2話目・その4
エルは玄関で待っていた茉莉を家に上げると、そのまま自室に連れていった。
横並びでベッドに腰を落ち着けると、エルは茉莉に謝辞を述べる。
「悪いな茉莉。わざわざ足を運んで貰って。」
「ううん、そんなの気にしないで。それで…相談って?」
「ああ。それなのだが…。」
エルは語った。
自分が人間界に飽きたのではないか、ということを。
今朝、洗面所にて至った結論を全て曝け出した。
尤も、グラゼルがエルに言った内容や、それを否定する為に思考をした、というのは過程の部分なので伏せておいたが。
茉莉はエルの言葉を一字一句聞き漏らさないよう、集中して耳を傾けていた。
「………故に、この問題を解決する方法はないものか…と考えていたところなのだ。」
と、エルが結論を言い終えると、茉莉は少し悩んだ末、考え考えではあるが、自分の意見を告げる。
「やる気なくなっちゃうっていうのは、うん、誰でもあることだよ。自分の理想とかけ離れた現実を見せられたり、感じちゃったりなんかすると、多分、そうなっちゃうんじゃないかな。魔王くんにはそういう心当たり、ない?」
「うむ…心当たりか。順応したと感じることはあっても、興が削がれたと感じることは、なかった気がしておるが。」
「そっか…じゃあ、飽きたっていうなら、んー…例えば、どんなことに飽きちゃった?」
「改めて聞かれると…思い当たらぬな。強いて言うならば、真新しいと感じる物がなくなってしまったこと…であろうか。」
茉莉は親身になって相談に乗っていた。
進展がないのは、無自覚な上での問題だからだ。茉莉にもそれは分かっている。
解決には、ひたすら可能性を探っていくしかなさそうだ。
「じゃあ、そういう真新しさっていうのが感じられれば、悩みも解決するかもしれないのかな。」
「それは分からぬが、可能性はある…であろうな。」
「魔王くんがこっちに来て、まだ一週間経ってないでしょ?そんなにすぐ、知らないことがなくなるなんて、思えないんだけどなぁ…。」
現実的には、たった一週間で、日本の全てを理解するのは不可能だ。
それに、この世界において、日本というのは海に浮かぶ小さな一つの島国でしかない。
普通に考えて、エレベーターすら知らなかったエルの興味が、そんな短期間で尽きてしまうはずはないのだ。
「ううむ…だが事実、人間界で大抵のことは最早、我の知るところとなっておる。」
エルは、小国である日本の、更にその一部でしかないこの街が、世界の全てであるかのように言い切っていた。
普通なら呆れるところだろうが、茉莉はエルの言葉に、悩みを解決する為の糸口を見付ける。
「んー、じゃあさ、魔王くんさえ良ければだけど、今度の休みに、少し遠くにお出掛けしてみない?」
「それは良いが、あまり解決するとは思えぬぞ。」
「生活範囲が決まっちゃってる現状に慣れちゃったなら、その範囲を広げてみれば視野も広がって、新しいものも見えてくると思うんだよね。それに、物は試しって言うし、何事もチャレンジだよ!」
誰しも悩みがある時は、それが例え自分の知識不足からくることだろうと、事実を突きつけて無知を晒されるより、諭されること、同調されることを望む。
故に茉莉は、エルを傷付けないように言葉を選んでいた。
その成果なのかは定かではないにせよ、エルは実際、素直に茉莉の言うことを受け入れる。
「茉莉がそう言うならば、従おう。」
だが、茉莉はそんなエルの物言いには口を尖らせた。
「もうー、そういうのダメだよ、魔王くん。ボクが言ったから、じゃなくて、自分から行きたいって思うようにしないと。病は気から、なんだよ?」
「う、うむ…では、そうだな。我も、茉莉と一緒に、出掛けたいと、思うぞ。」
改めて言うのが気恥ずかしかったのか、エルはぎこちなく言葉を口にした。
一方、茉莉は満足したように笑顔を向ける。
何故かエルは、少しだけ気分が軽くなったような気がしていた。
茉莉は笑顔のまま、エルに話しを続ける。
「それじゃ魔王くん、どこに行くか決めよ………う?」
しかし、突然部屋のドアが開かれたことで、茉莉の台詞の最後は、随分と間の抜けたものになった。
