1話目・その1
魔界と呼ばれる、人間の住む世界とは別の世界がある。
そこには魔人という種別の、見た目は人間とあまり変わらない者達が暮らしていた。
一つ違う点があるとすれば、彼ら魔人は魔法を扱える、ということくらいだ。
魔法…超能力じみた力として、人間達の暮らす世界では空想上の存在。
ただ魔人は空想上のそれらを実際に使える、それだけのことだった。
魔界には、人間の暮らす世界───通称、人間界と同じように住居があり、生活があり、そして…王がいた。
魔人達の王───魔王が、魔界を統率する者として、城を構えていた。
その本来は荘厳であるはずの魔王の城では、ここ最近、その雰囲気に似つかわしくない出来事が続いていた。
それは簡単に言えば、親子喧嘩。
魔王と魔王の息子が、毎日のようにこんなことを言い争っていた。
「いいか、よく聞け馬鹿息子。我はただ学校へ行けと言ってるだけだ。他の皆と同じようにな。」
玉座にふんぞり返り、面倒くさいと言わんばかりの口調で、魔王は息子にそう言い聞かす。
「だから嫌だと言っているだろうクソ親父。我に必要なものは勉学ではない。」
この遣り取りは既に数日もの間、行われている。一日数時間、そして互いに譲る気がないので、ほとんど進展もない。
どちらもどうして譲ろうとしないのは血筋なのか、城内の空気は悪くなる一方だ。
「ったく何が嫌なんだ何が。勉強が嫌なのか。ハッキリ言ってみろ馬鹿息子。」
「我には魔法の勉強など不要である。学校で教わるレベルの勉強など既に終えておるのだからな。故に学校など行く意味がないではないか。」
それを聞き、魔王は深い溜め息を吐く。
息子は生まれながらにして魔法の天才だった。
城の書庫にある本も半数以上を読み終え、学校で学ぶ以上の知識を既に持っている。息子が言うことも事実であった。
魔人の学校で教えるのは基本的に魔法を中心に、文字の読み書き、魔界の歴史や掟に関することである。
魔法とは魔人達にとって無くてはならない存在で、その魔法を如何に上手く操れるかがその個人の価値へと繋がるのだから、当然と言えば当然なのだが。
それ故に魔王の息子は、学校へ行くことで自分の価値が上がる訳ではない、そして独学の方がより価値を高められる…そう言いたいのだろう。
「だからと言ってなぁ、お前…魔王の息子が学校行かないじゃ格好がつかないんだよ、分かるか?」
「そんなもの我には関係ないことだ。もし学校へ行かせたいというのなら、我にとって行く価値のある学校を作るが良い、今すぐに!」
「あのなぁ…そんなん無茶に決まってるだろ。それだから馬鹿だというんだ馬鹿息子。」
「何をクソ親父!」
今日もそんなやり取りが続く。
城勤めの従者や魔王の側近達は、その空気に沈黙を通すしかない。
まだしばらくこの親子喧嘩は終わらないのだろう…そう諦めかけていたとき、そこに割って入る女性がいた。
「ねぇ魔王、人間界の学校に行かせてみるというのはどうでしょう?」
黒のドレスに身を包み、長い黒髪を揺らしながら、女はそんなことを言う。
彼女はいつもこの親子喧嘩をただ見守っているだけだったが、今日は違った。
周囲の、この空気に耐えられないという気配を察したのか、魔王の息子の意図を理解したからなのか…一つの提案をしてきたのだ。
だがその提案にも魔王は良い顔をしなかった。
「人間界だ?そんな所に行かせても意味ないだろ…。」
「ほう、人間界に学校まであったとは知らなかったぞ。」
意外にも息子は乗り気だった。
「我はその人間界の学校になら、行っても構わぬぞ。こちらでは得られぬ知識が得られるであろうからな。」
そんな息子の様子に、魔王は先刻より更に深い溜め息をつく。
何でわざわざそんな場所へ行きたがるのか、自分の息子ながら理解が出来ないのだった。
「本人も行く気になったことだし、行かせてあげても良いんじゃないですか、魔王?」
女は魔王に優しく微笑みかける。
「そうだぞ!我が自ら学校に行く気になったのだ、クソ親父の言う格好というのもついて一石二鳥であろう。」
息子も同意して、状況は二対一のまま、動きそうにない。
だから、魔王は折れるしかなかった。
「…好きにしろ。」
もうどうにでもなれ、と言わんばかりに投げやりな言い方で、魔王は本日一番大きな溜め息を吐いた。
それが半年前の出来事だった。
今では城の空気は元の厳かなものに戻り、魔王は無表情で玉座に座り仕事をこなし、その側には黒いドレスの女性が常に控える。
そこに多少の違和感があるとすれば、魔王とその女性にどことなく落ち着きがないことだろうか。
それもそのはず、今日は魔王の息子が人間界へと出発する日なのである。
「それでは行って来るぞ、クソ親父。」
「おう、行って来い。途中で嫌になって戻って来たりするなよ、お前が行きたいと言ったんだからな。」
「まぁまぁ魔王、そんなに厳しいことを言わなくてもいいじゃないですか。」
「クソ親父が心配するようなことではない。どのような苛酷であろうと、我に後退の二文字はあり得ぬのだからな。それよりも、クソ親父は我が帰る前に母上に愛想を尽かされるでないぞ!」
「このっ…生意気な馬鹿息子め!さっさと行っちまえ!」
シッシッと、魔王は息子を追い払うようなジェスチャーを向ける。
息子はというと、それを意に介さぬ様子で黒いドレスの女性に向き直り、
「では母上、行って参ります。」
と礼儀正しく一礼する。
「おいおい我の時と全然態度違うじゃねーかよ、どうなってんだ!」
そのまま二人に背を向けて入り口の方へ走っていく息子。
「無視してんじゃねーよ!?」
魔王の言葉に応えず息子は入り口に辿り着き、そのまま出て行く。
否、出て行く寸前で立ち止まり、振り向くことなく口を開く。
「父上、我のわがままを聞いてくれて感謝しておる!」
それだけ言うと、今度こそ息子は、一瞬で見えなくなるほど素早く走り去った。
残された二人は暫く息子の出て行った先を見つめていたが、やがて魔王は小さな声で、言葉を発する。
「父上…か。なんかむず痒いな…やはり馬鹿息子にはクソ親父と呼ばれないと、な。」
そう呟く魔王を見て、黒いドレスの女性───魔王の妻は優しく微笑んだ。