居酒屋・地鶏酒
霞先生にメールを送った一週間後、私は居酒屋、「地鶏酒」にいた。
地鶏酒はその名の通り、美味しい地鶏を酒の肴として出す店だ。小料理屋としてもやっていけそうなくらい美味い。私は就職のため一人暮らしを始めて三年になるが、引っ越しから一週間目に訪れた「地鶏酒」には月一で通っている。本当はもっと足しげく通いたいのだが、如何せん仕事が許さない。小さいながら、私が転職を希望する理由の一つだ。
「い……、いらっしゃいませーっ!」
店内に入ると、アルバイトの店員が引き攣った顔で出迎えてくれた。よくよく顔を見れば、霞先生と初めて会ったときに側にいた店員だ。
私が正体をなくすまで飲んでいた日、絡んで愚痴ったときに、カウンターの向こう側に控えていた大学生くらいの青年で、研修中のバッチは外れ「水神」という名札がはっきり見える。
私は気まずさに視線を逸らし、店内を見渡した。
「佐久間、こっち」
霞先生は、「水神」青年の正面に座っていた。私は努めて水神青年を意識から排除し、霞先生の隣に腰掛ける。
「久しぶり、今日も仕事帰りか?」
「はい、まぁ……。霞先生は?」
「仕事を前倒しできるのが、この職種の長所だからな」
私はオフィスで一人きり、休日出勤だったというのに。恨めしい感情をこれでもかと込めて睨むと、霞先生は器用に片手で鞄を開け、中からペンとメモ帳、ICレコーダーを取り出した。
「レコーダーがあるのにメモ帳?」
「表情、雰囲気は音声だけじゃわからないからな。撮影させてくれるなら、次からビデオも用意するけど」
「それはちょっと……」
「な?だからアナログ」
声はいいけど、顔を記録されるのは何となく抵抗がある。声紋も個人を特定するツールの一つだと知識はあるが、一般的な技術ではないし、容貌に比べればいくらでもごまかせる。霞先生には、私の答えは予測済みだったようだ。手元の機械で手遊びをしていた。
「じゃあ、はじめるな」
ICレコーダーのスイッチを入れた。
「……で?」
「前、後輩に出世で追い抜かれたって言いましたよね。多分」
霞先生は顎に手を当てて、何もない空を注視した。何かを思い出すときの癖なのだろう。
「あー、千浦、だっけ?」
「そう、そいつ!」
「………」
水神青年が、私の前のカウンターにすっ、とジョッキを差し出した。私は黙って受け取り半分近く呷った。
「……はぁ!そいつ、自分がきっちり仕事して、タイミング次第じゃ1時間で終わる内容私に押し付けたんですよ!自分は定時に上がりやがって!」
「で、佐久間は残業?」
「そう!」
口に出すと怒りが蘇ってくる。あのへらへらとした、腹立たしい顔。
「課長も私に押し付けて帰るし!残業代出ないし!同僚も帰るし!」
「ふぅん」
「ていうか私一番仕事してますよ!なのに出世しないし!給与上がらないし!なのに後始末だけ押し付けられる!ふざけんなよ能無し共!!」
ジョッキの残りを飲み干して、水神青年を睨み上げる。
「もう一杯!!」
「はい……っ!!」
待っている間に焼鳥をかじる。一つ一つ串から外すお上品な食べ方ではなく、串を持ってそのまま。
「あんまり怯えさせてやるなよ。あいつさ、小さいときに両親亡くした苦学生なんだよ」
霞先生は文字にすればしんみりした印象の言葉を、全く同情の色がない顔で囁いた。私は霞先生の複雑な色味の瞳を見つめて。
「それ嘘ですよね?」
「なんでそう思う?」
「なんとなく、先生の言い方嘘臭い。あと質問を質問で返すのはマナー違反ですよ」
「厳しいな。……確かに嘘だけど」
霞先生は相変わらずにやにやしている。苛立ちを助長させるようであり、怒ることすら馬鹿らしくなるような、そんな顔だ。
「情報社会だからな。取捨選択は必要じゃね?」
「面と向かってわざと嘘吐くのもどうかと」
「倫理?道徳?」
「人間関係的に」
霞先生はグラスを傾けて、鮮やかな液体を口に含む。中身はカシスオレンジだ。随分可愛らしいチョイスだこと。
「俺と佐久間の間に、崩れるほどの関係があったか?」
「……ないですね。でも私の話、資料になるんでしょ?」
「それじゃあ、資料収集が終わるまでは気を遣ってやるよ」
「どうも」
この減らず口が。