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♯城壁の守護者(2)

それぞれの相棒に乗ったヒルダはアクリスとグリズリーの群れに突進していった。比較的前に出ていたアクリス三頭はその勢いに怖じ気づき、やや後ずさりしたが、ヒルダの方に突進してきた。前衛三人の騎馬兵こと、デイビス、アーノルド、エドガーはあらかじめ抜いていた剣をアクリスと交わるその瞬間振り下ろした。振り下ろしたどの剣も、アクリスののど元を斬りつけた。のど元を切られたアクリス達交わった後、先ほどまでのスピードをまた少し、また少し落としながらちりぢりに走り、やがては完全に止まり、息絶えた。その止まり方は、なだらかに走るスピードを落としていった先ほどとは違い、急にばたりと倒れた。アクリスは崩れ落ちた瞬間、高い、悲鳴のような声を上げた。左右の力で引っ張られた糸がぷつんと切れた時の音の雰囲気に近かった。

残ったのはグリズリーである。二メートル半はるだろう巨体による一撃により命を落とした隊員も少なくない。それほどグリズリーは人間の脅威なのである。そのグリズリーは全部で五匹。単純計算だとひとりあたり一匹の相手をすることになる。これでは間違いなく負傷する者、最悪死者が出てもおかしくない。この対戦の行方は隊長の判断で全てが決まると言っても過言ではないのだ。しかしあまりにもあっさりとアクリスが倒されてしまったため、グリズリー達は怖じ気づき、何歩か後ずさりした。この微妙な変化をデイビスは見逃さなかった。デイビスは声を張り上げた。

「全員止まれ!グリズリーに背を向けないでジャンヌの位置に着け!」

心の中に疑問を残しつつもアーノルドとエドガーは慎重に後ずさりし、ルチアは注意を払いながらウェスレーを前に進めた。ジャンヌも相棒キーラもぴくりとも動かない。動いているのは静かな場所を流れる風に吹かれた白雪のたてがみのみだった。デイビスは全員が位置まで行ったのを見計らったのち、パフォーマンスをするかのごとく、メイを派手に乗りこなした。ちょうどJ.L.ダヴィッドの『ナポレオンのアルプス越え』のようだった。デイビスは隊員の真ん中に収まると小さいが、はっきりと聞こえる声で言った。

「俺たちは五人、グリズリーも五匹。普通にすれば一人につき一頭となるけどグリズリーじゃあ相手が悪い。さてどうする?」

隊員は顔を見合わせた。デイビス曰く、だから作戦を提案する。今までも多数の死者を出してきたグリズリーとの戦い。この状況でヒルダならこうする。しかしそれをするには隊員の許可を得たい。それが隊長であるデイビスの答えだった。

作戦を言い終わった。はじめに口を開いたのはジャンヌだった。

「私は良いと思うけど…、エドガー次第だと思う。」

「同感」、「前に同じ」というルチアとアーノルドの言葉もでてきた。デイビスはエドガーの目を見た。これについてお前はどう思うか?お前は不満ではないかと。エドガーはため息をつくと、裏返ったような声で言った。

「おいおい、俺って責任重大かよ。まぁデイビスが決めたことだ、俺はここで出る一番良い答えだと思う。俺に任せろ。俺は二刀流のエドガー・ターナーだ。そう簡単には死なないぜ。」

エドガーは鼻で笑ってみせるような表情をした。

「いいか、馬から降りるなよ。降りたら明日はないと思え。ルチアとジャンヌはグリズリーに近づけるだけ近づいたら馬からすぐ降りて空中線に切り替えるんだ。」

キーラやウェスレーは安全地帯に逃がせば良いかとジャンヌは隊長に聞いた。デイビスは首を縦に振った。メイが一歩進むとデイビスはメイに差してあった片手用の剣を抜くと雄叫びをあげ、駆けだしたそれに続いてほかの隊員も駆けだした。こんどこそグリズリーの群れにつっこむようである。大胆かつ慎重に。お互い矛盾する言葉のようだが、これを信条に。