一切の躊躇なく部屋に踏み込んで来た人物を見て、茉莉は笑顔のまま固まったのだ。
それは、エルも同じだった。
茉莉は今の会話を聞かれたかもしれないという懸念。エルは純粋に、その少女が今この部屋に入って来た意味が分からなかった。
突如として部屋に侵入してきた妹リアは、二人が正常な判断を出来ていない内に、更に驚くべき行動をとった。
エルに向かって走り寄り、抱き付いたのだ。
『お、おい…リア…!お前、何をしに来た…!?』
エルは混乱しながらも、魔人の言語で、妹の意図を問い詰める。
『んー?最初に言ったよね、遊びに来た…って。』
そう言って、リアはエルに抱きついたまま、黒い微笑で茉莉を一瞥する。
『だからさ、単にもう少し兄貴と一緒にいたかっただけだよ。ほら、話してたんでしょ。気にしないで続けて続けて。私のことは空気だと思って。』
『思えるか!!』
エルは妹を引き剥がして追い出したいのだが、中々離れようとしない。
何やらエルの態度があまり芳しくないのを見て、茉莉は恐る恐る尋ねる。
「あ、あの…エルくん…この子は…その…。」
先刻の会話を聞いていたのか、とは言えないので言葉を濁していたが、エルには茉莉の言わんとすることが伝わったらしく、
「ああ…大丈夫だ。こいつに日本語は分からぬ。会話は聞かれてはおらぬ。」
と、茉莉が言い辛そうにしていたことを、はっきり告げた。
それを聞いて、茉莉はホッと胸を撫で下ろす。
しかしそうなると、次なる疑問が湧き上がってきた。
「そっか。えーと…あの…それで、その子は魔王くんの何なの?名前とか。関係とか。」
魔界の言語を用いて、エルに抱き付いている人物との関係性…パッと思い付くのは、魔界での恋人や許婚だ。
茉莉に嫉妬という感情がある訳では無いが、不安そうにエルのことを見ていた。
勿論、今の茉莉の見た目があまりにも女性にしか見えないとしても、実際男性であるのだから、嫉妬な訳はない。それは分かりきっている。
では何故、茉莉がそんなに不安そうなのかというと…エルが数日前に、茉莉が恋人であるとグラゼルに公言したことに起因する。
恋人宣言自体は、グラゼルの前置きがあまりにも進展しなかった為に放った、エルの妙案だったのだが。
エルに抱き付く少女が恋人や許婚のような関係であれば、エルは堂々と二股を宣言したことになる。
そして、そのことはグラゼルからこの少女に伝わっているであろうことは、想像に難くない。
エルは引き離そうと必死で気付かなかったようだが、茉莉はリアから向けられる敵意のようなものを感じていた。
だからこそ余計に思うのだろう。もしそうだったら、いたたまれない。
自分の予想が外れていてくれればいい。その為に、二人の関係を確認したい、と茉莉は思うのだ。
「ああ…うむ。わざわざ紹介するような者ではないのだが。」
エルは曖昧な返事をする。が、何としても確認したい茉莉は、
「答えて!」
と、エルに詰め寄っていた。
「ま、茉莉…?」
「いいから答えて!魔王くん!」
その様子はリアにとって、女が兄に対して醜い嫉妬を露にした、と解釈するには充分だった。
会話の内容は分からずとも、確信を持った。
そして勿論、嫉妬心を掻き立てる為に抱き付いたのだ。リアは思惑通りに事が運んでいることを疑わなかった。
「あ、ああ…。名はリア…我の妹だ。」
だから、エルが詰め寄られた状況で、言い訳のように放った一言で、茉莉の様子が一変したのを、リアは釈然としない様子で眺めることとなった。
「そっか、妹…だったんだね。」
茉莉は安心して、すぐに笑顔を向けていた。
と思うと、直ぐにぺこぺこと謝りだす。
「あっ…ご、ごめんね、魔王くん。ボクちょっと、勘違いしちゃってて…その…ごめんね。」
「う、うむ…よくは分からぬが、気にするでない。」
何なんだこの女…と、リアは訝しんでいた。
例えエルがリアのことを妹だと告げたとしても…というか、十中八九告げただろうけど、普通は簡単に信用はしないはずだ、と。
そんな安易に信用するほどの仲まで進展してるっていうの?たった一週間で?
ありえない…。
なら、単に何でも信じるちょろい女だっていうの?
そんな女に、あの兄が惚れてるの?
