第4話前 ハジマリ
死人を狩る少女、篠月楓と出会い、その助手をすることになった高宮桐人。
‘巣’での死人との戦闘により負傷した楓。
その闘いの中で、黒食を発現させた桐人。
喋る黒猫、ベルフェゴールによって、黒食の真実を明かされ、困惑する桐人だったが、
そんな中、親友である南原小蔵との再会を果たす。
窓から光が差し込む。この部屋には窓が一つだけで、しかもなかなか小さいので入る光の量なんてたかが知れているのだが、部屋の暗闇はそれを増大させているように感じる。
大気中のちりが光に反射していて幻想的と言えなくもない。
「いつまで寝ている。毛玉だらけにしてやろうか?」
黒猫が喋る。
もちろん、猫ではないのだろうが、姿かたちは何処をどう取っても猫だ。
起き上がり、こきこきと首を鳴らす。
床に敷いた布団は俺に安眠をもたらしてくれたようで、目覚めは最高だ。
ベッドに目を向ける。
「……………起きないのか」
「ああ、そいつはしばらく起きんぞ。直されたとはいえ、あれだけのキズを受けた後だ。けろっと起きられたらそれこそ怖い」
確かに。
腕を切り落とされて、生きているどころかその腕がくっついているのだから、これ以上の望みは贅沢というものだろう。
日の光を受けるその少女、篠月楓は白いシーツと布団に埋まっていた。
「桐人、これからどうするつもりだ?昨日言った通り、義理を果たすのは勝手だが」
「確かにそうだけど、少し違うかな」
「違う?」
「そう、義理っていうのは、きっと建前で本当は‘助手’ではなくて‘相棒’みたいな存在になれたらと思ってる。いや、本当はもう、楓には戦ってほしくない。でも、俺が弱かったら説得力ゼロだろ?だから、戦うよ」
怖い。
これは死人に対してなのか、それとも楓がいなくなってしまうかもしれないことに対してなのか。
きっと、どちらもあるのだろう。
口では達者なことを言えても、やはり、本心は臆病者だ。
だって人間だ。
少し前までは平凡に暮らしていた、ただの人間だ。
うずくまって、立ち止まって、怖気づいて、泣きわめく。
死を恐れて、神に祈って、平和なんて夢見ている。
脆弱で、ちっぽけな、人間だ。
けれど、もう立ち止まれはしないのだ。
「言っただろ、ベルフェ。俺はコイツを守らなくちゃいけないんだ。誰のためでもなく、自分勝手に」
「そうか、後悔しないならそれでいいさ」
そう言って、黒猫は俺から離れて日の当たる窓際にうずくまった。
時計の針の音がうるさい。
「そうか、学校行かねえと」
昨日のことで疲れているのだろうか。
少し、身体を日常から遠ざけすぎたかもしれない。
ふと、朝には少し騒がしい親友の顔が思い浮かぶ。
懐かしい。
何故、そんな言葉が思い浮かんだのか。
手早く身支度を済ませる。
しかし、その手は洗面所で止まった。
「え…………………なんだ、これ」
目の下の黒いクマ、頬に出来たキズ、伸びた無精髭。
そして、色素の薄い、左目の瞳。
「なんで左だけこんなに……………あ」
そこまで言ってようやく思い当たる。
左目といえば、昨日、俺が黒食を発現させた場所だ。
きっと、これはそれの何らかの影響なんだろう。
そう、納得することにした。
両手に冷水を汲み、顔にかける。いくらかクリアになった意識は、しつこく昨日の出来事を思い出させようとする。
(駄目だ。今は学校に行く準備に集中しよう。)
かけてあった制服を羽織り、パンを咥えて扉を開け放つ。
「ベルフェ、楓を頼んだからな。……………お前、楓に変な事しないだろうな」
「馬鹿かお前は。そんな心配なら自分で残ればいいだろうに。大丈夫、何もしないさ」
「はは、じゃあ、行ってくる」
再び丸くなった黒猫を見届けて、扉を施錠する。
アパートの脆くなった鍵では安全性など、ほとんど皆無だが。
ひゅうと風が吹き、俺の髪を乱していった。
