2話目・その2
通常授業が始まったとはいえ、最初は担当教師の自己紹介や、1年間の授業の進行予定をざっと説明する時間などがあり、ほとんどの教科がまだ本格的に授業を開始したとは言えなかった。
やる気を持って授業に臨もうと思っていたエルだが、やはりというか、その意気込みはあまり長く続かない。
3限目、4限目になると、半分くらいの時間をぼーっと聞き流してしまっていた。
そうして午前中の授業が終わると、ちょっとした解放感すら込み上げてくるのだから、困ったものだった。
エルにとって、それ程大きな問題なのだ、人間界に興味を失うということは。
昼の休憩時間になり、クラスの半数以上は、食堂へと向かったようだった。
茉莉とエルは、教室内の人口密度が減少したのを確認し、弁当箱を持って目立たないように教室を出た。
「じゃあ、取り敢えず空き教室の方、行ってみよっか。」
「うむ。」
エルが肯定の意を示し、二人は空き教室が多く存在する別の校舎へと足を向けた。
二人が目指すのは第三校舎。空き教室や特別教室といった、普段はあまり使用されない教室が主になっている場所だった。
1年生の教室は第一校舎にあって、通常の授業は第一校舎の中だけで事足りる。
ならば何故、そのような余剰校舎が存在するのかと言うと、それは日本全体における問題とも密接に関係していることだった。
少子化問題…それにより、エル達の学校も、年々入学者の数を減らしていた。
私立久十里学園。それがエルの通う学校の名前だ。
学校の敷地は極めて大きく、校舎は三館に別れ存在し、真新しさは感じさせないものの、立派な外観と派手さが特徴である。
久十里学園の歴史は古く、過去には1500名を超える生徒が在学していた。
今ではその数字は1000に満たない。現在では主に使われているのは第一、第二校舎の二つだけだった。
ただ、第三校舎は立ち入り禁止の状態にある訳ではなく、極稀に授業で使われることもあるようだ。
なので、生徒は自由に校舎を行き来することが出来る。
それならば第三校舎には、二人きりになれる場所があるのではないか…と、考えるのは現実的に思うかもしれないが、実際には行ってみなければ分からない。
昼食を二人きりで過ごしたいと思う男女の数も多いだろう。
そういった男女の数など、皆目検討が付かないのだ。
第3校舎にやって来て空き教室を覗くと、やはりというか恋人同士が多く、中々人のいない場所を見付けることは出来なかった。
「結構空いてないものなんだね…。」
「そうだな。」
茉莉は嘆息を漏らし、エルは相槌を打つ。
二人は空き教室を覗く度、次第に一つの感覚に苛まれる。
自分達がここにいるのが、場違いだと感じてしまうのだ。
いくら茉莉が少女と見紛うような外見をしているとはいっても、男同士なのだから。
「もう…諦めよっか…。お昼食べる時間もなくなっちゃうし…。食堂でも行く…?」
茉莉のテンションは、だだ下がりである。
「しかし今から一緒に行くのも不自然であろう。どうにか出来ぬものか。」
とはいえ、そう言うエルにも良い考えがある訳でもない。
そしていつまでも、教室を見て回るような時間的余裕もない。
ならば…と、エルは一つ賭けてみることにした。
「茉莉、最後にここだけ確認して、ダメなら食堂へ向かおう。」
「…う、うん。それはいいけど…。」
エルが指し示したのは、屋上への階段。
あまり期待は出来ない、定番中の定番だった。
だからこそ、逆に人がいない可能性に賭けたのだ。
そして、茉莉とエルは屋上へと繋がるドアの前にやって来る。
「………うむ、ダメだったか。」
エルはドアノブを回そうとするが、動かない。鍵が掛かっていた。
「悪かったな、茉莉。…仕方がない、食堂へ行くか。」
「あ、魔王くん、ちょっと待って。」
