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第7話 氷結の姫

 土煙が治まると、やはり、そこには間違いなくこの手で消したはずの親友、南原小蔵の姿があった。

 安堵と恐怖。小蔵が生きていたということは少なからず嬉しかった。しかし、小蔵が死人であるという事実が覆ったわけではない。俺は、少なくとも今度は小蔵の確実な死を見届けなければいけない。

 胸中が暗く濁った感情を孕み、ずしりと重みを持ったように苦しい。

 きっと、名付けるとしたら‘罪悪感’。


「――貴様等、レイヴンとか言う組織の者で間違いはないな」


 凛とした、よく通る声で女が言葉を発する。そこにあるのは威圧する、敵対する意思。

俺たちと同じく、黒いコートに身を包んだ姿。月光が彼女の端正な容姿を映し出していた。

 彼女の銀髪はどこかレクラムの髪の銀に近いような気がした。


「おやおや、もう終わったと思っていたんだけどね。どうしたものかな?」


 レクラムは傷を負った頭を押さえつつ、おどけた口調で女に相対する。

 しかし、彼の目は全く笑っていなかった。


「君たち、アレだよね?例の敵対勢力ってやつだよね?繰夜から話は聞いているよ~。何でも死人を増やすことに貢献しているんだってねぇ」


「そうだな、我々のしていることは貴様らにとっての敵対行為。しかし、それは世界の浄化に必要不可欠なものなのだ」


 女は事も無げにレクラムをあしらう。

世界の浄化、とはどういうことだろうか。

考えているところへレクラムが怒気を孕んだ声で会話を繋げる。


「世界の浄化だって?夢見がちな事言っちゃいけないよ。僕には汚染しているようにしか見えないけどね………!」


「貴様等に理解してもらおうとは思っていない」


 そう言うと女の手の中で黒が何かを形作り始める。その黒は細長く伸び、先端を鋭利に。気が付けば彼女の手の中には一本の槍が姿を現していた。その先端をレクラムの方へ向ける。

 鷹のような目を更に細め、敵意を明確に表わす。


「私の名はアスタロト。一人ずつ消す。選ばせてやろう―――誰が先に消えるか」


 殺気が夜の空気を震わせる。横では小蔵が大斧を構える。本気で逃がす気はなさそうだ。

緊張が張りつめる中、レクラムは一歩前へ進み、砕けた調子で挑発する。


「はは、ざ~んね~ん。僕等は消える気更々ないから―――二人ごときで何とかなるなんて、舐めてるのかい?」


 無機質な表情。レクラムもまた、殺気に満ちた、凄惨な笑みを浮かべている。

 睨み合いは続く。空気がおびえるように振動しているようにすら感じる。口はからからに乾き、心臓は早鐘を打つ。


「レクラム、何やってんのよっ!!アンタいつもサボってばっかなんだからいつも通りにしてなさい!」


 その空気を打ち破るようにチェルシーが二人の間に躍り出る。二丁の拳銃を女に向け、威圧するように睨みつける。

 後ろからはテリオルがライフルを構え、援護射撃の準備。ウェルティは光の球を装填し、ダイダロスはブーメランを振りかぶる。

 その勢いに乗ろうと俺も眼を見開き、刀を再度構えようとした、が。


「な、何よ」


 その勢いを止めたのは、レクラムだった。彼は今にも飛び出していきそうなチェルシーを片腕で制し、また一歩、前へ進む。俺たちはその様子を黙って見ていた。黙らせる迫力があった。

 

「いや、いつもサボってばかりだから、今くらいは格好つけさせてよ。ははっ」


「だって、アンタ今にも死にそうな顔してる………!」


「大丈夫、消されたりしないよ。僕一人に、任せて」


「レクラムっ!」


「はは、君に心配される日が来るなんてね」


 力なく笑い、チェルシーの頭を撫でる。そして、銀髪の女を睨みつける。


「ホントに大丈夫。今回は本気出すから。それに、彼女には因縁があってねぇ」


 持っていた鞭を放り投げ、両手を左右に広げる。

 皆は怪訝にそれを見つめている。傍らにいる、チェルシーは更に訳がわからないというような顔をしてレクラムを見上げる。

 黒食であるはずの鞭を投げ捨て、丸腰で敵と相対するなど、自殺行為に等しい。

 対している女すら、その行為に疑問を感じているようだった。


「何だ、諦めたのか?しかし、武具を取らないのは頂けない。無抵抗な者をなぶる趣味はないのでね」


「正々堂々ってやつかい?誇り高いねぇ、けど、遠慮なんかいらないよ」


 広げた両手の中に徐々に黒い影が集結して行く。二本の影。

 現れたのは漆黒に染まる二振りの剣。レクラムは重力に任せて、剣を持った腕をだらりと力なく垂らしている。


「君が本気だろうとそうではなかろうと、今回は僕、頑張っちゃうからね。油断してたら――死ぬよ?」


 突如、レクラムは走りだす。だらしなく下げた腕はそのままに、女――アスタロトへ向かってどんどん速度を上げる。

 アスタロトは驚いた様子もなく、冷静に狙いを定める。


「油断などしない。貴様がいかに自堕落な者だと見せようとも、私にはわかる。貴様は中々強い。だが、それだけだ」


 槍を放つ。一度ではなく、一瞬で五度の突き。正面から見ればただの点。俺でなければ、視認することは難しかったかもしれない。

 しかし、難なくレクラムはかわす。

 アスタロトの口から感嘆したような吐息が漏れる。皆はただ驚いているばかりだった。

 いつの間にか手を握りしめていた。興奮していたのだ。イレインのような強大な力がここにも一つ、存在していたのだから。

 レクラムは双剣を胸の前でクロスさせ、一閃。


「――それはさせない」


「お、君はあの時のゴミだね。今はゴミから虫けらに昇格ってとこかな」


 その一閃は小蔵の斧によって防がれる。

 瞬間、俺は飛びだしそうになった。しかし、レクラムは焦った様子もなく、おどけた様子で小蔵へ視線を向ける。


「でも、まだまだだね。この力の使い方がなってないよ?」


 レクラムが何か呟くと、剣は、斧をいとも容易く破壊した。


「………なっ!?」


「剣は叩き切る物。武器の本質がわかれば、この程度造作もないよっ!」


 レクラムは小蔵を蹴り飛ばし、アスタロトの下へ瞬時に向かう。今度は左の剣を前に出し、右を下段に構えた形。

 アスタロトの槍がレクラムへ襲いかかる。頭、胴、足。全て確実に急所を狙っている。恐ろしく精密な突き。それらをレクラムは余裕を見せてかわす。剣で弾くこともなく、ただかわす。

