白雪の男
ブラック企業については一部想像で書いています。また、作者は文系のためIT業界に詳しくありません。ご了承ください。
たまに一人で酒を過ごしたいときがある。失恋したり、友達の結婚が決まったり、後輩が先に出世したり。
IT業界自体新しい業界だし、学校で男女雇用機会均等法も習っていた。男女差別、というものがあると知っていたが、私の身に降り懸かるとは思っていなかったのだ。
ジョッキを一気に乾かし息を吐く。カウンターにジョッキを下ろすとダン!と威勢のいい音がしたが、私の機嫌は底辺を這っている。
後輩がリーダーに昇進した。私が入社から指導し、プログラムの組み方、社内ルール、仕様書の書き方、全部教えた。やっと一人前になったかな、というところで異例の出世だ。理由が『管理者が諸事情で少なくなったから』。
ふざけている。あの後輩に、まだまだスケジュール管理もまともにできないあの男の子に、来月から私は従わないといけないのか。何年も勤め、与えられた仕事を笑顔でこなし、後輩指導も無給で積極的にしていた私が。
私が後輩のミスをカバーするため残業しているとき、自分のミスにも関わらず彼女と会うからと定時で帰ったあの子に。
「辞めてやる、辞めてやる、辞めてやる……っ!あんなブラックじゃなくて、まともなホワイト企業に転職してやる……!」
呪詛を唱えてジョッキを睨みつける。絶対転職してやる、と決意して早数ヶ月、転職先の企業が見つからない。ブラック企業ではまともな休みがなく、休日出勤がざらで面接に行けない。しかも上司はきっちり休んでるときた。
「すみません!ビールもう一杯!!」
店員が引き攣った笑みで「かしこまりましたー!」と叫ぶ。それもそうだ。化粧は汗でドロドロ、髪はぐちゃぐちゃ、目が据わった女なんて誰が好き好んで近付きたいものか。
ガタ……、カウンターの隣の席から椅子を動かす音。視線をやれば男が隣の座席に移ろうとしている。私の隣から、一つ空けた座席へ。そのとき私はうるさかった。そして人恋しかった。正体を無くした飲んだくれが避けられて当然とまで、思考が至らなかった。
「なんで私を無視すんのよー!」
男がぎょっとした様子で振り向く。しかし私は気付かない。
「そーよ!千浦は出世しやがるし課長はパワハラばっかりだし!会社は超ブラックだしっ!!」
「………」
「お客様、他の方には、」
「うるさーい!貴方までっ、初対面の人間までナンデ私が嫌いなのよー!!」
酔っ払いのやることは恐ろしい。店員も私がつかみ掛かるわけではないので実力行使で出られずオロオロしている。名札に「研修中」とバッチが付いていた。
「お客様、」
「……ふぅん、ブラック企業なんだ?」
「そーなの!休みないし!今月休み3日しかなかったし!私は女だから出世しないし!フラれた、し……!」
男は元の席に座り直すと店員を手で制し、私を促す。
「……休みないの?」
「定休はあるのに休日出勤なの!給料でない!」
「申請は?」
「しないしできない……、そーゆーシステムないもん!」
「出世は?」
「私のが仕事できるのに、残業押し付けた後輩が出世したの!彼女に会うからってふざけんな!」
「じゃあフラれたのは?」
男は私が言いたいことを言えるように誘導し、相槌を欠かさず、たまに共感を示した。その姿勢は私の口を滑らせて、初対面にも関わらず個人情報を暴露し続ける。付き合っていてもこれだけ相手に開示はないだろう、というところまで話し続けた私は、ぷつりと糸が切れるように潰れた。
目が覚めたら、知らない部屋だった。頭が痛い。昨日飲み過ぎようだ。嫌な想像が過ぎり、パンツスーツとシャツの胸元を確認したが、ジャケットを脱いだ以外に変化ない。酔った勢いで、ということはなかったようだ。
「起きた?」
「はい?!」
昨日居酒屋で隣に座った男がいる。年の頃は20代半ば、私より少し下だろうか。藍色の作務衣に黒縁眼鏡に黒髪と、少し地味な印象の男だ。
「あのー……」
「勘違いしないでほしいけど、あんたが酔い潰れて閉店時間になっても歩けないみたいだったら連れて来ただけだから。ジャケットしか脱がせてないし、俺寝たの隣の部屋」
男の言葉に嘘はないだろう。実際、仕事の愚痴から恋愛関係の愚痴に移行した辺りから記憶がない。多分飲み代も立て替えてもらっている。
「……ご迷惑おかけしました」
「いーよ、あんたの話面白かったから」
「店の料金は、」
「面白い話だったから奢ってやるよ」
「いえ!そういうわけにはいきません!……どうぞ!」
私はベッドサイドにあったハンドバッグから財布を出し、そのまま前に突き出し頭を下げた。
「どうぞお納めください!」
「……いや財布ごと渡されても」
「ああ!そうですよね!」
長財布のファスナーを開けて札の中身を出そうとする私を、男は白い手で止めた。
「なぁ、お金はいいからさ、雇われてくれよ」
「雇う?」
「そ、月一で会社の愚痴聞かせるだけ。飲み代は俺負担」
「いやいやいや!何ですかその好条件!?」
俺はにやりと、紅い唇の端を吊り上げた。雪のように肌は白く、髪は黒檀のように黒く、唇は血のように紅い。
「俺、小説家なんだよ。霞蓮二ってペンネーム知らない?」
男が唇に乗せたのは、私が先日購入した新書の作者の名前だった。