戦闘を走るメイを追い抜かす一頭の馬がいる。ダンカンだ。波打つたてがみが見える。エドガーは右へ、右へと回り、一番右のグリズリーをわきから攻めた。エドガーの左腕を振り下ろした先にはグリズリーの腕があった。命中したとはいえグリズリーにとってはかすり傷程度。グリズリーはすぐさまエドガーを追いかけた。エドガーとダンカンは逃げる。そして今度は一番後ろにいるグリズリーの肩を通り抜けるついでのように掻ききった。先ほどのよりきいたのか、一瞬よろめいたかと思うと、デイビスを追いかけていたはじめのグリズリーとぶつかり二匹とも体勢を崩した。それを横目でしかと見たエドガーは好都合といわんばかりにダンカンを飛ばした。ダンカンは走る。そして三匹目のグリズリー。エドガーはダンカンに差しておいた短剣をグリズリーに投げた。次の瞬間思わず耳を覆いたくなるほどの激しい、悪魔のものかと思うような断末魔がリストアに地に響いた。エドガーの投げた短剣はグリズリーの額に刺さった。そして先ほどの叫びとは対照的に、グリズリーはその身体を静かに地につけた。そしてエドガーはまた逃げる。後の二匹の追撃から逃れるため。

中央のグリズリーは先ほどの攻撃を見、エドガーを追いかけようとした。しかしデイビスはそれを許さなかった。デイビスはそのグリズリーに剣を振り下ろした。「お前の相手はあいつではない、この俺だ」と言わんばかりに。攻撃を受けたグリズリーはすぐさまデイビスのほうをむくと鋭い爪のついた腕を振り上げた。デイビスのほうはというと、にやりと笑った。

《風は我が精霊の吐息、汝は我に汝の使徒の吐息を与えたもう。》

グリズリーの背後から詠唱が聞こえてくる。

「ヴァン!」

ヴァン。空間につむじ風を意図的に作り、扇動して攻撃を数ターンにわたって攻撃する中級魔法。この呪文を唱えたのはルチアだった。しかもウェスレーに乗らず後ろに従えた状態で地面に立っている。先ほど降りたようだ。それを見たグリズリーはルチアに腕を振り上げた。しかしルチアはシルフという種族柄、持ち前の瞬発力と身軽さであしらうかのようによけた。お前が私に叶うはずがない。そう言いたいような表情をしている。グリズリーがウーとうなった。その直後デイビスはまた剣を振り下ろした。グリズリーは再びデイビスの方に身体を向けると今度はルチアが常備している太い、攻撃用の針を投げた。またグリズリーが後ろを向くと今度はデイビスが、ふり返るとルチアが……デイビスの作戦とはグリズリー一匹に対しヒルダを二人充て、挟み撃ちにしてお互いの注意をそらしながら攻撃するという作戦だった。単純ではあるがこれが一番効果的。デイビスはそう判断したのだった。しかし一匹のグリズリーに対し二人をあてるとなると、グリズリーの方が三匹余ってしまう。それをどう対処するか。デイビスには一人がおとりとなり、残りの三匹の気をひきひたすら逃げ続けるという方法しか思い浮かばなかった。それには騎馬戦が苦手で、俊足を誇るダンカンを相棒に持つエドガーが最も適任というわけだった。しかし一対三となると一のリスクが大きい。だからデイビスはこの作戦を実行するにあたって、隊員、特にエドガーの了承を得たいというわけである。そして了承はもらった。一か八かの作戦にヒルダはついてきたのだった。

その横ではアーノルドとジャンヌが同じように一匹のグリズリーにねらいを定めた。そのグリズリーはひときわからだが大きかった。ひょっとすればリーダー格のものかもしれない。