それを小馬鹿にするように小鳥が目の前を飛びまわる。
その後にむっと来る熱気。
夏は未だに終わりを見せない。
しばらく歩いていると、やはり、昨日のこと考えている。
閻は生命エネルギーで、黒食を使う時に消費する。
昨日楓の治療をしたイレインはそれを大量に消費したという。
つまり、命を。大量に削ったのだ、彼女は。
仲間とはいえ、他人のためにそこまでしてやれるものだろうか。
その行動はどこか自虐的にさえ感じる。
彼女はどうしてそこまでして楓を助けたのか。
「わからねえなあ、俺はそんなこと…………………ああ、そういえばあいつのために戦うんだったよな。人のこと言えねえや」
さすがに命は捧げられないけれど、行動理念は近いところがあるのかもしれない。
一応、自己犠牲は覚悟の上だ。
「よお、高宮」
そもそも、黒食の使用に命が使われているのだから、皆、自己犠牲は当たり前か。
それは何のためだろう。
きっと、人によって様々だ。
単純に力が欲しい者、何かを守りたい者、死人を滅ぼしたい者。
それが正義であれ、邪であれ、人が命をかけてまで欲するのだから、それは強い気持ちだ。
命と同等の、強い気持ちなのだ。
「おーい、高宮!」
俺はどうなのだろう。
楓に死んでほしくない。これは本心だ。
まだ、知り合ってそこまで経っていないけど、確かに大切な人であると断言できる。
きっと、昨日言った言葉も、勢いとか、そういうものではなくて………………。
(あ~くっそ、恥ずかしいことを大声で。俺も思い切ったことしたもんだよな)
「おい!!高宮桐人!!!」
「おわっ、なんだよ…………え?」
「久しぶりだな!元気にしてたか?この野郎って、どうしたんだその目」
「小蔵!!お前、なんで……………………この野郎はこっちの台詞だ!」
「ぐっ!?」
小蔵の顔面を殴りつける。
右の拳が痛んだ。こんなに勢い任せで殴ったのは久しぶりだ。
視界が少し歪む。目元が、熱い。
「なんなんだよ、急にいなくなって!そしたら今度は急に帰ってきてよぉ!!ふざけんなよ!!」
「な、なんだよ。そんなに怒ることないだろ?」
「怒るに決まってんだろ!……………親友、だろうが」
「………………ごめん、そうだったよな。本当に、ごめん」
ああ、情けない。
コイツが帰ってきただけでこんなに取り乱すなんて。
実は相当参っていたのかもしれない。
死人、楓の危機、小蔵の失踪、黒食の真実。
思い当たることなど数えきれない。
それでも一つだけ、戻ってきた。
今はとにかく、小蔵が戻ってきた。それだけでいい。
親友の背を叩く。
「この野郎、おかえりだよ馬鹿野郎」
「はは、ただいま」
ここから、また‘いつも’のように、俺は進んで行けるだろうか。
小蔵に見えないように溜まった涙をぬぐい、
俺は、いつものように歩きだした。
ゆっくりとした歩みで、この時間を踏みしめるように。
学校に着くと、教室には姫島さんが待ち構えていた。
実際には席に着いていつも通りだったが、そう見えた。
「おはよう、姫島さん」
「おはようございます、桐人。貴方が話しかけてくるなんて珍しいですね」
「…………………………」
「どうしましたか?」
「いや、初めて名前を呼ばれたな、と」
「ああ、そういえばそうですね。気付きませんでした」
口に手を当てて上品に振る舞う。
まあ、本質を知っている俺から見れば芝居じみている。
「その、楓のことだけど」
「ああ、聞きましたよ。どうかしましたか?」
「どうかしましたって、友達だろ?」
「そうですね、友人という関係に近いかもしれませんね。しかし桐人、貴方は勘違いをしているようですが、その友人は単なる‘友達’ではなく、‘戦友’というものです。慣れ合う関係ではないのですよ」
その瞳は何処までも冷徹だ。
この言葉が本心だ。
そう言っているのだろうが、鈍い俺はその程度では理解できない。
