2話目・その6
朝が来た。
エルはこの日、自然に目を覚ました。
時計を確認すると、普段グラゼルが起こしに来る時間より30分程の早起きであることが分かった。
二度寝するには充分な時間があるとは言えない為、エルは諦めて洗面所で顔を洗うことにする。
顔を洗って眠気を払ってからリビングへ行くと、台所で朝食の用意をするグラゼルの姿があった。
グラゼルはエルの存在に気付くと、頭を下げる。
「エル様、おはようございます。まだ少し準備に時間がかかります故、お寛ぎになってお待ち下さいませ。」
「うむ。ところで、リアはおらぬのか?」
リビングのソファーで寝ていたはずの、リアの姿は見当たらなかった。
エルはグラゼルなら知っているのではないか、と思って問いかけたのだ。
「はて…本日はお見かけしておりませんな。」
何でも知っていそうな執事にも、知らないことはあるらしい。
「そうか。」
短く答えてからエルは、部屋という部屋を見て回った。
しかし、妹の姿はどこにもない。エルは、嵐の後の静けさのような空気を感じていた。
もう魔界へ帰ってしまったのかと思うと、あのような妹だとしても寂しく思うものだ…と、柄にもなく感慨に浸る。
無断でやって来て、無断で帰るなど…本当に自分勝手な奴だ、と。
リアは人間界に興味を持っていたようだった。だからエルは少しくらいこの街を案内してやっても良かったとさえ思っていた。
だが、帰ってしまったものは仕方がない。
そもそも妹のことを気にするなど、らしくもない。
少し外の空気を吸って、気分を入れ替えるか。
心の中で言い聞かせ、朝食までには戻る旨を告げ、エルはマンションの屋上へと向かう。
すると見慣れた姿が、そこにあった。
『リア…?』
『あっ…兄貴。』
幻覚かと目を疑うが、どうやら本物のようだった。
『お前、帰ったのでは…。』
エルが呟くと、リアは泣きそうになりながら、
『帰るなんて一言も言ってないじゃん!?外に出たら入れなくなったの!!』
と、激昂した。
『勝手に鍵がかかるなんて、思わないでしょ普通!!!』
エルは人間界に来た初日のことを思い出し、笑った。
リアが批難するのを気にもせず、自分と同じ事をした妹が可笑しくて、ただ笑った。
ひとしきり笑い終えると、エルはすっかり不機嫌になったリアを連れて部屋へと戻った。
二人が外から戻ると、丁度グラゼルが食事の準備を終えたところだった。
『鍵ないと入れないことくらい教えといてよ馬鹿っ!!』
リアはリビングへ入るなり、グラゼルに八つ当たりした。
『申し訳ございません。早朝からお出掛けされるとは思っておりませんでした。』
執事はリアの理不尽な物言いにも頭を下げたが、『しかし…。』と言葉を続ける。
『リア様には良い薬になったのではと思いますぞ。』
グラゼルの台詞を聞いた途端、リアはジトっとした目つきで、エルを睨む。
兄貴がグラゼルに告げ口したの…?とでも言いたそうだった。
エルに心当たりはないので、首を横に振る。
『一日経っても魔王様から連絡がないのは不自然でございます。朝食が済んだら、魔界にお戻り下さいませ。』
そんなグラゼルの言い様に、リアが何か言おうとしたが、先んじて言葉を発したのはエルだった。
『グラゼルよ、お前も我も一度は許可したであろう?リアは暫くこの部屋に置いておく。遅くとも、三日もすれば迎えが来るだろう。』
『しかしエル様…。』
『家出したなら我も帰れと言うところだが、リアは遊びに来たと言ったのだ。そのくらい構わぬであろう?』
グラゼルは頭を悩ませるが、溜め息を吐き、最終的には折れた。
『エル様がそう仰るのであれば、仕方がありませんな。』
エルがグラゼルを納得させたことで、リアは少し機嫌が良くなっていた。
『兄貴、せっかくだから人間界を案内してよ。』
食事の席に着きながら、リアはエルを流し見る。
しかし、グラゼルが直ぐに口を挟む。
『リア様、エル様は学校に通わねばなりません故…。』
『あぁ、そういえばそっか。じゃあ学校終わってからで良いよ。』
そう言うとリアは、テーブルの上の朝食に手を付け始めた。
『ふむ。まあ、構わぬが。』
やれやれ、といった風にエルも椅子に腰掛け、食事を口に運ぶ。
リアが帰ったのではなくて安心したような、面倒事が増えただけのような、何とも言えない複雑な気持ちなのだ。
朝食を終えると、エルは着替えて学校へ向かう。
それを妹と執事が見送った。