ジャンヌはもちろんキーラから降りている。ジャンヌは得意の空中での接近戦を選んだ。グリズリーの首筋をねらって槍を振るうがなかなかあたらない。接近が足りないと踏んだジャンヌは、グリズリーに身体を槍に沿えるようにして突進した。槍はグリズリーの肩を貫いた。槍はジャンヌがグリズリーを足で踏んで抜き取らなければとれないほど深く突き刺さっていた。グリズリーはこのことに逆上したかのように、ジャンヌを鉄の爪がついた手で襲い始めた。その行動に驚いたのはほかならぬジャンヌである。両手で容赦なく来るグリズリーの鉄拳。ジャンヌは攻撃どころかよけるので精一杯だった。


エドガーは逃げ続ける。普段なら敵に突き進んでいくのが自分のやり方かもしれない。しかし今逃げなければ明日はない。誰だって明日の命がほしいのは言うまでもない。だから逃げる。しかし生の世界に来たものがいつか死の世界に旅だって行くのと同じように、物事に限界がある。エドガーを乗せたダンカンに疲労が見え始めていた。他人が見ても分からないかもしれないことも、実際に相棒として乗っているエドガーにとっては手に取るように分かる。それは鞍に乗っている尻からも、太い胴に触れる足からも、また手綱から伝わる吐息の振動にも満たないかすかなものさえからも。エドガーはぴしゃりと手綱をならした。ダンカンはそれにこたえるようにまた勢いよく走り始めた。一秒でも遅く奴らの手に落ちないために。

エドガーとダンカンの眼前に、なにやら黒い塊が見える。グリズリーだった。エドガーはそれを察すると急いでダンカンに直進ではなく右折の指示を出した。このままでは自分たちの作戦と逆バージョンになってしまうのだ。何とか右折したは良いが、ダンカンの疲労はさらに増し、速さは急激に落ちてしまった。エドガーとダンカンはそれでも逃げる。なぜ自分がこんな危険な役割に抜擢されたのか。なぜデイビスは同期でもアーノルドではなくてなぜ自分にしかのか。そんなことを一瞬だけ考えた。でもいまさら考えても何にも変わらない。時間を元に戻せるならいつでも、そういうと語弊があるかもしれないが、自分なら真っ先にあのことを防ぐはずだ。自分だけではない。アーノルドもデイビスも、父であるアーネストも、牧師のウィリアムも、村の住人なら誰でも。でも時間はもとには戻らない。デイビスの決定のさいも、先ほどの右折のときにも戻れない。どんなに過酷な「今」でもただ生きるしかない。この間のエドガーは逃げる。相棒の息は白い。

しかしダンカンはゆるやかに速度を落とし始めた。エドガーは焦りつつも目の前を見た。目の前に立ちはだかる黄土とも黒ともいえる障害物。リストアの民を守る城壁だった。皮肉にも生命を守るための城壁にエドガーは命の危険を感じさせられた。少しだけ考えただけでも人間は重要なことを見失ってしまうものか。エドガーは少し後悔した。エドガーの後ろから草がこすれる、不快な音がした。エドガーとダンカンは恐る恐る後ろを向いた。そこにいるのは鋭い爪を持つ一匹の悪魔、グリズリーだった。エドガーの中で時間が止まった。自分の中に流れる熱い血液も止まったようだった。やがて二匹目も来た。グリズリーと自分の距離は三メートルほど。ここからエドガーとグリズリー二匹との戦いの第二幕が始まった。精神勝負では先に動いた方が負け。そして精神勝負で負けた方が勝てるはずがない。しかしこのまま止まっていてもグリズリーから逃れることも出来ない。どっちをとってもエドガーが負けるのは見えきっている。気持ちの悪い静寂という名の音楽がながれた。するとグリズリーが一歩動いた。エドガーはそれを見逃さなかった。エドガーは手綱を強く握りしめた。次の瞬間そのグリズリーはエドガーめがけて突進してきた。ダンカンは見計らうかのように左によけた。グリズリーの衝撃が壁を伝わり裏まで響いた。ぱらぱらとレンガの砂粒が落ちる。今度はもう一匹のグリズリーの拳がエドガーの方めがけてきた。その強烈なパンチを食らうとなればひとたまりもない。エドガーはグリズリーの方に突き進むがごとく鉄拳をよけた。しかしその事が裏目に出た。エドガーはバランスを崩し、ダンカンから落ちてしまった。落馬の衝撃は大きい。肩にくる鈍い衝撃がエドガーを襲った。立てない。でも立つしかない。エドガーは肩をかばいながら立ち上がると背中に差してある二本の剣を抜いた。その剣は短い。両刀用の剣だった。二刀流のエドガー・ターナーここにあり。エドガーは相棒に逃げろの合図をした。しかしダンカンは逃げようとしない。

