2話目・その3
エルは午後の授業を終えると、そのままマンションへと直帰した。
この日、玄関でエルを出迎えたのは、グラゼルではなかった。
その人物は魔界の言葉を用い、一段高くなった廊下の上から、たった今玄関の扉を開けたエルを眼下に捉える。
『やっと帰ってきたね。』
エルは、その人物を見て、言葉を失った。
一瞬、幻覚なのではないかと、目を疑った。
まさかこの場所で会うなど、予想だにしなかった人物が、エルの目の前にいたのだ。
その人物を、エルはよく知っている。
『久しぶり、兄貴。』
と、含みのある笑みを見せるのは、長めのセミロングくらいの黒髪を持つ少女だった。
『何故お前が人間界にいるのだ、リア!?』
エルは反射的に、少女の名を叫んでいた。
リア・メルシェ・ラヴィニール・ド・サタン。それが少女の名前であり、魔王の娘であり、エルの妹である。
『遊びに来ちゃった。あ、親父たちには無断で来たんだよね、だからグラゼルには内緒にしといて。今グラゼルいないし、聞かれる心配はないからさ。』
リアは全く悪びれる風もない。
『お前なぁ…。』
と、呆れながら溜め息を吐くエル。それにも意を介さず、リアは話を続ける。
『まぁ、来ちゃったんだからさぁ、今更帰れないじゃん?だから迎えが来るまで兄貴のとこに厄介になりたいんだけど。』
『知るか、グラゼルに聞け。』
無断で来たのを内緒にして欲しい、とリアが言ったのは、恐らくグラゼルにはバレてしまうと思ったからだろう。
先にエルを味方につけることで、例えグラゼルにバレてしまっても、エルがここに居て良いと言った事実があれば、グラゼルも無理に追い返すことはしない、と考えたのだろう。
そういったリアの思考を読み取った上で、敢えてエルはグラゼルに許可を求めさせる。
言うまでもなく、エルにとっては拒否と同意だった。
しかし、リアはエルの発言に対し、何でもないことのように、言ってのけた。
『グラゼルには、もう承諾して貰ったよ。』
『は!?あのグラゼルが許したというのか!?』
エルの動揺は尤もだ。グラゼルならリアのその場凌ぎの嘘くらい簡単に見抜くと思っていたのだから。
『巧いこと言って信じて貰ったからね。』
リアは予めグラゼルが直ぐに嘘だと気付くことがないような理由を、一週間考えに考え、でっち上げたのだ。
事は少女の思惑通り進んでいた。グラゼルより説得したかったのはエルの方だったのだから。
そもそもリアは、無断で来たことを、エルとグラゼルのどちらにも話さないまま、人間界で過ごすのは流石に無理があると思っていた。
その内どちらかに勘付かれてしまう。
バレてしまった後は、2人が結託してリアを追い返すのも、予想出来る。
ならば、そうならないよう、一方には協力して貰わなければならない。その為には、予め真実を告げておく必要がある。
では、どちらに真実を話すべきか、と考えると…それは迷うまでもなくエルだ。
エルはそもそも、リアが無断で人間界に来たと告白したところで、積極的に帰そうとはしない。
そんな些細な悪戯心など、呆れながらも笑って許してくれるだろう、という確信がリアにはあった。
事実エルは呆れた様子だったが、帰れとまでは言っていない。リアの読みは当たっている。
エルを味方に付けたい、というところまでエルの予想通りだったが、それはグラゼルに許可を取る為ではなく、もっと先のことまで考えてのことだったのだ。
リアはエルの思考を予測し、エルならグラゼルに許可を求めさせるだろうと考え、先にグラゼルに許可を取ることで、エルには真実を告げながら味方に付ける条件を成立させた。
長年付き合ってきただけあって、妹は兄に、完全に読み勝っていた。
動揺を隠せないまま絶句しているエルを見て、リアは完璧な勝利を確信している。
しかし、人間界で暮らした1週間で、エルの考え方が変わった可能性も、同時に少し考慮している。
だから、エルが正常な思考を取り戻す前に、止めを刺しに行く。
『で、グラゼルが許可すれば、ここに住んで構わないんだったよね、あ・に・き?』