学校でのエルは、周りから浮いた存在だった。
クラスの人間達とのファーストコンタクトに失敗したことが大きな原因だ。
茉莉とは学校内で距離を置いている以上、話しをする者はいない。
しかし今日に至って、エルと積極的に話しをしようという、物好きな男が一人現れた。
男はエルの席に赴いて、ある人物を紹介しろ、とせがんできたのだ。
「なぁ、彼女紹介してくれよ。」
この男は、数日前にエルが“彼女らしき人物”と一緒に居たところを見た、と騒ぎ立てた数名のクラスメイトの内の一人だったのだ。
つまり、男の言う“彼女”とは、女装姿の茉莉のことだ。
「断る。」
紹介など出来る訳がない。
エルは冷たくあしらう。
「何だよー、別に紹介するくらい良いじゃねーか。」
「友達でもないのに、我が紹介する義理などないであろう。」
「まぁ、それもそうか…。」
エルが言うと、男は納得したように、うな垂れる。
単純なのだろうな、とエルは思う。
そして単純ということは、次の発言も予想出来るということで。
「じゃあ友達になろうぜ。」
「断る。」
予想通りの台詞は、ばっさりと切り捨てた。
「ひでぇ!即答かよ!」
文句は聞き流す。
だが、エルが無視を貫いても尚、男は食い下がる。
「俺は、神田 亮吾だ。絶対お前と友達になってやるからな!」
この神田という男、諦めは悪いらしい。
「我は絶対ならぬからな。」
直後、朝のホームルームを告げるチャイムが鳴った為、神田は仕方なく自分の席へと戻っていった。
ああいう真っ直ぐ人間は、嫌いではないのだがな…と、心の中でエルは僅かに思う。
但し、動機が不純なものでなければ…とは付け足したが。
エルがそんなことを思う中、クラス担任の長谷川が教室へ入って来て、朝のホームルームは開始された。
ホームルームでは連絡事項が伝えられるくらいで、それが終わると1限目の授業が始まる。
まずは数学…魔界では、細かな数式というものは存在しない。
その理由としては、難しい計算を必要とする魔法が、殆ど存在しない為である。
そもそも、計算の大部分は、体感や空間把握で代用出来てしまう。
授業内容自体は、予め勉強していたので、エルにも理解出来ない訳ではない。
しかし、自ら必要価値の見い出せない授業というのは、どうしても退屈だと感じてしまう。
人間界に興味を失ってしまったかもしれない憂いも手伝って、授業中は全然集中出来なかった。
2限目は体育。基礎の体力作りということで、延々と走る。
体を動かす分、余計なことは考えずに済み、ただ走るという行為に没頭出来る…はずだった。
しかし、魔人は人間に比べ、身体能力が全般的に低い。
頑張って走っても簡単に追い抜かされるのは、次第にエルの自尊心を傷付けていく。
そうして気付けば、頭の中に思い浮かんでしまう。
『兄貴には、あんまり人間界は合わないかもね。』という、昨日リアに言われた言葉を思い出してしまう。
魔法に於いては天才であるが故に、今までエルは比較されるなら必ず模範となる側に位置していた。
人間界では、簡単にそれが逆転する。
これ程に息を切らせて走ろうとも、抜かされた者を、再び追い抜かすことなど出来ない。
走り終えると、順位は後ろから数えた方が早かった。
エルの後ろには真面目に走っていなかった者達が数人いただけで、それが更にエルの自尊心を傷付けた。
3限目は現代国語。物語を読み、登場人物が何を思ったか、筆者が何を伝えたいのか、それを読み解いていくものだ。
エルが今までに読んできた本というのは、人間界で例えれば難しい参考書のようなものばかりだった。
娯楽性のある読み物は、少なくとも魔王城の書架には存在しない。
今までにないタイプの文章に、エルは困惑する。
娯楽というものを理解しない彼には、物語の読解は、専門書を踏破するより頭を悩ませられることだった。
4限目、英語の授業だ。
学園内での正式な肩書が外国人留学生という扱いのエルにとって、英語は人間界に来るに当たって必須科目だった。
しかし、文章ならいざ知らず、英語での会話に関しては、精通する者は魔界にも少ない。
参考書はグラゼルがどこからか持ってきたのだが、魔王城の中に英語を教えられるような人材はいなかったらしく、殆どを独学で学ぶこととなった。
問題は、発音が分からないことだ。
授業を聞いていても、日本人の発する英語と、実際の英語では、イントネーションの違いが発生するらしいことは分かる。