「ダンカン俺は逃げろって言ってんだよ!」

エドガーは声を荒げた。でもダンカンは一歩だけ下がった。エドガーはお前もとことん馬鹿だと相棒に対して思った。二匹のグリズリーがじりじりと近づいてくる。エドガーとダンカンも下がる。エドガーが下がるのも空しくグリズリーとの距離は縮まるばかりだった。助けがほしい。心からそう思った。

《風は我が精霊の吐息、汝は我に汝の使徒の吐息を与えたもう》

助けが本当にほしいと思ったときには未知なるものの声が聞こえるものか、そう思った。

「ヴァン!」

女の声だった。それも若い、いや少女期独特の声だ。風のように流れるトーンだがしっかりした声だった。この声が冷たい空気に響き渡った次の瞬間二頭のグリズリーの周りに強い二つの旋風が吹いた。しかし自分の所には来ない。まるで誰かだ操っているかのように。すると自分の前に白雪の羽を持った大きな鳥が舞い降りた。鳥はエドガーの方に振り向いた。それは鳥ではなく、自分の仲間であるルチアだった。ルチアは余裕そうな表情でこう言った。

「思ったより元気そうじゃない。」

エドガーはため息一つ着くとその場でしゃがみ込んだ。エドガーの後ろから馬どくときの蹄の音が聞こえた。蹄の音はエドガーの横で止まった。

「やっぱりお前を選んで正解だったよ。」

デイビスだった。デイビスはメイから降りると、エドガーの背中をぽんとたたいた。まだ仕事は終わっていない。弱った二匹は自分たちが片付ける。デイビスはそんな目でエドガーを見た。エドガーはよいしょと膝を伸ばして立った。短剣二本は両手にしっかり握りしめている。今度はダンカンと自分だけではない。デイビスとルチアがいる。だからいささかながら安心である。集団心理とは不思議なものだとエドガーは思った。エドガーは右手の甲で泥の付いた顔をぬぐった。


ひときわ大きなグリズリー、普通なら体格が大きくなればなるほど動きが鈍くなると考える。しかしこのグリズリーは違った。絶え間なく来る鉄拳からはまるで疲労を感じられない。俊敏さと平衡感覚が自慢のジャンヌでも連続の拳の弾丸からはへとへとになる。グリズリーから言えばただ目の前の黒い鳥を倒すための単純作業かもしれない。しかし相手のジャンヌからすれば……いつ持久力がはさみで糸を切るようにぷっつり切れるか分からない恐怖を味わう状況である。ジャンヌの漆黒の髪から一粒、また一粒の露が空気中を垂直運動をして地面まで落ち、草を潤した。それはにわか雨のようだった。髪も乱れてきた。しかしそんなことをかまっている暇はない。

するとジャンヌは疲労からか少し後ろに下がった後よたよたと地面に降りた。白い頬は夕日のように真っ赤に染まっている。この状況をグリズリーが見逃すはずがない。グリズリーはじりじりと近づいてくる。ジャンヌには先ほどのエドガーとは違い逃げる気配も見えない。逃げないと言うより両足に来た疲労で足が動かず逃げれないのだ。疲労が手にも来る。ジャンヌは咳のような深呼吸をした弾みで命綱とも言える槍を落としてしまった。さすがのジャンヌもそれをゆっくり出はあるが槍を拾った。でも後ろに下がることも出来ない。ジャンヌは左手で汗だくの顔を拭いた。

