからのことだった。
エルは、自白を終えて項垂れるグラゼルをリビングから追い出すと、茉莉に申し訳なさそうな顔を向ける。
「すまぬな、茉莉…お前には毎回、迷惑ばかり掛けてしまっておる…。」
「あはは…気にしないでよ。魔王くんの所為じゃないんだし。」
と言いながら、茉莉はこんなことになった原因を思い出す。
「…あ、魔王くんのせいだった。」
「うむ…すまぬ…。」
エルが茉莉のことを恋人だと宣言していなければ、こんな事にはなっていなかったのだ。
「そ、そういえば、妹さんは?今日は見かけてないけど、もう帰っちゃったの?ちゃんと話しした?」
気まずい雰囲気になりそうだったので、話題を逸らそうと、茉莉は質問する。
「ああ…そういえば。」
完全に忘れていたが、リアはまだ帰って来ていない。
グラゼルが白状している間に帰っていてもおかしくない程度には、あれから時間が経過していた。
そして然程時間を要さずに、帰って来ても家に入れないのではないか、とエルは今になってようやくその可能性に気付いたのだ。
エルと茉莉が玄関に向かい、扉を開けると、鍵が開けられなくて涙目になって座り込んでいるリアの姿があった。
『兄貴の馬鹿!ちゃんとドア開けといてよ馬鹿ー!!』
リアの悲痛な叫びが、マンションの共用廊下に響き渡るのだった。