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カップラーメン

作者:

 散々な一日の終わりに、カップラーメンを買った。

 真っ赤に腫らした目をいつもの店員さんがちらちら見ているのが分かって耳まで赤くなった。低い声でありがとうございましたと語尾まできっちり発音する人だ。いつもは会釈くらいするけど恥ずかしくて、袋をひったくるようにして夜中のコンビニを出た。

 あんまりな態度だったかな、八つ当たりなのに、とコンビニを出て三歩で後悔したけど次の三歩で思い直した。もっとひどい客なんていっぱいいるだろう。今日くらい許されていいはずだ。私は今日、こんなに傷ついてるんだから。そこから十歩も歩けばもうアパートだ。足音高く階段を上る。

 ドアを開けた先は私の選んだ白とピンクの家具やら小物やらで溢れていて、靴を脱ぐ気力すらなくして私は玄関に座りこむ。二十三区外とはいえ東京に出てきて、大学デビューを目論んだ私はあろうことか自室を白中心にコーディネートしたのだった。けっこう頑張ったけれども一年間住んでみての感想は、「汚れが目立つ」というただ一言に尽きる。

 蹴り飛ばすように靴を脱いで、匍匐前進みたいな動きで部屋に入る。コートも脱がないままふかふかした絨毯のうえにばったり横になると、地面と自分の境目があいまいになってぐんぐん沈んでいく感覚がした。意識が遠くなった瞬間に、口の端に違和感を覚えて飛び起きた。よだれ。垂れたら。絨毯めんどくさい。起き上がった拍子に肘をベッドの脚にぶつけてまたうずくまった。

 ひとしきり唸り声を上げて、ぼそりと呟く。

「カップラーメン」

 びりびりする肘を押さえて起き上がる。

「食べよう」

 こっくりうなずく。

「食べます」

 コートを脱いで、さっき放り出したコンビニ袋を部屋の入り口まで取りにいく。時計を見たら午前二時を回ったところで、いつもならどんなにお腹空いてても布団かぶって寝てしまう時間だけど、今日はもう何一つ我慢しない。私は今、こんなに傷ついているのだから。

 私の数少ない特技は料理である。ちゃんと三食栄養バランスを考えて作る。泊まりに来た友達はみんなごはんに感動してくれる。だからカップラーメンなんて、一人暮らしを始めてから初めてだ。

 丸っこいケトルに水をいれて火にかける。ケトル、と思ってから、やかん、と思い直す。たかがやかんだ。かっこつけやがって。やかんをケトルと言い換えていくことがお洒落なら、女子になど生まれなければよかった。

 女子が怖いのは今に始まった話ではない。

 野菜室にあったネギの切れ端をだんだん音を立てて刻みながら、今日の出来事を朝から順に反芻する。とっくに泣き尽くしたと思っていたのにまだ喉の奥がごろごろする。女の子は悪口を言う生き物で、そんなことはとっくに諦めていたはずなのに、それでも傷ついているのはなんでだ。ネギがどんどん細かくなって、かすかすだと思っていた断面から汁と一緒ににおいが立ち上った。

 お湯をいれてからの時間を見ようと思ってよく見たら、蓋は全部開けるものではないことをやっと思い出した。途中まで開けて、お湯入れて蓋閉めて、で食べる時に全部開けるんだ。久しぶりすぎて忘れていた。

 ため息をつきながらネギと乾燥わかめをカップの中に入れて、キュロットスカートとタイツを脱ぐ。裾にレースが付いててふんわりしたデザイン、二千九百八十円。上がシフォンブラウスとカーディガンでちゃんとしているのに下はスウェットという変な格好のまま火を止め、お湯を注ぐ。ははは。私今、女子力低い。適当なお皿をかぶせて携帯のタイマーをセットしてから、上も脱いで完全に部屋着になる。

 女子力、と口の中で言ってみる。がんばろうと思ったのだ。雑誌を読んで流行りの服を着て周りの子に気を配ってあと恋して、かわいい女の子になろうと思ったのだ。かわいい、だと。ふざけるな。過去の自分に鏡を突きつけたい。でもその鏡にも「九時過ぎたら食べない!」とか書いた付箋が貼ってあるのである。という程度には女子力信仰は強かった。「女子力信仰」とかいう言葉が出てきた時点で私が本当は女子力なんてくそくらえと思っているのは自明だ。