 両者に焦りは見られない。あるのは純粋すぎる殺意。相手を殺すという強い意志。

 それだけは、恐らくここにいる皆にさえ伝わって来ている。


「具現か。ならばこちらもそれ相応のもてなしをさせてもらおうか」


「へぇ、それは楽しみだね。でも、残念だけどそれは丁重にお断りするよ。痛いのは嫌いだからね」


 アスタロトの懐へ飛び込むレクラム。右の剣で胴を薙ぐ。それをすれすれでかわすと、アスタロトは跳躍し、距離を取る。

 レクラムは深追いせずにその様子を眺める。


『我は氷河より出でる者なり。絶対の漆黒を纏いて、屍を築く。終幕はあり得ず、信条は無意味。冷酷のみを我が糧とする』


 言葉を呟いた直後、槍を閻が取り巻く。気のせいか、当たりの気温が急激に下がってきているような気がした。

 槍を観察すると、それが気のせいではない事がわかる。

 黒槍の表面に氷のようなものが張り付いている。それだけではなく、彼女の周囲の地面に氷が張り、パキ、パキと何かが割れるような音が聞こえる。

 その様子を見て、レクラムはため息交じりに頭のキズを撫でる。


「さて、何やら面倒くさいのが来そうだね、全く」


「安心しろ、苦しみはない。認識する間も与えない」


 眼を見開いて槍を見つめる。

 周囲には黒が集まり、そこから白い大地を這うように黒が浸食してきている。この感覚はどこかで見たことがある。そう、俺が刀から衝撃波を放つときの風の集結。威力を重視した、必殺の攻撃。


「おい、レクラム!避けろ!」


「避けろったって、どこに?僕より自分の心配しなよ。どっかに隠れてのんびり観戦してないと、巻き込まれてしまうよ?」


「馬鹿―――!」


「それでは、幕引きと行こうか。まず、一人目だ」


 アスタロトが槍を振りかぶり、放つ。投擲された槍は神速を持ってレクラムを貫こうと、彼の胸元へ吸い込まれて――――。


「ま、避けられないだけで、防げないことはないんだけどね」


「――――――っ!?」


 相手は神速。しかし、レクラムはその動きを予期していた。双剣を交差させて構え、上体を低く保つ。素早い動きで槍の切っ先に剣の腹を添え、わずか上に軌道をずらす。

 槍はレクラムには当たらず、あさっての方向に消えて行った。その代償のように、ぴきっと一つ音を立てると、双剣は砕け散った。


「……っと、ちょっと厄介かな、これは」


 レクラムは困ったように自らの腕を見つめる。よく見ると、彼の腕は凍りついていた。所々ひび割れ始め、彼の腕から血が流れる。ひび割れは彼の腕の内部まで到達しているようだった。


「今のを防いだのは褒めてやろう。しかし、その腕では先ほどのような俊敏な動きは出来まい?」


「さあ、わからないよ?前に言っただろう、(あかり)。物事に計算外はつきものなんだよ」


「以前貴様に会ったことはない。私はアスタロト。貴様を消滅させる、死神だ」


 アスタロトは再び槍を作り、レクラムに向けて、構える。

 もう、黙っているわけにはいかなかった。

 レクラムを庇うように、二人の間に飛び込む。手には先ほどから出したままの刀。アスタロトはその美しい顔を怪訝に歪め、俺を射るように見つめる。氷のように冷たい殺気が確実に俺を取り巻く。