留学生扱いなので、授業で当てられる機会がないのだけは幸いだったと言える。
そうして、午前の授業は何とか終了する。
エルは昨日茉莉に相談したことで、少し気分が軽くなったような気がしていたが、やはり気の所為だったかもしれない、と感じる。
人間界に興味を失った…明確にそれを意識すると、魔界に帰りたくなった。
魔法が使えなくなるだけで、こんなに自分の心は弱ってしまうのか、と痛感させられていた。
エルは郷愁感に苛まれながら、この日の昼食は教室内で独りで食べた。
茉莉と約束していた訳ではないし、声もかけられていない。
教室内の人間達が減っても、茉莉が席を立つ様子もなかった。
エルは弁当を食べ終えると、そのまま机に突っ伏した。
そんなエルの様子を、茉莉は心配そうに窺っていた。
もしかすると、自分に相談したことで、問題が解決されるどころか、悪化したのではないか…というのが、茉莉の気掛かりだった。
だが、人目を気にして、エルに声をかけることは出来なかった。
昼の休憩時間が終わり、5限目が始まる。
授業は日本史で、エルには正直、分からないことだらけだ。
現代の人間界のことですら、学ぶべきが多すぎるというのに。
過去の歴史を一から頭に入れるのは、あまりにも膨大だ。
魔界と違い、この世界の歴史は大雑把ではなかった。
そして全ての授業と、ホームルームまでが終了すると、エルは完全に脱力する。
そのまま突っ伏して眠ってしまいたかったが、家には帰らなくてはいけない。
帰り道に茉莉が一緒であれば、少しは気が楽になるだろうが、タイミング悪く今週の茉莉は掃除当番だった。
その事にエルが気付いたのは、下駄箱に着いた辺り。
流石に戻る訳にもいかないので、そのまま帰ることにした。
校門付近が何やら騒がしかったが、エルにはそれを気に留める余裕もなく、通り過ぎようとした。
しかし、通り過ぎようとしたところで、聞き慣れた声がするものだから、エルは反射的に其方に目を向けざるを得なかった。
『おーい、兄貴。待ち切れなくて、迎えに来ちゃった。』
エルの視線の先には、リアの姿がある。
声の主はリアだった。そして勿論、騒がしかった原因も。
エルはリアに歩み寄ると、リアの手を握って、全力で走り出した。
『ちょ、ちょっと…何!?』
『お前は…おとなしく…待っておる…ことが…出来ぬのか…!!』
走りながら、エルは叫んだ。
校舎が見えなくなると、エルは疲れて走るのを止めた。
肩で息をしながら、改めてリアの格好を見、そして、
『魔界の服はな…人間界では、浮いて、おるのだ。』
残酷な真実を告げる。
『…あー…だから見られてたんだ。』
しかしリアは別段、気恥ずかしいといった様子はなく、単に納得して頷いただけである。
更には、
『まぁ、それはいいや。約束通り、人間界案内してよ。』
と、あっけらかんとしていた。
ちなみに、悲しい事実を突き付けるようだが、エルの全力疾走はそんなに早い訳でもなく、息を切らせているのはエルだけであった。
『おい、我の話を聞いておったか?お前、浮いておるのだぞ。』
ようやく呼吸が落ち着いてきたエルはそう言いながら、せめて着替えてからにしろ…と目で訴える。
『別にどうでもいい。ってか引き返したら、わざわざ来た意味ないじゃん。』
不満そうにリアは口を尖らせる。
『…リアが良いなら良いか。見られるのは我ではないしな…。』
半ば諦めたように呟くエル。
リアは、エルが渋々ながら承諾したのを見遣ると、何かを企んでいるかのように、口の端を吊り上げる。
妹の悪い表情には気付かずに、エルは、
『では、どこから行くか。』
独り言のように漏らした。
その後、エルはリアを連れて、街中を歩いた。
基本的には表通りの賑やかな街並みを見て回る。
通りに面する店のショーウィンドウから売り物を覗いたり。デパートの雑多な店内を巡ったりもした。
何かを買うといったことはなかったが、リアは見ているだけで楽しそうだった。
リアが一通り満足した様子を見せたので、彼らは近くの喫茶店に入り、一息付くことにした。
程々に繁盛しているらしいが、待たされはせずに、空いていたボックス席に向かい合って座り、紅茶を二つ注文する。
『人間界すごいね!』
キラキラと目を輝かせながら、リアは言った。
『魔王城には無い物ばかりだからな。』
珍しく歳相応のリアクションを見せる妹に、兄は微笑を返す。