エルには何も言い返すことは出来なかった。
一度口にしたことを違えることを、良しとしない。
彼の性分を理解した上で、リアは勝利の台詞にそれを選んでいた。
『…まあ、グラゼルが許可したのでは仕方が無い。迎えが来るまでは居ても良いぞ。空いてる部屋は自由に使って構わぬ。』
エルの溜め息が漏れる。してやられた…と。頭がこれ以上の思考を放棄し、敗北を認めていた。
『兄貴ならそう言ってくれるって信じてたよ。』
妹リアは実に愉しそうに、おちょくったような態度を隠しもしない。
『心にもないことを…。』
と、エルは苦虫を噛み潰したような顔で、リアを睨み付ける。
『ホントホント。だって…───』
リアは何かを言いかけたが、後に言葉を繋げることはなかった。
突如玄関の扉が開き、グラゼルが姿を見せたからだ。
グラゼルは玄関に立ち尽くすエルと、それを廊下から見下すリアを見て、状況こそ理解出来なかったが、
『エル様、リア様。中で座ってお話をされては如何でしょう?』
と、至極当然な進言を述べるのだった。
別段拒否する理由もないので、三人はそのままリビングへと場所を移す。
グラゼルは台所で買い物袋の中身を冷蔵庫へ入れると、紅茶を淹れた。
そしてソファーに座ったエルとリアの前にそれぞれ配り終えると、一礼し再び台所へと下がっていった。
リアは、グラゼルが近くに居る為か、先程言いかけた言葉の続きを自ら口にはしなかった。
エルにとっては聞くまでもない…というか、どうせ自分を小馬鹿にしたような台詞だったのだろう、という思いが強く、わざわざ聞きたくもないことだ。
だからこの場でリアがエルにそれを告げる機会は訪れないのだった。
二人が黙って紅茶を飲んでいると、ピンポーンという聞き慣れない音が室内に響いた。
「誰かいらっしゃったようですな。」
台所からグラゼルが顔を覗かせる。
来客に心当たりがあるエルは、グラゼルの言葉を聞くと、真っ先に立ち上がった。
「グラゼル、我が出る。」
一言告げて、エルはリビングから玄関に向かおうとしたが、グラゼルがそれを制した。
「エル様。エル様が自らそのようなことをなさる必要はございません。ここは私めにお任せ下さいませ。」
言うが早いか、グラゼルは素早くリビングのドアに辿り着くと、すぐさま玄関に向かった。
エルにはグラゼルを引き止める暇はなく、ドアを開けようとして行き場を失った手を、その場でゆっくりと下ろした。
『どうしたの、兄貴?さっきの変な音って何だったの?』
日本語を覚えていないリアには、今の2人の遣り取りが、よく分かっていなかった。
『ああ。友人を呼んだのだがな。我が出迎えようと思ったら、グラゼルは自分が行く、と。』
『ふーん。友達って…女?』
リアは何気なく質問する。エルには正直、返答に困る質問だった。
茉莉はグラゼルから女性であると認識されている以上、エルの家に来る時、女装をする必要があるはずだ。
ここでエルが男だと答えてしまうと、もしリアが茉莉を見た場合、女装だということを悟られてしまう。
秘密を守る為、エルは肯定するしかなかった。
『…う、うむ、そうだが。』
『そう。』
何やら歯切れの悪い兄の返答から、その女性とはただならぬ関係であると推察した妹は、少し興味を持った。
しかし、そういう場合は興味を持ったことを告げれば大抵、邪魔者扱いされるのがオチだ。
それでは面白くない、と…リアは、何でもないような、素っ気無い返事を返した。
だから、リアには関心がないのだな…とエルは疑わない。
エルがリアに対し何の疑念も抱いていないのを確認すると、リアは心の中でほくそ笑む。
兄妹がそんなやり取りをしていると、間もなくグラゼルが戻って来た。
「エル様、茉莉殿がお見えになられましたぞ。」
「うむ。すぐに行く。」
茉莉が来るのは分かりきっていたことだが、エルは毅然とした態度を以って、リビングを出て行った。
エルがいなくなった途端にリアは、エルの呼んだ女がどんな人間なのか確かめてやろう…と、悠然と黒い笑みを零すのだった。