「何だ、お前は」


「ハイド、手出しは無用なんだけどね。偽善は身を滅ぼすよ?」


「違う、偽善じゃない。ただ、この女の長ったらしい銀髪が月に反射してうざくてな。お前と同じくらいに切ってやろうかなと思っただけさ」


「ふふ、馬鹿だね。ホントに馬鹿だ」


「お前には言われたくないセリフだな」


 文句を言い合いながらも、俺は視線を相手に向けたまま離さない。先ほどから戦い方は見ている。俺の眼ならば、微かな予備動作で次の動きを見切ることは可能だ。

 過信ではない。見える。絶対に。

厄介なのは槍が纏う冷気。こればかりは接近した時に必ず触れてしまう。触れればレクラムの腕のように芯まで凍りつき、使い物にならなくなる。頭に掠れば死だってあり得る。


「なんだ、貴様が相手を変わるのか?別に構わないが、貴様はそいつより強いのかな?」


「さあな。まあ、コイツよりしぶとい自信はあるぞ」


「ふふ、それは楽しみだ」


 視界の端に小蔵を捉える。斧を砕かれてから動きがなかったが、注意しておく必要はあるだろう。

 皆はどこかに避難しているのか、姿が見えない。


「アンタ、馬鹿でしょ」


「おわっ!」


 声の方を向くと俺の背後にはチェルシーがいた。気付いてもよさそうなものだが、もしかするとこの眼は身長によって見える人と見えない人がいるとか。


「今、失礼なこと考えた」


「んなわけない」


「………顔に出てる」


「おい、テリオルみたいな喋り方すんな。姉妹だっていうのに、お前が使うと違和感ありまくりなのな」


「うっさい。黙れ役立たず……今はそんな場合じゃないでしょうが」


 俺の横に並ぶチェルシー。

 銃を胸の前で突き出すように構える。彼女の目には闘志がみなぎっていた。

 彼女はただ立ち尽くすレクラムを一瞥して、ぼそりと呟く。


「アンタ、今回は頑張った」


「はは、褒められちゃったな」


「馬鹿」


 新たな人員の参戦に小蔵が反応する。武具が破壊され、空拳だった手に再び武骨な大斧が握られる。彼の瞳には以前の面影などなく、無感情な冷たい殺意が秘められていた。


「アスタロト、構わないだろう」


「ああ、好きにしろ」


 彼のものとは思えないほど、無感情な声。これは、川崎先生の時に感じた感想と同じ。本当に同一人物であるのか、疑いたくなるほどだ。

 死人になると、人格まで変わってしまうのだろうか。


「アンタ、大丈夫なの?あたし一人でも構わないのよ?」


「大丈夫。因縁にはとらわれない。あれは小蔵じゃない。そういう形をした、紛い物だ」


 刀を胸の前で構える。構えは正眼。基本にして、最強と言われる構え。

 身体はアスタロトに向ける。そして、右目を閉じ、左の眼を見開く。

 途端、現れる白黒の世界。有彩色が排斥されたモノクロの世界は全てを俺に語る。大気の流れ、音の振動、閻の流れ。遠く離れた相手の感情の動きさえ。

 とりあえず、準備は整ったわけだ。


「さて、始めようか――ゴミ掃除の時間だ」


「そうね~。ササッと殺っちゃいますか」


 死闘第二幕が始まろうとしていた。


                             ■


「それにしても、どうしましょう。レクラムったら、普段戦わないのに無茶しちゃって」


「……………馬鹿」


「逃げて、良かったんですか」


「いいわけないじゃない!あたしたちは同じ釜の飯を食った仲なのよ!?」


「…………例えが男らしい」


 状況はなんとも言えなかった。ただ、わかることは、一時的であれ、私たちは仲間を見捨てたということだ。もっとも、このまま黙っているつもりはない。少なくとも、私は。

 レクラムを助けなければ、次々と仲間がやられていくかもしれない。彼が自堕落な人間だということは私とチェルシーが身を持って知っている。どれだけ彼が強かったのだとしても、腕がなまっているのは確実なはずだ。

 それに比べて、あのアスタロトという女。槍の技量といい、閻の使い方といい、卓越していた。恐らく、レクラムは負ける。


「………きっと遠距離からの攻撃は見切られる」


「そうですね。多分、というか確実に」


「じゃあ、どうすればいいのよぉ………!」


 空気が焦っている。私だけでも落ち着かなくては。

 彼女はかなりの強者だ。気配などに敏感であろうことは間違いない。ならば不意打ちなどの直接攻撃は通用しないのではないだろうか。

 ならば、こちらからの攻撃は陽動。止めを刺すのは彼に任せる他ないだろう。

 気がかりなのはもう一人の存在。足止め出来れば脅威は去るが、どうすべきか。


「………考えた」


 とりあえず、皆に今の考えを話した。

 すると、ダイダロスが急に声を張り上げて言った。


「あたしが行くわ」


「え、ま、待って下さい。危険、ですよ」


「でも、助けなきゃダメよ!」


「…………大丈夫。あの傍の男の死人はそれほど強くはない、と思う。言うなら、彼が彼女の隙になる」


     ダイダロスは巨大なブーメランを肩に担ぎ、先ほど走ってきたばかりの道を見据える。遠くからは一度だけ地響きのような音が聞こえた。もしかしたら、決着はついているのかもしれない。


「行くわよ、仲間の下へ!」


                             ■


「さて、どちらからでも構わないが」


「そうだな、早々に行かせてもらおうか!」


 走り出す。黒食の力に頼った疾走。隙なく槍を構えるアスタロトへ切りかかる。しかし、当然のようにそれはかわされ、刃は空を切る。


「馬鹿か、お前は。そんな出鱈目な攻撃が当たるか――――がっ!?」


 アスタロトの脇を銃弾が掠める。チェルシーは次の弾丸を込め、アスタロトに向けて発砲する。

 俺はその隙を突き、刀を一閃させる。それもかわされる。


「はは、アンタ、どこのサーカス団だよ?」


「ふざけるな、小癪なヤツ等め………!ベリアル!」


 聞き慣れない名前が飛びだしたかと思うと、チェルシーの立っている場へ小蔵が全速力で駆け、斧を振り下ろす。チェルシーはひらりとそれをかわし、小蔵を迎撃する。

 ベリアル、という名に反応した小蔵は気になったが、ここは戦場。気は抜けない。


「チェルシーどうだ、まだいけるか?」


「あったり前でしょ?あたしを誰だと思ってんの」


 小蔵が降り下ろす斧をひらりひらりとかわしていくチェルシー。しかし、こちらはその逆の状況に陥っていた。攻撃は尽くかわされ、たまに来る槍の迎撃に対応できず、少しだけ身体を掠める。

 微妙なダメージだが、複数ともなるとさすがに痛い。動きも鈍くなる。

 眼で動きを視認出来ても、身体がその動きについていけない。川崎先生との戦いが再現されているようだった。

 ならば、とその場全体を見ようと集中する。しかし、無意味。

 素早すぎるのだ。川崎先生が一撃の重さが強みであるのならば、彼女は圧倒的手数の多さ。特に、高速で数回繰り出される突きは脅威だ。全てが致命傷になりかねない位置に的確に来る攻撃。


「畜生、面倒な相手だな……!」


「さて、早々ではあるが終わりにしようか!」


「ちょおおおっと待ちなさい!!」


 もはや聞き慣れた妙な言葉遣い。リョウ子ちゃん、と呼びたいがダイダロスだった。

 彼は巨大なブーメランを肩に担いで、野太い声で叫んでいる。それなりに雄々しい立ち姿だった。


「ダイダロス、君もかい?危ないよ」


「覚悟の上よ」


「揃いも揃って偽善者ぞろいだねぇ」


「仲間を守るのは、当然の善行なのよぉおおおおおおおらあ!!」


 ダイダロスは肩に下げたブーメランを小蔵に向かって投げた。暴風を巻き起こしながらブーメランは小蔵に当たる。いや、当たったというのは正確ではない。小蔵は暴風で吹き飛んだのだ。

 そして、ブーメランは軌道を変え、アスタロトの方向へカーブする。


「ほう、これは中々の武人。だが、無駄だ!」


 アスタロトは暴風をものともせず、巨大なブーメランを打ち上げた。空中でそれはくるくる回転し、小蔵が倒れた位置、つまりはダイダロスとは正反対の方へ落下した。


ガァン!