するとその隙をついてかグリズリーはジャンヌの方に走ってきた。ジャンヌは体中の倦怠感を振り払うように後ろにふわりと、ゆっくりと飛んだ。後はどうなるか分からないが、とりあえずこれをよけるしかないのだ。本人の眠気もあってか、右手にしかと握られた槍でさえジャンヌには空気のように感じられた。ちょうどジャンヌの頭がグリズリーの頭の高さに達したときだった。ジャンヌの鈍く黒く光る左の胴を、それとは対照的な静かに銀に光る甲冑に包まれた白い左腕が抱え込んだ。熱で温もった黒の胴に腕の持ち主の頬がひっついた。頬はジャンヌと対照的に白い。ジャンヌの体は銀の騎馬兵に空気のように扱われている。漆黒の左翼は騎士が乗る栗色の馬の頭に当たったが馬は全く気にしていない。そこにあることが当然であるかのように。銀色の騎士は空気のようなジャンヌの体を強引に自分の馬に乗せると、ジャンヌが右腕にしっかりと槍を握られている状態のまま、槍を掴み前方に突き刺した。とうのジャンヌから言わせると自分の周りに何が起こっているか全く分からない。うつろな目でジャンヌが前方を見るとそこには自分の槍で胸を突き抜かれた、あのひときわ大きいグリズリーだった。グリズリーは前のデイビスのときとは違い無言のままその場に立っていた。もう息を引き取った体に着いた爪は昼間だというのに、夜を祝福するかのようのにいやらしく、静かに光っている。さすがのジャンヌもこの光景で目が覚め、自分の状況を確認した。恐ろしいようだがジャンヌは本当にあの騎士の栗色の毛並みをした馬に乗っていることに気が付いた。ジャンヌがその馬がなじみから、ヴィクターだということがすぐに分かった。この状況で城壁の外にいて、銀色の甲冑を身につけ、おまけにヴィクターに乗っている人物、そんな人物が一人しかいないことくらい疲労困憊だったジャンヌにも分かる。ジャンヌはゆっくりと顔を時計回りに後ろにやった。そこにはアーノルドの、一つも汗をかいていない落ち着いた顔があった。アーノルドはジャンヌを見ると冷ややかな言った。

「どうしてあそこであんな攻撃をした?」

やはり言われた、あの自分のグリズリーに対する攻撃について。ジャンヌは後ろにいるアーノルドから目をそらした。薔薇の下唇をかみしめて。どうしてそんな無謀な攻撃をするのか、デイビスの作戦を忘れたのか。アーノルドからしてみれば言いたいことはたくさんあったが、言いたいことをごくりと飲み込みやめた。アーノルドはため息を一つつくと無言のジャンヌに言った。

「ジャンヌ、降りろ。あっちでキーラが待ってるぞ。」

ジャンヌがふと目をやった先には自分があらかじめ逃がしておいた白い相棒キーラの姿があった。ジャンヌはそれを見るとゆっくりとヴィクターから降りるとアーノルドに礼を言い、キーラの方に歩いていった。それと同時にキーラもジャンヌの方にやってきた。ジャンヌは無言のままキーラに乗った。そして自分の方にやってきたアーノルドに聞いた。

「まだ終わってないわよね、グリズリーとの戦い。」

するとアーノルドは指を差し、向こうを見てみろと言った。ジャンヌが振り向いた方には姉のルチアに隊長のデイビス、兄貴分のアーノルドの同期であるエドガーが馬から下りた状態で並び、姉ルチアがやったものと思われるヴァンの追随をうけている二匹のグリズリーの姿だった。