諦めて踵を返そうとするエルを、何故か茉莉は引き止めた。
「うむ…どうしたのだ?」
と、問い返すのだが、この時エルは嫌な予感がしていた。
これから茉莉が自分に対して、何か突拍子もないことを言うのではないか、という予感があったのだ。
それは見事に的中する。
「ね、ね…魔王くん。鍵、開けれたりしない?」
「…我はピッキングなど出来ぬぞ。」
エルは敢えて現実的に解釈し、不可能だと告げる。
しかし分かっているのだ、茉莉が言いたいことを。この場で求めているのは、そんな現実的な方法ではない、と目で訴えているのだから。
「分かってるよ、そんなの。だから…。」
茉莉は悪戯っぽい笑みを浮かべると、囁くようにして言うのだ。
「魔法で鍵、開けれないかな?」
その発言に対して、エルは何も答えなかった。
二人の間には、しばし無言の沈黙が流れる。
茉莉は目で訴えるのを止めない。
先に折れたのは、エルの方だった。
大きな溜め息を吐き、
「…分かった。」
と、一言告げて、屋上へのドアへと向き直る。
「じゃあボク、誰か来ないか見張ってるよ?」
今更ながら、父親の気持ちが少しだけ分かった。
自分がわがままを言う度に、こんな気持ちになっていたのだな、と心の中で苦笑した。
そして一呼吸の間を置いてから、エルは魔法の言葉を紡ぎ始める。
意味を持たない単語が次々とエルの口から発せられ、繋がることでそれは魔法となり、目の前のドアの鍵を開けた。
エルが人間界に降り立って1日目、彼は自分のマンションの部屋の扉を魔法で開錠することが出来なかった。
しかし、今では鍵というものの構造を理解し、開く為に必要な魔法を取捨選択することで、鍵を開けることを、難なくやってのけたのだ。
「わぁ、それが魔法なんだね。」
いつの間にか、茉莉はエルの後ろに立っていて、感嘆の声を上げた。
「うむ。…というか、見張っておるのではなかったのか?」
「うぅっ…で、でも、その…やっぱり魔法ってどんなのか気になったし…。あ、一応周り確認はしたよ…?そ、それに、こんなカップルばっかの空間に通りかかる人なんて、まずいないと思うよ…?」
エルは呆れた風に言うが、茉莉を責めている訳ではない。
当の茉莉は自分の非を認めながらも、故意なのか無自覚なのか分からない、女の子のような仕草を交えながら、言い訳を尽くすのだった。
「まあ我も問題はないだろうと思った故、魔法を使ったのだ。そんなに必死で言い訳しなくとも良い。」
やんわりと微笑し、エルは眼前のドアを開け放つ。
「うん…ありがとう。」
今度は茉莉は、素直にお礼を言った。
二人は開かれた扉の向こうへと足を踏み入れる。
「わぁ…すっごい広いね。」
それが茉莉が漏らした感想だった。
三館に別れているとはいえ、大規模な学校の校舎の屋上なのだ。その感想も尤もだろう。
「では時間が無くならない内に、昼食を済ませてしまおうか、茉莉。」
適当な位置に腰を下ろすと、エルはそう言って弁当を広げた。
「そうだね。」
茉莉もエルの横にちょこんと座り、弁当箱を取り出した。
「んー、人目を気にしなくて良いのって、楽で良いなぁ。」
大きく伸びをすると、お弁当の包みを解きながら、茉莉は緊張のない笑みで独り言のように吐露した。
エルはその様子を見て微笑む。
「はぁ、お腹空いたー…。いただきまーす!」
それを合図に、二人は無駄話もせず黙々と昼食を摂り始めた。
話をしなかったのは空気が重いからではない。むしろ逆だ。
茉莉が幸せそうにお弁当を食べる姿を、エルが微笑みながら見守る。そんな穏やかな空気が流れていた。
「ごちそうさまでした!」
幸せな表情を崩さないまま、茉莉は一気にお弁当を完食した。
「早いな。」
エルは目を丸くしながら、食事を続ける。