 

 直後に何かが炸裂する音。そして、うめき声。

 何が起こったのかわからないという俺たちだったが、ダイダロスだけはその優しそうな顔でにんまりと微笑んでいた。


「ん、っぐぁ、は、ああ……!」


 アスタロトが苦しそうに腹部を押さえて膝をつく。

 そこからは、赤黒い液体がポタ、ポタと零れ落ちる。眼を見開き、森の奥まで視界を広げると、テリオルがライフルを構えた状態で、何やらガッツポーズを決めているところだった。

 思わず苦笑が漏れる。


「結局皆助けてくれたみたいだな、レクラム」


「そうだねぇ。これは偽善じゃなくて、お人好し、としか言いようがないかな」


 少しだけ和んだ空気を打ち壊し、手負いのアスタロトを睨みつける。眼で見た限りでは、この様子が演技ではないことは明らかだ。相手が相手だけに油断はできないが、決着は着いたようなものだ。


「俺たちの勝ちだな、アスタロト」


「く、ぅう、あ、ま、まだだ!」


 地獄の底から響くような低い声が乾いた空気に響き渡る。

 アスタロトは、まだだ、という言葉をただ繰り返し、俺を睨みつける。


「まだだ、まだだ、まだだ、まだだ、まだだ………!」


 アスタロトの口の端からつぅっと一筋の唾液が零れ落ちる。直後、がくがくと身体が痙攣し始め、目が血走る。

 美しい容姿は崩れ、今はただ、醜いだけの死人と化していた。

 その様子は、どこか小蔵を思い出させる様子だった。


「おい、アスタロト!やめろ!」


「あ、あああ、あ、あ、ううう、あああ!!」


 小蔵が止めたが、変化は止まらない。恐らく、自制がきかないのだ。小蔵は舌打ちを一つ残し、どこかへ走り去って行った。


「小蔵!」


 その一足遅く、俺は彼の名を呼んだが、その時には既に小蔵の姿はなかった。


「来るよ、ハイド、チェルシー」


「わ、たしは、ワタシは、マケテいなイ。マケるワけにはイかなイ………!」


 死人が咆哮する。純粋な怒りの咆哮。大気はそれに呼応するかのように震え、その声は猛々しく山の周辺を駆け巡った。


「死ね、死ねしね、シネ死ねシネしねシネしねしねシネしねシネしねシネしねシネしね………!」


「残念ながら、そんな簡単には死んでやれない。なあ、チェルシー?」


「激しく同感よ、それに、死なんて物騒な言葉、気軽に使わないでほしいわ」


 それぞれ、武器を構え、死人を睨む。遠距離からは先ほどとは別の場所でテリオル、少し近づいたところでウェルティが閃光を放つ準備を始めていた。

 圧倒的優勢。しかし、油断できないのは変わらない。相手は先ほどまで自分たちを圧倒していた強者だ。それに、小蔵の時のように、理性と引き換えに身体能力の大幅な増加もあるはずだ。

 眼で慎重に見極めながら、距離を詰める。

 身体を取り巻いている閻の量は先ほどとはケタ違い。空気までもが汚染されているような錯覚すら覚える。


「一瞬で決めよう。一撃即殺だ」


「そう出来るといいけどね。ま、やるだけやってみますか」


 左右に展開する。左から斬撃、右からは銃弾。

 アスタロトは動かない。ただ撃たれるがままになっている。

 しかし、撃たれたダメージはほとんどないのか、それを気にした様子はない。それでも俺たちは居場所をとどめず、常に動きまわりながら攻撃する。

 内心、このまま決着が着いてしまうのでは、と思っていたが、甘かった。

それは突然。獣のように吠え、消えた。


「え、どこに………」


 眼を駆使して、周囲を探しても見つからない。消えた、としか思えなかった。

 一旦チェルシーに声をかけようと目を合わせる、が。そこには叩き伏せられた茶髪の少女が無残に転がっていた。肩には爪で抉られたような傷が生々しく月に照らされていた。


「大丈夫か!おい!」


「う、うっさい、わね。ちょっと、調子に乗ってたかも。ったく」


「チェルシー!喋っちゃダメだよ。落ち着いて、ゆっくりと息をするんだ」


「なに、慌ててんのよ、レクラム。そりゃ、痛いけど、っつ!死んだわけじゃないんだから」


 焦りが生じる。恐怖も感じる。手負いの獣は危険なのだ。俺は以前に聞いたことがある。そう、あれは孤児院の、めちゃくちゃなあの男の言葉。

 心臓が暴れる。相変わらずアスタロトの姿は視認出来ない。

ただ、わずかに乱れる土の音、揺れる枝が俺の味方だった。

 彼女の美しい銀色は、完璧に暗闇に融け込んでいた。

 見えない、見えない、見えない………!

 刀を持つ腕が震え、足が震え、息をつく喉が震えた。

 

『全く、こういうときは決まってピンチだな、桐人』


 白い自分、黒猫、ベルフェゴールの声が聞こえるまでは。

 彼の声を聞いた瞬間、左の眼が歓喜に疼いた。元の主の出現を歓迎するように。左目は熱くなる。

 熱い、熱い、熱い。血液が蠢動する。


「ベルフェ、遅いぞ」


『何も、いつも見ているわけではないからな。ただ、感じるのだ。お前が困ると、決まって右の眼が疼く。まるで片目の危機を知らせるかのようにな』


「へぇ、義理人情に厚い眼じゃないか。感動した」


『ふざけたことをぬかすな、馬鹿もの。それより、相手が視認できないのだな?』


「見てたのか」


『少しはな、というわけでいくぞ桐人。逆境は今が塗り替え時だ』


「ああ、そうだな!」


『まずは、そうだな。廃ビルの壁を背にしろ。ここにいる奴ら全員だ』


 言うとおり、皆にも声をかけ、廃ビルの壁に背を当てる。そして黒猫に次の指示を仰ぐ。しかし、それは予想外のものだった。


『そのままだ。そのまま待っていろ』


「は?何言ってんだ、ベルフェ。それじゃあ嬲り殺されるだけじゃ」


『いいから黙っていろ』


 至極真面目な口調でベルフェゴールは指示を出す。仕方なく、刀を構えた状態のまま背を廃ビルの壁に預け、その場に立ち尽くした。

 相変わらず聞こえる土を踏む音、枝を折る音、廃墟を破壊する音。

 そこでようやく異変に気付く。廃墟を破壊する音。それはつまり、背後から来ている可能性もあるということだ。


「おい、ベルフェ、どうすればいい!おい!」


 ベルフェは返事を返さない。俺たちは律義に廃墟の壁を動かず、待った。とにかく、ベルフェが次の言葉を発する、その時まで。

 やがて、チェルシーを抱えたダイダロスが口を開く。


「ねえ、どうすればいいの?敵は見えないし、手負いが二人。もう撤退した方がいいんじゃない?」


「でも、下手に動けばやられる可能性もある。繰夜からは失敗するなって言われてるけど、これは失敗のうちに入る………だろうな」


 チェルシーの出血もそろそろ危ない辺りまでさしかかってきた。そろそろ動かないと本気でマズイ。


(ベルフェ、まだなのか………!)


ズガンッ!


