誰かの話
「おまたせしましたー……」
水神青年は恐る恐るという体でジョッキを差し出す。自業自得ながら、複雑な気分だ。ジョッキを掴むが、口には運ぶ気になれない。じっと白い泡を睨みつけた。
「直也、俺モスコー・ミュール」
「かしこまりましたー。今日はやたら可愛い注文ですね」
「ん、この店のメニュー制覇中」
直也、と呼ばれて返事をしたのは水神青年だ。名札にあるのは姓のみで、当然名前はわからない。霞先生の口調が馴れ馴れしいのは私に対してでもだが、水神青年にかけた言葉はどことなく親しげな空気を纏っている。水神青年も、客への対応にしてはフランクすぎる。
「……先生、ここの常連なんですか?」
「先月からな。地鶏美味いし」
先生は唐揚げを頬張っている。名前負けしない味であることは、私の舌が確認済だ。
「元々俺がバイト始めたのからかいに来たくせに」
水神青年は唇を少し尖らせた。いい歳した男がすれば不愉快になりそうな仕種だが、彼には似合っていた。今時の若者らしく明るい色に染めた髪は少し傷んではいたが、それすら似合う好青年。決して眩いばかりの美形ではないが、清潔感がある爽やかなイケメンだ。
「二人とも知り合いなんですか?」
「ああ、俺の姉貴と直也の兄貴が付き合ってたんだ」
「過去形なんですね」
「過去形だからな」
モスコー・ミュールのグラスを空けた霞先生は、メニューを指でなぞりながら、
「黒霧島」
オーダーした。
「かしこまりましたー」
「……落差激しいですね」
「カクテルは制覇したからな」
地味な装いを裏切って、霞先生は酒豪らしい。私は弱いくせにビール大好き、しかも絡み酒という残念体質だ。酔うと眠くなる可愛い酔い方はできない。
結婚する友人が新郎と付き合うきっかけは、まさにその、可愛い酔い方だった。
飲み会帰りに家まで送った翌日、付き合うことになったと報告を受けた私は、送り狼になったとからかった。
それから結婚式の話を聞くまで、虎視眈々と機会を伺っていたというのに。
新郎になる男をけだものだとからかい嫌悪し、友人を内心罠にかけるのが上手いハンターと見下して。私自身は何もせず、ただ兎が切株にぶつかるのを待っていたのだ。切株を見守りながら、自身を磨くことも恋を諦めることも、二人の間に割り込もうと努力すらしなかった。
人間らしく足掻こうとせず、ただ偶然を待ち望む。
ケモノは、私だ。
「バイトくん」
「え、俺ですか?」
「うん、お兄さんさー、霞先生のお姉さんと別れてからどう?」
「どう、って……。しばらくは気落ちしてましたけど、今は普通に仕事してますよ」
「ふぅん」
水神青年は怪訝そうな顔をしている。
「霞、先生……?」
「あー、うん。そこは気にしないで」
気安い仲のようだが、水神青年には『霞蓮二』の話はしていないらしい。それが、親しすぎて嘘が吐けないからなのか、何らかの理由で正体を明かせないのかはわからない。ただ、私から暴露すべきことでもない。
曖昧に笑ってごまかしてから、私はジョッキを傾ける。自棄酒に走るには、頭は冷えすぎていた。
「……玉砕でも、当たればよかった」
小さな呟きを拾った霞先生は、既に黒霧島を半分にしていた。カクテルも焼酎も、水のように消えていく。
「後悔は後からするものだからな」
なんて、慰めにもならない、今更意味のない言葉だろう。
「先生は、誰かを好きになったことはありますか?」
「……さあな」
霞先生は唐揚げに箸で触れかけて、溜息を吐いた。箸の先を離して箸置きに戻し、グラスを持つ。
「……俺のせいで別れた奴らなら知ってる。俺が横槍入れたせいだ」
「その人のこと、好きでした?」
「興味本位だと思う。でも、そう思い込んでるだけかもな。……好きだったかもしれねーし、コンプレックス拗らせただけかも。何にしても、今更何も変わんねーよ」
「……後悔してますか?」
「さっきも言ったろ?」
先生のグラスに、雫が伝う。それを細い指が拭った。
「後悔は後からするものなんだよ」
先生は、いつものあくどい笑みではなく、口許を少しだけ緩めた。そこにある感情を読み取れるほど、私は先生と長い付き合いではない。
私は自宅に帰ってから、ネットで辞表の書き方を調べた。
有給を使い切ってから、ボーナスを受け取ってから、そんなの待っていたらいつまでも辞められない。
後悔は、後からするものだ。