2話目・その5
エルが暮らすのは4LDKのマンションである。
4LDKとは、4つの部屋と、リビング・ダイニング・キッチンの存在する、マンションやアパートにおける分類のことだ。
部屋数が3つになれば3LDK、リビングがなくなれば4DK、キッチンのみなら4Kと、他にも種類がある。
このマンションでは、リビング・ダイニング・キッチンは一つの大部屋として纏まっているので、個人が使用する部屋は4つに限られる。
一つは、エルが最初に適当な部屋を自室とした。
一つは、グラゼルがほぼ就寝用といった感じで使っている、4部屋中最も畳数の少ない部屋。。
一つは、物置のようになっていて、残りの一つは、特に使われていない。
エルはリアに、空き部屋を自由に使って構わない、と言ったのだ。故に、現在リアが居るであろう部屋を探し当てるのに、何ら苦労はしなかった。
『リア、話がある。入って構わぬか?』
使われていない部屋の前で、エルは妹の名を呼ぶ。
すると、中から不審そうなリアの声が返ってきた。
『兄貴?彼女に構ってあげてなくて良いの?』
『ああ、もう帰ったからな。』
茉莉とはあの後、話し合いの末に目的地を決めた。
話し合いが終わると、既に時間が良い頃合だったのか、はたまた気を遣ったのか、茉莉は自分の家へと帰っていった。
『あぁ、そう。良いよ、入って。』
リアに許可を得たところで、エルはドアを開いて部屋の中へと入る。
『暗いな…電気くらい点けたらどうなのだ。』
『何?デンキ?』
マンションの共用廊下側にのみ窓の付いた部屋だったので、陽が傾き始めると、その暗さはハッキリと見て取れる。
その中でリアは、フローリングの床に直接座り込み、入ってきたエルの放った言葉の内、聞き慣れない単語を、不思議そうな様子で復唱した。
『…そうか。リアは知らなかったか。』
エルは微笑を漏らす。
『な、何なの!さっき邪魔したからって、私のこと馬鹿にしに来た訳!?』
『否、そんなつもりはない、悪かったな。』
謝罪しながら、エルは人間界に来たばかりの自分と、妹を重ねていた。
思えば、最初は車を知らなかった。知識としては知っていても、実際に目にすると、車だとは分からなかった。
エレベーターも知らなかった。買い物の仕方も知らなかった。
それらを教えてくれたのは、グラゼルであり、茉莉であり、このマンションで出会った名も知らない住人達でもあった。
リアの反応を見て、つい数日前の事なのに、懐かしむように思い出してしまったのだ。
『そ、そう。じゃあ、そのデンキっての、早く点けてよ。』
『うむ。多分お前は驚く。否、確実に驚くぞ。』
『そういうの良いから!』
不敵に笑いながら、エルはドアの真横にあるスイッチを押した。
すると、部屋の中央の天井部分から、白い蛍光色の光が溢れ、部屋の中を照らし出した。
リアは大きく目を見開いて、感嘆していた。
『何これ…!魔法使わなくっても、こんなに明るくなるものなんだ…!』
リアの様子に、エルは満足していた。
自分と同じように、リアは人間界に興味を持ったのだろう、と感じた。エルには、それが嬉しく思えた。
『当然であろう?人間の技術というものは、凄まじいのだ。魔法を使えぬからこそ、魔法以外の分野では、我々魔人の想像を超える進化をしておるのだ。』
『凄いね、人間界。良いなぁ兄貴、こんな便利なとこで暮らせてさ。私も本気でここに住みたいなぁ。』
『迎えが来るまでだ、忘れるでないぞ。』
本当にいつまでも居座りそうだと思ったエルは、すかさず釘を刺しておく。
『はいはい。分かってる分かってる。』
と、リアは全く分かってなさそうな返事をする。
そして、苦笑しながら言い難そうに続けていた。
『まぁでも…兄貴には、あんまり人間界は合わないかもね。』
リアの言いたいことを、エルはすぐに察することが出来た。
自分と違って、エルには、魔法が必要ない世界なんて、暮らし難いだけじゃないのか…と、リアは考えているのだろう。
魔界でのリアは、魔法の天才であるエルと常に比べられてきた。
どちらかというと才能のなかったリアは、それが苦痛だった。
とはいえ、それを態度に出すことも、エルを恨んだりもしなかった。
むしろエルに対しては尊敬の念すら抱いていた。
天才の兄が、落ちこぼれの自分と、対等に話をしてくれるのは、リアにとって何より嬉しかった。
だから自分より仲の良い存在が居たのが気に障った。
目を合わせて会話をしなかったエルが、自分を対等に扱っていないのだと感じ、耐えられなかった。
人間界に来て変わってしまったのだと思うと、認められなかった。
しかし…兄は変わってはいないのだろう。
こうして話をすることで、リアはそれを感じ取っていた。
『それで、話って何?』
リアは昔からそうしてきたように、心の内を隠しながら、エルに問いかける。
『ああ、うむ。否…お前が無理をしているのではないかと、な。』
あり得ない言葉がエルの口から出た所為で、一瞬、リアの心臓が跳ねた。
気付くはずがないと思っていた。
『はぁ?私のどこ見てそう思った訳?』