『城の外でも見たことないよ、人間界にあるような大きなお店!』
『リア…お前も城の外には出たことなど無いであろう?』
『ん…あぁ、私は兄貴と違って空気みたいなものだったからね。たまにこっそり城から抜け出してたんだよ。』
リアは上機嫌なのか、何でもないことのように秘密を暴露したりもした。
今なら隠している本心ですら、聞けば口を滑らせるのではないか、とさえ思うエルだった。
無論、実行に移す程、野暮ではないが。
『あ、これ美味しそう。』
リアがメニューを見ながら指差したのは、旬の苺をふんだんに使ったパフェだった。
値段はというと、980円。
茉莉との買い物以降、グラゼルからお金を持つ許可を得てはいたが、現在エルの持ち合わせはあまり多くない。
手持ちで足りなくなりそうな時は、言えば渡してくれるということだが、無駄遣いしない為には必要な措置であった。
持ち合わせが足りない訳ではないが、流石にそんな高い物を頼まれては、早々に追加のお金を要求する必要に駆られそうである為、エルは難しい顔で不満を漏らす。
『もう少し安い物にしろ。』
『値段なんて見ても分かんないもーん。』
聞く耳持たず、リアはメニューにじっと目を落としながら言う。
確かに魔界と人間界では数字自体も表し方が違う。
そこまでリアに求めるのは、酷なことかもしれない。
『まあ…良い。次来る時までに、少しは勉強しておくのだぞ。』
『はいはい。次までにねー。兄貴の彼女も次までにどうなってるだろうねー。』
『は?どういう意味だ?』
『だって今日グラゼルが…───』
言いかけて、リアはハッとした。
目の前から殺気を感じたからだ。
『グラゼルがどうしたというのだ?』
エルは悪人のような形相で、リアのことを睨んでいた。
『そ、そんなこと言ったっけ?』
グラゼルの名前は、うっかり口から出てしまっただけだ。
しかし、咄嗟にはぐらかしたことで、余計にエルに怪しまれる。
エルは、リアの言動から、グラゼルがまた何かしでかそうとしていることを察する。
今この瞬間にも、それは行われているかもしれない。
『…隠しても為にならぬぞ。』
身を乗り出し、強い声色で問い詰める。
と思いきや、わざとらしく溜め息を吐き、軽い口調で続けた。
『正直に話すならば、これを頼んでやろうと思ったのだが。』
そう言いながら、エルは指をメニューの写真に向かわせる。
先程リアが食べたそうにしていた、苺パフェの写真に他ならない。
普通に詰問したところで簡単に口を割らないだろうし、話す結果になったとしても、それは恐らく数十分は後のこと。
それでは遅い。一秒でも早く知り、即座に対処を考えなければならない。
だから、やり方を変えた。
餌で釣る…そうすれば、一瞬で進展するだろうと判断した。
勿論、代償は大きかったが。
『じゃあ話す!』
10秒と待たず、リアは誘惑に負けた。
エルが店員を呼び、苺パフェを注文すると、リアは話し始めた。
『グラゼルが今日、茉莉を呼び出して、恋人に相応しいかどうかテストするーとか言ってたんだよ。兄貴がいると邪魔されるだろうからって、私は少し協力してあげただけ。まぁ、面白そうだったし。』
『どのようなテストなのだ…?』
『内容は知らないよ。…いや、ほんとに知らないからさ、そんな睨まないでよ。』
今更話さない気か?…と、目で脅してくるエルに、リアは牽制しておく。
『そもそも茉莉を呼び出すなど…我を通してでなければ無理であろう。一体どのような手を使ったのだ…。』
『それも知らない。でも、多分来るだろうって言ってたからね。今頃、茉莉はテストとやらを受けてるんじゃないかな。』
エルは、予想してたとはいえ、改めて企みを告げられると、居ても立ってもいられなくなる。
暫く考えた後、エルは口を開いた。
『リア…お前、帰り道は分かるか?』
『え?うん。分かるけど。』
意図を掴めず、リアはきょとんとする。
『我はそのテストとやらを止めねばならぬ。金は支払っておくから、食べ終わったら一人で帰って来られるか?』
『あー、はいはい、そういうことね。まぁ、手遅れかもしれないけどね。』
エルの台詞に、リアは納得したように答えた。
『うむ…悪いな、リア。』
『悪いと思うならさ、また今度、人間界案内してよ?』
『ああ、約束しよう。』
エルは伝票を持ってレジに向かい、手間取りながら慣れない会計を済ませると、急いで店を飛び出していった。