 銃声かと思ったが、違う。よく聞くと、それは何かを破壊している音だ。それも、後ろから聞こえてくる。


「マズイ、ビルから離れ――――」


 遅かった。ビルは俺の横が破壊され、人の腕がそこから飛び出す。そしてその腕は素早く俺の胸倉をつかみ、その場に叩きつけた。口から苦悶の声が漏れる。

 更に、その何者かは俺の頭を掴み、軽々と持ち上げた。月明かりに照らされ、その顔が明らかになる。


「あら、桐ちゃん?ゴメン、間違えちゃったわ」


 その声に、一気に脱力する。

 声の主は、絶対的な暴力の持ち主、破壊神、イルデュラだったのだ。


                             ■


 目が覚める。それは当たり前のことで、普通に生活していれば毎日必ず経験する行為だ。しかし、私が目を開けるのは、随分久しぶりあるような気がした。

 目尻が少しだけくっつくような気がして、少しだけ気持ち悪かった。

 一つだけの窓から月の優しい光がさらさらと私に降り注いでいた。視線を落とす。そこには、自分の身体と、温かい布団と、丸まった黒い猫。

 

「あれ、桐人は………」


 自分の声に驚く。小さかったのだ。自分でも聞こえるか聞こえないか。それくらいの音量だった。見回しても桐人はいなかった。どこにもいない。本来の主を失ったオンボロアパートの一室は、少しだけ寂しそうだった。

 

「ああ、違う。私が寂しいのか」


 誰に言うでもなく、ただ呟く。慰めが欲しい。静寂が怖い。この頃、特に。

 別に自分では変わったつもりはなかったけれど、これは中々重症かもしれない。


「起きたのか。回復が早いな」


「……………わっ」


「リアクション薄いな」


「だって、あなたは前に会ったことあるしね」


「そんなこともあったか」


 黒猫はしわがれた声で喋っている。彼とは、桐人と出会う少し前に会ったことがあった。その出来事は夢として処理していたはず、だけど。

 頬を引っ張ってみると、痛い。猫を撫ででみると、柔らかい。あ、噛んだ。痛い。


「まだ寝ぼけているのか?」


「夢なのか確認してただけだけど、まあ、あなたのおかげで完璧に目が覚めたわ」


 馬鹿にしたような態度の黒猫がなんだか可愛かった。とにかく話し相手がいて良かった。

 少しだけ心が和んだところで、再び話しかけてみる。


「ねぇ、私、なんで寝てるの?」


「覚えてないのか?死にかけたんだよ、お前。腕をぶった切られてな」


「?………ああ、なんとなく、そんなこともあったような」


 巣に行ったところまでは覚えているような気がするが、曖昧にぼやけて、肝心なところは思いだせない。窓からかろうじて覗く月を見上げる。月の形はそれほど変わっていない。大した時間はたっていないことがわかる。

 それにしても、本当に静かだ。

 く~

 静かにお腹の音が鳴った。そういえば、桐人の料理を食べる前に飛び出したはずだ。お腹がすくのは当たり前だった。少し、後悔した。


「お腹すいたな~」


「俺は作れんぞ」


「そっか」


 静かな時間が流れる。

 時間は有限だと知っているけれど、この時ばかりは本当は無限にあるんじゃないかな、なんて思ったりした。そんな事を考えたって、何かが変わるわけではないのだけれど。

 あまりにも暇を持て余していて、それに食事を作ってくれる人もいなくて、しょうがなく腿の上に乗っている黒猫を優しく何度か撫でる。黒猫はそれを不機嫌そうにしていて、見ていると中々愉快だった。


「桐人はravenに入ったぞ」


 黒猫は急に言葉を発したかと思うと、すぐにまた黙り込んでしまった。

 しかし、その内容に私は愕然とした。もっともあってほしくないことだった。彼には、普通の生活が似合う。この血生臭い世界は似合わない。

 私は知らず、下唇をかみしめていた。少しだけ、血の味がする。


「それは、いつの事?」


「さあ、な。俺はもう片方の眼を通してヤツを見ている。それもごくたまに、だ。入ってくる情報も中々限られていてな。継続する時間はそれほど長くないのだ」


「そう、でも、‘眼’って何?」


「俺の、‘眼’だよ。俺は右。あいつは左」


「あなたが桐人に黒食を与えたの!?」


 私は黒猫を睨みつける。きっと、さぞかし醜い顔だろう。でも、そんなことは気にしていられない。


「なんで………」


「彼が欲したからだ。それだけに尽きる」


 黒猫の威厳のあるしわがれた声が、静かな月夜を震わせる。その後も、黒猫は誇り高く私に告げる。


「彼はね、君を守りたいと言ったのだよ。それが彼の‘欲’だ。ただそれだけ。そのために強くありたいと願ったのだ。さしずめ、姫を守る騎士の如くな」


「私はそれを望んでいない」


「それは関係ないのだよ。彼が望むのは、結局のところ自己満足に過ぎないのだから。結果的に君が守れれば、それでいいのだ」


「何故」


「それは君が気付くこと。君たち人間は、まだまだ未熟だ。欠点を見つけることならいくらでもできる。しかし、俺から言わせてもらえば、それだけの可能性があるのだよ。弱き者は強くなる可能性が。醜き者には美しくなれる可能性が。愛を知らぬものは幸せになれる可能性が。しかし、君たちは気付かない。それを叶えようとしない。ただ望むだけで、それを行動に移す者はごくわずかだ」


 黒猫は私から飛び降り、そこらを歩きまわる。やがて立ち止まり、私の目を見つめる。猫の右目は美しい金色。空から月を切り取ったような、そんな色をしていた。


「つまりは、桐人はそれを実行に移したわけだ。可能性を手に入れた。君が倒れた時、死人に多く接してきた桐人は死人にならず、この力を手に入れた。それが答えなのだよ、篠月楓」