「さてジャンヌ、俺たちはあの三人のお手並み見物といくか。」

アーノルドが言った。ジャンヌは自分の出る幕ではないと悟ってか、大人しくそれに従った。それをよそに城壁外の戦場という舞台上では今にもしあげが始まろうとしていた。


デイビスはエドガーのやや前の位置についた。ルチアのヴァンの影響からかリストアの城壁の前には強い風が吹いている。大きな空気の布といった方が良いかもしれない。デイビスの深い草色のマントが波をなして揺れる。

「いい?ヴァンをあいつ等から外すよ。」

ルチアの声が風の中を通り抜けた。デイビスもエドガーもいっそう剣を強く握りしめた。そして二人とも了解の返事をした。ルチアは目を大きく見開くと左手に杖を持ったまま両腕を前にし、肘を丸太のようにぴんとのばし精神を集中させた。ルチアの眉間にしわがよった。ルチアは目から腕に、腕から旋風にかけて力を送っているようだった。実際そうである。この業の微調整には盲目の熟練の魔術師でない限り、目の使用は欠かせない。ルチアは目をつむった。額から流れた汗が頬を伝う。ルチアは目を見開くと、白鳥が湖から飛び立つときに翼を大きく開くように、左右の腕に勢いをつけて前後にばっと開いた。それと同時にヴァンの旋風が二頭のグリズリーから離れた。それを見るやいなやエドガーは走った。エドガーは手前のグリズリーの右腕を左の剣で斬りつけた。地面に緋の液が滴る。しかしグリズリーも黙ってはいない。肩と腕を負傷したグリズリーは逆の腕から発する鉄拳をエドガーに浴びせようとした。先ほどとは比べ物にならないほどの血が流れた。グリズリーの左の鉄拳は抜けないほど深くエドガーの右の剣に刺さっていた。エドガーの右腕は魔物のなま暖かい血で染まっている。グリズリーは声にならない鳴き声を上げている。しかしその歌は突然止まった。エドガーの遊んでいる左の剣がグリズリーの喉を貫通したのだった。エドガーの左腕も夕焼け色になった。やがてグリズリーの全体重がエドガーの方に来た。エドガーは左足で踏ん張ると力の向きを逆にし、本来前に倒れるはずの巨体を後ろに倒した。深く突き刺さった両刀はその重さを利用するかのようにずるりと抜けた。エドガーの手にはまだ重いグリズリーの感触がのこっている。エドガーの頬を汗が伝った。

ここで黙っていないのは後ろのグリズリーである。黒い塊が背を向けたエドガーに向けて右の鉄拳を振り上げた。すると最初のものに匹敵するほどの断末魔がリストアの血だけでなく、この国この大陸、この世界に響き渡った。背を向けていたエドガーも後ろをふり返った。そこにあるのは右の肩に銅に光る小ぶりの斧が肩に刺さった黒いグリズリーだった。斧にははっきりと文字が刻まれている。《Davis Satow》と。ゆっくりと草色のマントを振らせながらデイビスがやってきた。エドガーはむっとした表情で遅いぞとデイビスの胸を肘でついた。デイビスはにっと笑い、エドガーも笑い帰した。ずっと後ろにいたルチアも敵が全滅したと分かるとヴァンを解き、二人の方に向かっていった。