リアの頭の中では、概ねそのような考えが巡回していた。
リアが思考の渦中にいる間にも、リアには内容が不明のまま二人の会話は進んでいき、急にエルはリアに言葉を投げかけてきた。
『おいリア、茉莉がお前と話したいと言っておるのだが。』
『ふぁ?』
心の準備が出来ていなかった為に、変な声が出てしまった。
邪魔しに来たことを咎めようとでもいうのか、この女…?と、まるで状況を理解出来なくなってしまったリアは、兄の女から話したいなどと言われた想定外の事態にも、中々上手く考えを纏めることが出来ずにいる。
一筋縄ではいきそうにない。一度退いて、作戦を立て直す必要があるんじゃないか。とか、今更そんな消極的なことばかりを考えた。
けど、今は取り敢えず、この思い通りに事が進まない苛立ちを、目の前の兄にぶつけよう…リアはそう思って、不機嫌そうに言葉を返す。
『私、兄貴の女なんかと話す気ないから。』
『そうか。否、我はむしろその方が良いと思う。』
エルの言葉を聞きながら、リアは苛立ちを抑えられなくなる。
苛々するのは、自分にも、兄の恋人にも。
そして、自分に話しかけているのに、ずっと女から視線を離さない兄にも、だ。
『兄貴、何であんな女と付き合ってる訳?』
『は?お前には関係ないだろう…。』
リアは、エルの言い方に、今度こそ腹が立った。
だから感情に任せて、そのまま自制もせず吐き出してしまったのだろう。
『兄貴は見た目可愛けりゃ何でも良いの?それなら別に私と付き合っても良いよね?ってか、私あの女より可愛い自信あるし、胸だって私のがあるし。』
『ああ!?』
苛立ちは、ただの嫉妬だ。
兄が他の女と、自分より仲良さそうにしているのが、気に食わなかったのだ。
『あ、もしかして兄貴怒った?っていうか、まな板が好みだったの?ぷぷっ。』
そんな風に、わざとらしくエルを挑発して、視線を自分に向けさせた。
それだけで、リアは愉悦に浸る。同時に、少しだけ苛立ちが収まった。
『リアよ…貴様、今すぐ魔界に追い返されたいようだな…。』
『冗談で言ったんだけどなぁ、怒るってことはやっぱり図星だった?』
エルが怒る事など意に介さず、リアは言葉を続ける。
そうしていれば、兄は自分と視線を合わせて会話をしてくれるのだから。
しかし、苛々が少しずつ消えていくのを感じると、リアは冷静な心を取り戻し始める。
このままエルを怒らせ続ければ、直ぐにでも魔界に追い帰されて、今後一切話をしてくれない…ということも、あり得るのではないか。
リアは、エルと話が出来ないのだけは、嫌だった。
『…まだ、今謝れば許してやらぬことはないぞ。』
だから、エルの最後通告には、素直に従った。
『うん、ごめんごめん。あんまり兄貴が彼女と仲良さそうだったから、ちょっとからかいたくなっただけだよ。本気じゃないって。』
リアは本心を嘘で塗り固める。
エルがそれに気付くことはない。
何故ならリアは、嘘を吐くことに慣れている。
物心付いた時からエルに接してきたリアの態度は、全てが虚偽だったのだから。
『あと、邪魔者はそろそろ退散するよ。彼女にも悪かったって言っておいて。』
冷静に意地の悪い笑みを浮かべると、リアは部屋を出ていった。
「ボク、妹さんに嫌われちゃったかな…?」
話をしたい、とエルに伝えて貰っただけで、怒った様子を見せて部屋を出ていってしまった…と、茉莉にはそれだけしか分からなかった。
「気にするな、昔から誰にでもあのような態度しか取らぬのだ。」
「…そうなの?何だか、無理してるみたいだったけど…。」
茉莉はリアのことを知らないから、客観的に見ることで、そう感じたのだろう。
エルはそう言われても、いつものリアと変わらないように見える為、不思議そうに首を傾げただけだった。
「ね、魔王くん、一度妹さんとちゃんと話し合った方が良いと思うよ。…って、魔王くん悩んでるのに、もっと悩みが増えちゃいそうな気はするけど。」
「うむ。まあ、リアは何がしたいのかも、分からぬからな。我としても、時々扱いに困る。」
「え?何がしたいって…普通に魔王くんと話したいんじゃない?」
同意を示さないエルに苦笑しながら、茉莉はリアの心をも理解しようとしていた。
「茉莉には、そのように見えたか?」
「うん。勿論何話してたかは分からなかったから、態度とかで判断すると…だけど。」
「そうか…茉莉がそう感じたのなら、一度話してみるとしよう。」
口に出してから、エルは思い出したように、今の台詞を、言い直す。
「違ったな。妹があのような態度なのは、昔から変わらぬことだが…そういう妹に慣れ、我の視野は狭くなっておるのだろう。だから、リアの気持ちを改めて知る為、我はリアと話をしたいのだ。」
「うん。」
茉莉は笑顔で頷くと、
「それじゃあ、魔王くん。改めて、休みの日どこに行くかだけ、決めちゃおっか。」
と、リアの乱入によって中断してしまった外出予定を、二人で話し始めるのだった。