だが、すぐに動揺を隠し、大げさに、呆れた…、といった仕草をエルに向けるリア。
気付かれた訳はない。気付くなら、もっと早くに気付いているはずだから。
そんな風に、リアは自分に言い聞かせることで、平常心を保とうとする。
実際その通りだった。エルは難しい顔をしながら、リアの方をじっと見つめて、
『正直、我にもそんな風に見えぬ。』
と、言うのだから。
その反応にリアは安堵し、可笑しそうに笑った。
『何それ。意味分かんない。』
『うむ。やはり、リアはリアだな。心配して損をしたぞ。』
エルは肩を竦めた。
無理をしてる、と本気で言ってる訳じゃないのは、そんな様子から理解出来た。
『やめてよ。兄貴に心配なんかされても、むず痒いだけなんだから。』
安心しきったリアは軽く嫌味を混ぜて返す。
『お前は昔から変わらぬな。』
『まぁね。』
そしてやっぱり、エルも変わってはいないのだ、とリアは再確認する。
『変わりたくないから、変わらぬのであろう?』
『…えっ?』
だから、リアの知っているエルならば、絶対に続かない言葉を投げられ、狼狽える。
『リアが昔から変わらぬのは、何か理由があるからではないのか?』
『えっ…いや…何もないって…。』
突然エルが自分の知らない他人になったみたいで、リアはいつものように振舞えない。
リアが明らかに動揺したのを見て、本当は心の内に何かそうしなければならない理由を秘めていたのだ、とエルは確信に至った。
『我は昔から変わらぬお前が、どのような理由で本心を隠しておるのか、考えたこともなかった。』
『やめて…。』
思考の追いついていないリアは、しかしこれ以上本心を暴かれたくなくて、エルの言葉を遮ろうとする。
そんな妹に対しエルは、引くことなく、素直な気持ちを告げる。
『リアよ…お前が変わりたくないと、何も変えたくないというのならば、我もお前への態度を改めるつもりはない。だから、今だけは嘘を吐くな。』
そして先程の台詞を、もう一度繰り返す。
『変わりたくないから、変わらぬのであろう?』
その問いかけに、リアは聞き取れない程の小さな声で、
『…うん。』
と、確かに言った。
エルは声を聞き取れはしなかったが、リアが肯定を示したことだけは分かった。
だから普段通り余裕のある笑みを浮かべると、リアに本音を晒すのだ。
『ならば我は今まで通り、生意気な妹に気など遣わぬぞ。我もその方が楽で良い。』
『なっ…生意気って言うな!』
エルの言い方に、態度に、腹を立てながらも、その実リアは嬉しくて仕方がなかった。
今までの関係を崩したくない。互いに対等な存在で在りたい。そう思っていたのはエルも同じだった。
兄妹は互いに、気の置けない、言うなれば友という関係にも元から近かった。
リアは今更そのことに気付かされるのだ。
『…ありがと。人間界に来て、ちょっと変わったね、兄貴。』
だから不機嫌そうにしながらも、お礼など言ってしまったのだろう。
一方、感謝を告げられた当人は面食らっていた。
『な、何なのその顔!!今だけだから!今後死ぬまでお礼なんか絶っっっ対、言わない!!』
『リアが礼を言うなど、あまりにも、らしくないからな…。というか、死ぬまでは流石に大げさだろう。』
エルは苦笑してしまう。
『はぁ?らしくないって、人のこと言える?兄貴だってあの茉莉とかって女に何か言われたから私と話しに来たんでしょ、実際。』
リアは不満そうに、無遠慮に言葉を投げる。
『何故そう思うのだ?』
別にエルは隠す気はない。リアも咎める気はない。
『女の勘。』
『は?』
『当たってるでしょ。』
言いながら、一笑に伏す。
『うむ…別に否定はせぬ。だが、茉莉はきっかけをくれただけだ。我が話したいと思ったからこそ、お前と話しをしに来たのだ。』
『やっぱりね。』
リアにはもう茉莉への苛立ちはない。
多分、茉莉もエルにとっては自分と同じように、対等に話が出来る一人なのだ、とリアは考えを改めていた。
どちらが、よりエルと仲が良いのか、などと考える事自体が馬鹿馬鹿しかったのだ、と。
そんな風に考えられるようになった所為か、リアは少しだけ、自分が隠していた気持ちを見抜いた茉莉という人間に興味を持った。
二人の話が終着点を見付けた頃、グラゼルが廊下から姿を見せた。
『エル様、ここにおられましたか。リア様も、ご夕食の準備が整いましたぞ。』
『うむ、すぐに行く。』
『うん、私もお腹ぺこぺこ。』
3人はそのままリビングへと向かった。
その日はエルが人間界に来てから初めての、賑やかな食卓となったのだった。
夜、リアはエルの部屋へとやって来た。
『兄貴、大変。』
『どうした?』
『寝る場所がない。』
『………ああ。ベッドは、持って来てはおらぬのだな?』
『ベッドがない部屋なんて、あると思わないでしょ普通!!』
『うむ、我もそれは、人間界に来てから知った事実であった。異世界には、ベッドのない部屋が存在するのだな…と、軽く衝撃を受けたものだ。』
夜、リアは人生で初めて、ソファーで寝ることとなった。