しかしまだ傍観している二人がいる。アーノルドとジャンヌだった。ジャンヌはため息混じりの微笑みを浮かべるとキーラにつながれた手綱をぴしゃりと鳴らし、前に進めようとした。しかしそれを止める焦げ茶の馬と銀の騎士がいる。ヴィクターとアーノルドだ。ジャンヌのいささか驚いた表情を見ると、アーノルドはデイビス達三人の方を見ながら言った。「まだだ」と。ジャンヌは少し眉間にしわを寄せるとアーノルドとヴィクターを視界から追放するかのごとく前方を見た。漆黒の目に映ったのはエドガーとデイビスが一服と言わんばかりに話しをしている。ここまでは戦闘終了後のいつもの光景というより風景である。しかし自分の兄貴分の「まだだ」という言葉、ジャンヌの頭の中にこの言葉がよぎった。すると話しをしている二人の後ろで何かがごそごそと動いた。アーノルドはジャンヌをちらりと見た。するとごそごそと動いている黒い塊はしだいにふくらんでいきやがては熊の形となった。そこには銅の光を放つ物も着いている。グリズリーである。さきほどデイビスが自分の銅の斧をなげてとどめを刺したはずのグリズリーである。グリズリーはゆっくり左の腕を上げた。ジャンヌの顔が引きつる。

「危ないー!」

ジャンヌの高い声が空を駆けた。デイビスとエドガーはゆっくりと城壁の方を向いた。前にいるのは黒い悪魔、グリズリーに高く上げられた黒く光る爪。ゆっくりそれが降りてくる。二人の顔が瞬時に引きつった。

「ウィンドガン!」

この短い言葉がヒルダの耳を釣らぬ来た瞬間、グリズリーは胸に穴を開け、真後ろに位置する背中からは血が流れた。ウィンドガン。空気を圧縮して作った塊を風に乗せることで拳銃と同じ働きを持つ風の魔法。ジャンヌの体に白馬と地面を介してグリズリーが重力に従って崩れ落ちたときのびりびりという振動が伝わった。グリズリーは全身を地面に横たえると口から血を吐き動かなくなった。今度こそ絶命したのだった。エドガーはデイビスの顔を見た。デイビスは先ほどの銃弾が飛んできた方を見た。そこにいたのは左手に  の杖を持った雪の羽のシルフ、ルチアだった。ルチアはそのまましゃがみ込み、顔を腕で隠すような体勢になった。はあという大きなため息がした。私がいなかったらどうなってたのよという声も聞こえた。デイビスは口元をつり上げると青く晴れた空を見上げた。

「魔物の息がどうかを見落とすなんて俺もまだまだだな。」

若き隊長の反省が見られるぼやきだった。三人はグリズリーの死体から遠ざかった。その方向に合わせてアーノルドとジャンヌもそれぞれの相棒を向かわせた。ヒルダは門から五メートルほど離れたところに集まると、全員騎馬の体勢になった。集まった五人と五頭が円になったところでデイビスは大まかな安全確認を始めた。特に問題なしというエドガーの言葉に対しルチアは落馬しておいて何を言うかと肘をエドガーの脇にぶつけ横目で見た。デイビスは隊員の顔をぐるりと見渡すと言った。

「エドガーの肩は義叔父さんやアンジェリーナに見てもらうとして緊急的な事はないな。」

隊員は首を縦に振った。デイビスは続けた。

「ヒルダ、任務終了。」

そう言うと、ヒルダは額から胸、そして両肩へというふうに十字を切ると沈黙の状態で少し祈った。これはジェネヴィーヴクルセイドの習慣の一つで、戦いによって命を落とした魔物と、自分たちの任務無事完了の感謝として祈るのである。やはり近衛兵の役割が大きいにしろクルセイド、つまり『十字軍』の性格そのものである。『十字軍』といっても聖地奪還を目的とした遠征軍とは違うことを言っておこう。十字兵といえどもあくまで彼らは侵略から民を守る近衛兵なのだから。

デイビスは首から紐でぶら下げている笛を取り出した。デイビスは大きく息を吸うとその笛を吹いた。高く、まろやかな音、勝利と安全を知らせるさえずりがリストアの地に響いた。すると門が開くとき独特の音をたてながら開いた。ヒルダはそれぞれの相棒に乗って城門の中に入っていった。全員が入ったところでつなぎの門番や魔物の死体処理を担当する兵士が門の外に出て行くと、また門は閉まった。

「お疲れ様。」

中で門の開け閉めをする隊員が言った。いつものやりとりだった。

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