 でもどうしろっていうんだ。キャンパスで、暗い色の服を着てうつむいて一人で歩いている女の子を見るたびに、大学デビューを目指した私の判断は正しかったと思う。女子力なんてくだらないと知っているし、ほんとうは毎日の服を考えるのがめんどくさいし、人に貸せるよう常に二つナプキンを入れてあるポーチは重いばかりなのに、それでも人並みの幸せを掴みたいなら、隣の人と変わらない服を着て腕の毛を剃って笑顔を振りまいていないといけないのだ。

 女子力高いっていうのはバカって意味だ。でも孤立なんてもっとクソだ。

 どうしろっていうんだ。

 携帯がぴぴぴとなって三分経ったのを示した。

 ふと思い立って数えてみたらあと三日くらいのうちに生理が来る予定だった。それじゃん落ち込んでる理由。ホルモンバランスの分際で私の精神を揺るがすな。くそ。くそ、くそ、くそが。カップラーメン開けちまったよ。

 擦りすぎて痛いまぶたを押さえて、お箸を取る。もうなにも考えるな。女子がどうとか、もう考えるな。今日はもう何も我慢しない。今日は女子を投げ捨てる。午前二時にカップラーメン食べて、何が悪い。不健康上等。

 蓋がわりのお皿を持ち上げると、戻って量の増えたわかめがぶわっと湯気を立てた。

 私はそれを見て、「あ」と思わず声を上げる。

 わかめ。わかめは食物繊維が多くて、肥満予防と便通改善、骨粗鬆症予防。ねぎは青いところだから胃もたれ防止と滋養強壮、風邪予防。詰め込んだ栄養関係の知識が溢れてくる。

 不健康な食事を、しようと思ったのに。

 私は三秒くらい呆然としてから、のろのろとお箸を持ちあげる。

 わかめをお箸で持てる限界までとって、ざく、ざく、とかみしめる。顎から伝わる食感をしっかり感じる。熱いスープが舌に直接味を訴えかける。なにかの罪ほろぼしのように小さく切られたにんじんをお箸でつまみあげて、私は頬の片側で笑う。

 もう私のからだにはしみ込んでいるのだ。わかめとねぎを、無意識のうちにカップラーメンに入れるくらいには。

 今日はもう女子を投げ捨てようと思ったのに、私がいるのはどうしようもなく飾り立てた部屋で、着ているのは茶色にピンクのレースのついた部屋着で、お湯を沸かすのはドット柄のケトルで、だから私は、きっと今の立ち位置を手放さない。ひとりぼっちになんてもう戻れない。流行りの服を着て、しっかりメイクして、またにこにこ笑って授業の愚痴を言うのだ。明日も、明後日も、その先も。

 どんなにバカでも、女子力の方を選んだのは私のほうだ。

 なるべく豪快にすすり上げた麺からスープが跳ねる。湯気を吸って鼻水が出る。鼻と口の周りを袖でこすって、また食べる。おいしくない。おいしくないのに次の一口が来る。スープの粉がかたまってるところが喉に引っかかってむせる。味のしない卵を噛んで、何の肉だかわからない固まりを飲みこみ、麺やねぎやわかめや塩やにんじんや卵や肉が、私の体にしみこむのをイメージする。気が付いたらスープの最後の一滴まで飲み干していた。お行儀悪く、お箸に引っ掛かったネギをねぶりとる。

「ごちそう、さまでした」と、全然ご馳走じゃなかったけど習慣的に言って、後ろに倒れ込むように寝転がった。

 さっき口もとをぬぐった部屋着の袖に、染みが出来ているのに気がついた。明日になったら、と思う。明日になったら、洗濯しよう。

 朝になったらちゃんと起きて、洗濯して、完璧なメイクをして、家を出たらいつもの店員さんがちょうど夜勤終わるところで、「あ」「あ」みたいな視線の交差があるのを、ちょっと想像している。その妄想を少しでも現実に近づけるべく、私は手を伸ばして、目を冷やすためのタオルを引き出しから取り出した。


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