 私の口から言葉は出てこなかった。息がつまった。誇り高い黒猫の言葉が、優しくて強い助手の行動が、私を苦しめた。何故、わかってくれないのか。何故、私は………。

 頬を涙が伝う。悔しかった。思い通りにならない全てが、憎かった。


「私は、どうしたらいいの。桐人は戦うことを決めた。なら、私は彼を殺さなくてはいけないかもしれない。それが、契約」


「それはきっと、運命というやつだろうさ、人間。君は君の物語を紡ぐのだ。それは何者にも左右されない、不可侵のモノだ」


 黒猫は一つだけ欠伸を漏らす。そして、風が吹いたようにドアが開き、黒猫は月夜に消えていった。

 取り残された私はもう一度月を見上げた。なんとなく、見下しているようで腹が立った。

 ゆっくりと起き上がると、黒いコートを羽織る。そして、ドアの前に立ったところで、世話になった、優しい少年の部屋を一瞥する。

 風が吹いた。

 私はそれに誘われるように、アパートの一室から退出した。外は生ぬるい空気に包まれていて居心地が悪い。部屋の中は冷房も何もなかったのに、この空気に比べれば幾分かマシだったと思う。


 「やあ、奇遇だね」


 いきなり声がかかる。暗い道、明りは月光のみ。薄ぼんやりと浮かびあがったのは、炎を連想させる赤。相手をねじ伏せるような鋭い目つき。私と同じ、鴉の羽のように黒いコート。


「繰夜、どうしたの?」


「楓、君は巣の排除に失敗しているね。これから向かってもらいたい。行けるか」


 私はくすっと笑って、繰夜のしかめ面を見る。


「私も、そのつもりで出てきたのよ」


 すれ違いざまに彼の肩をポンとたたき、月夜をゆっくりと歩く。半月が、私を見下ろしていた。

                               

                             ■


「イレ……イルデュラ、なんでここに?」


「桐ちゃん、慣れてよ、ってそっか、桐ちゃんもハイド、だったよね。姫ちゃんから聞いてる」


 あはは、とイルデュラは陽気に笑って、周りを見回した。抱えられたチェルシーと、腕をだらりと垂れ下げているレクラムを目に留める。


「何、これはどういう状況なの?一応、姫ちゃんから概要は聞いてるけど、それにしても酷いありさまじゃない?」


「それが――」


 そこまで言葉を発したところで、また土を踏む音が聞こえる。まだ気を抜くわけにはいかない。その音を聞いたのか、イルデュラは一度だけ頷き、虚空を睨みつけた。


「なるほどね。それなりに厄介な相手みたいじゃない?」


 イルデュラはただ虚空を見つめる。これは捕食者の目だ。獲物が現れるのを待ち、一瞬で捉える。獣のような、野性的な。

 俺はそれを見守ることしかできない。眼が使えようとも、その反応には身体が追いつかない。予測しようにも、この眼ですら捉えられない早さ。成すすべもないとは正にこのことだ。


「でも、私に捕まったのが運の尽きよねぇ」

 

 そう言って、イルデュラは虚空に手を翳す。ちょうど、黒食を使用するときと同じように、ゆっくりと、慎重に。目を閉じた。自殺行為だ。俺はイルデュラに手を伸ばそうとして――止まる。

 ピリッとした空気が彼女から放たれている。閻だ。眼で見なくてもわかるほど、濃厚な閻。大気に融け、人体に刺激すら与える。


「さて――捕まえた」

 

 瞬間、走り出す。武器は拳、それが彼女のスタイル。その拳を虚空に向けて、放つ。

 ごっ

 何かがぶつかる鈍い音。次に何かが地面に引きずられる土の乾いた音。確かに聞こえた、何かのうめき声。何かとは?決まっている。死人だ。アスタロトが地面に這いつくばり、胃液を吐き出していた。


「が、ぁ、あああ、ゔあ」


「あら、存外綺麗な顔じゃない?殴っちゃってごめんなさいね」


「ぐぅうう、き、貴様あああアぁぁアアァァアア」


「何、殴り合い?私の得意分野でいいのかしら?」


 飛びかかるアスタロト。イルデュラは左腕で攻撃をいなし、右腕のひじ打ちで首を強打し、地面にたたき落とす。更に追撃を緩めず、俺の頭をつかんだのと同じようにアスタロトの頭を片腕でつかみ、身体を持ちあげる。


「どうしたの、子猫ちゃん。意外とつまらない、じゃないっ!」


 アスタロトを上へ投げ飛ばし、落ちてきたところを右の回し蹴りで蹴り飛ばす。アスタロトは土にまみれながら、地面を転がって行った。

 まだ、イルデュラは攻撃の手を緩めない。イルデュラは軽く笑いながらすくい上げるようにアスタロトを持ちあげ、近くの木に叩きつける。


「ぐぁあああああ!こ、おおおああああ!!」


「何言ってるのかわからないわ。命乞い?でも残念。私の身内に手ぇ出した時点であなたは終わってるのよぉ!!」


拳を大きく引き、アスタロトの胸に叩きつける。遠くからでもわかるほどの衝撃。空気を伝わってやって来る、怒りの波動。ミシ、ミシとアスタロトの胸から聞こえる破滅の音。声にならない悲鳴を上げる。


「――――グ、――ァ」


「消えてわびなさい」


 イルデュラが止めとばかりに腕を大きく引いた。その瞬間、俺は眼で影を捉えた。最初はテリオルかウェルティが様子を見に来たのだと思ったが、どうも違うようだ。

 体格が男のものだったのだ。そして、その影は素早く、この場に向かって来ているようだった。


「イルデュラ!気を付けろ、何か来るぞ!」


「へ?」


 間抜けな声を漏らしたとき、本日何度目かの地響きが、静かな森に響き渡った。土煙が舞い、俺たちの視界を一瞬で奪った。


「何だよ!?」


「ちょっとちょっと、戦いに水差すってどういうこと……やんっ!」


 イルデュラが短い悲鳴を上げた。俺は眼を使い状況を見極める。


「消えた………?」


 そこにはもうすでに敵の姿はなかった。取り残されたイルデュラが空しく木に寄りかかり、立ち尽くしていた。逃げられたのだろうか。


「これは………まかれたわね。しらけるわぁ」


 煙が治まると、だるそうに地べたに座り込んだイルデュラが目に入る。

 やはり、逃げられたのだ。イルデュラには悪いかもしれないが、俺は少しだけホッとしていた。イルデュラが追い詰めていたあの状況。なんだか、自分の中の彼女がどんどん壊れて行くような気がして、怖かったのだ。

 彼女の不敵な笑みを思い出すと、寒気が走る。


「何にせよ、終わったねぇ~」


 レクラムが気の抜けた様子で背後に立っていた。心なしかほっとした顔をしている。一応周囲を警戒していたが、どうやら本当に終わりらしく、俺たち以外の閻の存在は感じられなかった。