「うん、せっかく二人っきりになったのに、話す時間なくなっちゃったら嫌だからね。って、あ…別に魔王くんは急がなくていいよっ!」
「ああ、分かった。」
茉莉の言葉を聞いて、気持ち急ぎ目に食事を流し込もうとするエルだが、茉莉に先回りで制され、苦笑する。
先程とは一転、エルが食事を終えるのを、茉莉が微笑みながら見守ることとなった。
視線は気になったが、エルはなるべく気にしていない風を装い、淡々と箸を進め、無事昼食を終えた。
弁当箱を片付け、水筒のお茶で一息吐くと、エルは茉莉に話しかけた。
「茉莉。今日、我の家に来てくれぬか?」
「え?うん、それは良いけど、どうしたの?」
エルが何やら真剣な面持ちだったので、茉莉は何かあったのかと心配する。
「うむ…少し、相談事があってな。」
相談事とは、今朝考えていた、人間界に興味を失ったかもしれない…という考えだ。
茉莉からすれば、エルが自分に相談したいと言い出すなんて、思ってもみないことだった。だから聞き返す。
「えーと…相談?ボクに?」
「おかしいか?」
「ううん、そんなことないよ。でも、グラゼルさんの方が、ボクよりよっぽど相談相手に相応しそうだけど…。」
執事であるグラゼルの方が、何かと上手く相談に乗ってくれるのではないか。
そう思う茉莉の考えはおおよそ正しい。
だが、今朝のやり取りを思い出すと、グラゼルに改めて相談したところで、やはり茉莉への恋煩いであると決め付けられる未来しか見えない。
「グラゼルはダメだ。あ奴はこれに関してはどうせ偏った考えしか出来ぬ。」
今朝のことを思い出し、エルは少しだけ不機嫌な様子を見せる。
何だか不貞腐れた子供のようだった。
その態度がいつものエルとは違っていて、ちょっぴり可笑しかった。
しかし、それを表に出さないのは、茉莉の中で、エルの力になってあげたい、という気持ちの方が大きいからだろう。
「そういうことなら…うん。ちょっと頼りないかもしれないけど、ボクで良ければ相談に乗るよ。」
「すまぬな。感謝する。」
茉莉は、自分がエルの助けになれるなら、なってあげたい…と正直に思っている。
とはいえ、頼られるのは嬉しい反面、エルが相談したいと思うほどの内容に、上手く答えられるのだろうか…という不安も、同時に存在する。
エルの様子が普段と少し違っていたのは、茉莉も何となく気付いていたことだった。
まだ出会って間もないとはいえ、数日前と今日とでは、何かが違っていた。
先程、魔法で屋上の鍵を開けて欲しいと頼んだ時もそうだ。エルはあっさりと聞き入れた。
あれは茉莉からすると半分は冗談のようなものだった。
数日前、人間に魔法を見られることを、あれ程警戒していたことを思い起こすと、らしくない行動だった。
エルの心理状態が変化した原因が悩みにあるからだとすると、悩みがそれほど簡単に片付きはしないであろうことは、充分に察することが出来た。
自分には解決出来ないかもしれない。でも、なるべく助けになれるように努力しよう…と、茉莉は決心した。
「えーと、それじゃあ学校終わったら、魔王くん家にお邪魔させて貰うね。ボク今週は掃除当番だから、一緒には帰れないけど、終わったらすぐ行くから。」
決意と一緒に、茉莉はエルにそう告げた。
エルはいつものように、
「うむ。」
と、一言…では終わらなかった。
「掃除が終わるまで待っておるか?」
「え?」
「…ん?」
「あっ…う、ううん、何でもない!」
エルは変だった。
「待って貰うのなんて悪いから、先帰ってて大丈夫だよ!」
少しどころではない。これは、いつものエルじゃない。
「掃除終わったらすぐ、着替えて魔王くん家に行くからね!」
何とかして早急に、エルの悩みを解決しなければ。
「ああ、分かった。」
そう、茉莉はわずか十数秒の間に、決意を新たにする羽目になった。