「何言ってんだよ。そういう区別なら、俺から見たお前らは‘親友’に見えたけどな。強がって友情を否定するのなんて、今時小学生でも出来るぞ」
「うるさいですね。客観と主観は違うでしょう。そんなこともわからないのですか?蛆虫」
「だから、俺が言いたいのはだな。少しくらい、心配してやってもいいだろってことだよ!」
そこまで言って、静寂が訪れる。
姫島さんは相変わらず冷めた目で俺を見つめる。
しかし、これで折れては男ではない。
それに、少しくらいは心配してやれ、という怒りもあった。
沈黙が続く。
―――――――――はあ
姫島さんのため息。
呆れたような、観念したような。
「楓のことについては色々と聞いています。貴方の家で療養しているのでしょう?それに、治療され、大事には至らなかったとも聞いています。ほら、どうです?貴方に訊くまでもないことです。それに、貴方がここに来ているということは楓の体調も良好なのでしょう」
ふん、と拗ねたように顔を外に向ける姫島さん。
つまりは、俺が来た時点で楓の状態は把握出来たと、そういうことか。
「そういえば、もしかして楓を一人で置いてきているんですか?」
「いや、頼もしい護衛がついているよ」
「護衛、ですか。それはどんな?」
「猫だ」
「…………………は?」
これには少し驚いた顔になる。
その後にどこかで見た、可哀そうなものを見る目で俺を見つめてきた。
「あの、これは精神科を紹介した方が?それとも脳外科?耳鼻科?」
「いや、ホントなんだよ。マジで信じてくれ」
俺は姫島さんに事の経緯をこと細かく話した。
信じてもらうために、全力で。
「なるほど、ベルフェゴールですか。それならばその眼の辻褄も合うかもしれませんね」
「へ?どういうことだ?」
「ここからは有料情報です。腎臓片方と交換で話しましょう」
「リスクが高すぎる!!」
少しずつ冗談(?)を織り交ぜながら、結局最後まで教えてくれなかった姫島さん。
少なくとも、最初の険悪な空気が和んで良かった。
小蔵が途中で混ざってくると、もうそれどころではない。
楽しい。なんだか、昨日のことも含めて、今までが夢だったかのような錯覚。
けれど、これすらも夢で、現実は今までの比ではないくらいに悪くなっているのかもしれない。
きっと、俺はそれに気付かない。
仮初めの心地よさに溺れて目を閉じて、知らぬ間に世界には俺だけが取り残されていて、
その時初めて、俺は絶望するのだ。
「昼飯にしようぜ。購買は急がねえとな」
「ああ、そうだな。じゃあ、じゃんけんで負けた方が買いに行くのでどうだ?」
「よし、のった!いくぞ?じゃ~んけ~ん……………」
長年の付き合いでコイツの行動パターンは予測できたりする。
なので、勝つのは容易だ。
悔しそうにして、叫びながら小蔵は走り去っていった。
アレならば購買の荒波に呑まれても平気だろうな、と思いつつ机でだらける。
昼相応の騒がしさが辺りを包む中、一人思いにふける。
「いつも通りだ………いつも通り」
安堵に似た気持ち。しかし、それはどこか違って、それが何か分からなくて………………もどかしい。
同じ言葉を繰り返すのは、きっと不安だから。
黒食に身を染めた俺が言うのは少し、おこがましいかもしれないけれど、
この温かさがなくなってしまうのは、正直、耐えられない。
「何をしているんですか?」
「見てわからないのか?だらけている」
「そうですか。暇人ですね」
姫島さんが隣の席に腰掛ける。
相変わらず表情の変化が少ない。落ち着いている、と言えば聞こえはいいが。
「どうしたんだよ。何か用か」
「……………黒食が使えるようになって、後悔はしていませんか」
「なんで」
「なんとなく、です。白状すると、私は最初、この力が疎ましかった。けど、戦うしかなかった。そうしないと、生き残れない」