 森から二人、人影が駆けてきていた。


「チェル!」


「うわっ、痛いじゃない。大丈夫よ、まだ意識あるし。少し眠いけどね」


「馬鹿チェル………!」


 よほど心配だったのだろう。テリオルは真っ先にチェルシーの下へ駆け寄り、その身体を抱きしめた。思えば、彼女たちは作戦中、あまり会話していなかったような気がする。確かに距離はあったが。やはり、作戦に私情は持ち込まないということだろうか。


「………お疲れ様です」


 同じく森の中から出てきたウェルティがよそよそしく話しかけてきた。本当に人見知りのようだ。

 こちらからは気さくに話しかけてやる。


「おお、お疲れ」


「………失礼します」


「え、おい……」


 逃げるように俺から離れて行くウェルティ。その様子をレクラムがくすくすと笑いながら見ていた。そして、全員が落ち着いてきたところで、声を張って号令する。


「総員、撤退~」


                             ■


 繰夜に成果の報告をすると、皆、各自ばらばらになって行動を始めた。この白黒の空間から外へ出ることも可能なようである。

 俺は一刻も早くベルフェゴールを見つけなくてはならない。眼の封印がまだなのだ。

 というわけで、俺は我が愛しのオンボロアパート、野々村アパートに戻ってきた。正直、楓の事も心配だった。

 久々、と言っても一日くらいしかたっていないはずだが、アパートのドアを開ける。ベッドの方へ顔を向けると、そこには楓と黒猫の姿が――――ない。


「な!?どういうことだ………?」


 布団に触れてみる。冷たい。起き上がってすぐ、というわけではないようだ。黒食を使われては距離などあまり関係ないが、とりあえず考える。

 近場ならばここで待機していた方が賢明だ。まだ病み上がりということもある。その可能性は高い。しかし、彼女の行動力だ。正直、手負いでも十キロ圏内なら余裕であり得そうだ。

 様々な思考が頭を廻る中、ようやく結論が浮かぶ。


「そうだ、眼使えばいいのか。動転していたにしてもこれは中々間抜けな……」


 一人自分に恥じながら右目を閉じる。白黒の世界が広がり、さっそく外へ………。

 視界はどんどん広がる。人工衛星からの映像が近いかもしれない。

 まあ、何が言いたいかというとだ。


「んなだだっ広い町中から一人なんて探せるかボケッ!!」


 思わず床を拳で殴りつける。野々村アパートとて甘い作りはされていない。下はコンクリだ。当然、痛い。かなり痛い。俺はアスファルトの熱さに悶えるミミズの如く床を転げ回った。


「な、何やってるんですか?」


「か、楓!?違うんだ、これには………なんだ、桐葉……だったよな」


 期待が大きかっただけに落胆を隠せない。その声音を聞いて気分を害したようで、桐葉は少しだけ眉間にしわを寄せる。


「名前を覚えていない上に他人と間違えるなんて、あなた、女に嫌われるタイプですね」


「いや、悪かった。少し動転してるんだ。ここに置いてきたお姫様が今来てみると消えてたんだよ。行動力があるのも困りものなんだがなぁ」


「………その人って、どんな人ですか」


「ん、髪はちょうどお前みたいに伸ばしてて、色は黒。胸はまあまあ………待て、わざわざ靴を脱いでまで投擲しようとするな」


「真面目に答えてください………多分、その人ならさっき見ましたよ」


「本当か!?どこだ」


 桐葉に詰め寄る。行動からして真面目じゃないと思ったら大間違いだ。本当のところ、かなり心配だ。


「えと、アジトの方へ……」


「アジト?どこだよ、それ」


「ravenです……って顔近いです!離れてください!!」


 自分でも気付かないうちに俺と桐葉の顔の距離は吐息のかかる位置まで迫っていた。角度によっては間違いが起きてしまいそうな気がしなくもない。

 そんなことよりも、情報は得た。俺は桐葉に礼を言い、アパートを飛び出し、組織に舞い戻る。

 唯一の入り口であり、出口である鉄製の扉はやはり、なんで気付かなかったのか不思議なほど異様な雰囲気を放っていた。


「楓!」


 入るなり大声で叫ぶ。しん、とした白七割、黒三割の廊下に俺の声が反響した。恥ずかしかった。

 気を取り出して、気が滅入る白黒の廊下を駆ける。景色が変わらない分かなり長く感じる。


(今度、絵でも描いてやろうか………げ)


 曲がり角に差し掛かり、金色の物体が見え、俺は急停止する(心臓ではない。確かに危惧はあったけども)。姫島さんだ。俺の危機察知能力がそう告げていた。


「案の定それは姫島さんだった」


「あ、ゴミ虫」


「第一声がそれはどうかと思うんだが……」


「では、改めて。あ、地球内で生物学的に最低の位置を欲しいがままにし、人間の形を模した結果、微妙に生物としての方向性すら間違ってきてしまった………桐人じゃないですか」


「よくもまあそれだけの言葉が一瞬で出るもんだな」


「私ですから」


 妙な説得力があった。


「そんなことより、楓見てないか?」


「楓ですか………というかもう起き上がっているんですか!?」


 珍しく声を荒げる姫島さんに驚きつつ、俺は事の詳細を説明した。

 説明が終わると、姫島さんは考え込むような仕草を見せ、ぶつぶつと何かを呟いたかと思うと、突如顔を上げ、相変わらずの無表情で、しかし熱の籠もった目で俺を睨みつけた。


「桐人、いや、短小包茎野郎」


「これは今までで一番効くかもしれん………!!」


「いるんですね?この中に」


「ああ、桐葉の情報が正しければな………っておい、どこに行くんだよ!」


「万年性病患者は自分のほら穴に戻っておいて下さい!楓は必ず家に帰します!」


「ちょ、俺は性病持ってねぇぞ!………もういないか」


 何故か付き離されてしまったことに茫然としつつ、状況を確認する。

 要するに、姫島さんが連れ帰って来るから俺はボロアパートで待っていろと、そういうことだろうか。ここは大人しく―――引き下がったら男じゃないよな。


「ま、後で色々言われるのは覚悟しておくか」


 姫島さんの行った道を辿ってみることにする。姫島さんは心当たりがあるのか、迷いなく走って行ったようだった。

 俺は眼を使い―――普通の景色であることに驚いた。

 右目をいくら閉じてみても、いつものように視界が広がっていく感覚がない。白黒の景色は元からあるので大して変わることはないが。何故使えなくなったのか、考えはすぐに結論に至る。

 目の前を見覚えのある黒猫が横切ったのだ。今のところ、幸運より不幸が多い。


「おい、ベルフェ」


「にゃ?」


「にゃ、じゃねぇ。勝手に封印しやがって」


 黒猫はばれたか、とため息をつくと俺の足元をくるくるとうろついた。しばらくして足の間に場所を落ち着けると、俺を見上げ、しわがれ声で返答を返した。


「勝手にとは心外だな。お前は封印してほしくて俺を探していたんだろう?目を通じてお前の考えは丸わかりさ」


「じゃあ、今の考え、わかったはずだよな」


「見ていなかったにゃん」


「ふざけんな、そして寒気するからにゃんとか言うな!」


「ふう、わがままな奴め」


 ベルフェゴールはその場に座りこむと、一つ、退屈そうに欠伸を漏らした。

 こちらは一大事だというのに、まったく暢気なものである。


「使いたいなら再び使えばいい。眼はいつだって使える。けどな、俺はあの娘を信じて家で待っていてもいいと思うんだが」


「でも、俺が何もしないわけには」


「お前は情報を提供しただろう?それだけでいいじゃないか。後は気長に待てばいい」


「そうか、そうなのかも、しれないな」


 俺は半ば言いくるめられたように折れた。

 とりあえず、アパートに戻って彼女の帰りを待つことにしよう。


                             ■


 私は見つけた。モノクロの廊下を退屈そうに歩く、黒い天使。あの傷からこの短時間で立ちあがったのはさすが楓、としか言いようがない。あの傷はそれほど重大なものだった。

 

「楓!」


 私の声を認めると、楓はゆっくりとこちらを向いた。まるで何かを恐れるように、本当にゆっくりと。

 自分の声に立ち止まってくれたことに安堵しつつ、次に発するべき言葉を考える。


「桐人が心配していました。彼の住処に戻ってあげたらどうです?」


 楓はふるふると首を横にふった。


「何故です?」


「私が戻ると、迷惑がかかるのよ。彼に会うわけにはいかないわ」


「迷惑なんて今までに散々かけてきているでしょう。彼は慣れていると思いますが」


「違う、違うのよ。今回は本当にダメ。だから、帰れない」


「何なんですか、貴女らしくないですね。随分と女々しいじゃないですか」


 知らず語気が強まる。カッと頭に血が上って、顔が熱くなっていくのがわかった。怒っているのだ、私は。まだこんな感情を生むだけの機能が残っていたのかと自分でも驚く。


「とにかく、一度帰りなさい。送りますから、話はそこで聞きましょう」


「ダメなのよ。戻ったらそこで終わりなのよ。桐人に会ってはいけない」


「何故頑なに拒むんです?桐人が嫌いになりましたか」


「そんなことは、ない。むしろ好きなくらい」


「だったら戻りましょう」


「……………そうよね。ただ別れて消えるなんて、虫の良い話」

 

 私が必死に説得しているというのに、楓は何故だか少しだけ上の空。確かに返答は帰ってきても、そこに感情は感じられない。まるでいつもの私のようだ。

 楓は私を無視して何やらぶつぶつと呟き始めた。思い悩んだような顔をしたり、遠い目をしたり、表情が目まぐるしく変わる。

 やがて、私を見つめて、目が据わった。覚悟を決めたのだろうか。


「さあ、行きましょう」


「わかった、行く。だけど、その前にあなたに聞いておいて欲しいことがあるの」


「何ですか?私がそれを聞くことで貴女が行動に移るのなら喜んで聞きましょう」


「………ひとまず先に言っておくわ。今までありがとう、由利亜」


「?」


彼女は静かな声で、私に真実を告げた。

 

                              ■


 ベルフェゴールの言われるがままにアパートまで引き返してきた俺、だったが。


「なあ、遅くないか」


「バカたれ、何回言えば気が済む。これで十七回目だぞ」


「せめて二十回は言わないと駄目だな。んな中途半端な数字では終われない」


「変なところで几帳面になるな」


 待ち時間というのは長く感じるもので、暇を持て余していた。娯楽の類はほとんど部屋にない。というか娯楽に興じるつもりはない。ただ待ち遠しい。

 月明かりがさらさらと俺に降り注ぐ。もしかすると、その落ち着いた空気も時間を停滞させようとしているのか。

 そんな中、唐突に変化は訪れる。外から足音が近づいてくるのだ。

カツ、カツ、カツ。

 停滞した空気を波立たせるようにその音は反響して聞こえる。俺はその人物が顔を見せるのを心待ちにしていた。そして―――止まる。いよいよだ。


ガチャ


 静かに扉が開く。暗い部屋が徐々に月明かりで満たされていく。

 しかし、そこに立つ人物は俺の期待していた人物ではなかった。


「姫島さん、楓は?」


「…………」


「なあ、姫島さん。どうしたんだよ」


「…………」


 一向に口を開く気配のない姫島さんに少しずつ、俺は苛立ちを感じ始めていた。思い通りにならない事柄へのわがままな怒りと酷似している。何故、姫島さんは口を開かないのか。そして、何故楓がいないのか。

 

「高宮桐人」


 姫島さんは口を開いた。その口から漏れた声は今までと変わらない、平坦で無感情な声、のはずだった。しかし、慣れとは恐ろしいもので、俺はその声からいつもと違う様子を見いだしていた。

 夜風に彼女の金色の髪が悲しげにゆれる。


「どうしたんだ」


「楓はここには戻りません」


「どうして」


「……桐人、質問します」


 俺の疑問には答えず、姫島さんはただ俺の瞳を見つめる。正確には左目を。


「貴方は…………その眼を捨てることができますか」


「なんでだよ。せっかく手に入れた力をみすみす手放すことは出来ないさ。楓と肩を並べて戦うには、これは必要なものなんだから」


「では、貴方は…………」


 再び起こる時の停滞。先ほどと違うのは、俺がそれを望んでいること。姫島さんに口を開かせてはいけない。それを聞いては行けないと脳が警鐘を鳴らす。

 やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ。

 胸が痛い。緊張から来る腹痛。俺の目は姫島さんを捉えて離すことはなかった。その行動の一つ一つを逃しはしないというように。

 俺の願い空しく、姫島さんは最後の言葉を口にした。先の予想は出来ない。どんな言葉が来るかはわからない。ただわかる。



「楓を、殺せますか」



 それは確かな、終わりの始まりだったのだ。


感想等、よろしくお願いします。


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