周りの声がまるで聞こえていないかのように、姫島由利亜の独白は続けられる。
「命を削って戦う。聞こえはいいかもしれませんが、それは単なる死にたがりです。死人を消すということ。そこに何の意味があるのか、未だに私にはわかりかねます。無限に増え続ける死人を一人残らず駆逐することなんて、この星から水を消滅させることくらい不可能です」
「でも、自分のために戦ってるってことで一応納得してるんだろ?」
「ええ、そうです。無理矢理ですが。あとは…………あの娘を守りたいからでしょうか」
「あの娘?」
「なんでもありません――――――貴方がどう死のうと私の知ったことではありませんが、貴方も納得して力を使ってください。理不尽だと思うのなら、この戦いから身を引きなさい。私から言えることは、それだけです」
姫島さんは逃げるようにして教室から姿を消した。
すると、ちょうど馬鹿の顔が教室に現れる。
「遅かったな」
「無茶言うなよ、こっちだって荒波を超えてきたんだぜ?ほれ、カレーパン」
「ありがとよ」
■
親友との賭けに負けて購買へ急ぐ。
こんなシチュエーションが、懐かしい。
最近、夜が怖い。
以前見た、香織ちゃんの死に際が忘れられない。
あの場には、確かに――――――
「見つけましたよ」
「―――――――――――――っ!!」
風間兜李。
去年からこの学校に来た、いけ好かない先生だ。
その先生が俺に何の用か、それは訊くまでもない。
「貴様、まさかこんな所にいたなんて、思いもしませんでしたよ」
「ふん、昨日はどうも。風間先生」
冷静に振る舞っているつもりだろうか。
言葉の端々から怒りがにじみ出ていて、張り付いたような笑顔が逆に不自然だ。
それを俺は鼻で笑う。
「大人げないですね。一度恥をかかされたくらいで熱くなって。そんなんで教師やっていけるんですか?」
「―――っ!!まあいいでしょう。アナタのことは他の者達には黙っておいてあげます」
「そいつはどうも。ありがたいね」
「ええ、先にアナタを狩られてはたまりませんからね。アナタを殺すのは、私ですから」
殺気を隠しもしないで、俺に宣言する。
わかってないなあ。その奢りが昨日の敗因だっていうのに。
まあ、なんにしても、桐人に知らされないのはありがたい。
あいつには知られたくない。
出来れば、一生。
「楽しみにしておきますよ――――――それじゃ、俺、パン買わないといけないんで」
「……………………くくっ」
こんなヤツに関わっているよりも親友との時間が大切だ。
一年先か、それとも明日?今日かもしれない。
とにかく、あいつとの時間は、もうほんのわずかだ。
■
私は、悪魔と取引をした。
悪魔は巧妙に私を誘いこんで、見事に私の魂を奪った。
それと引き換えに得た力は強力だった。
とにかく強大だった。
私自身が悪魔になったようだった。
何も出来ないことはない。
神だって殺せる。そう思った。
だけど、なんでだろう。
自分が大切だと思ったものは――――何一つ守れなかった。
尽く、全て。完膚なきまでに。
しばらくして、そういうものなんだとわかった。
だから、
私は希望を持つことを、やめた。
「――――――はっ、はあ、は―――夢」
机で眠ってしまったようだ。
今思えば、今日一日はずっと寝ていたような気がする。
授業は知っていることばかりだ。聞いていると退屈になってしょうがない。
楓が入ると言うから、心配で入ったというのに。
何故、肝心の楓がココにいないのか。
(馬鹿ですね、本当に。守れないのは、同じだったのに)
昨日は、正直気が気ではなかった。
早く、楓の様子が知りたかった。
だから、桐人が来るのを心待ちにしていたのだ。
多少口論にはなったものの、楓の体調は無事、安定しているということで、安心した。
桐人は黒食を使えるようになった。
なんとなく、わかってはいたけれど、馬鹿だと思った。
彼は戦うのだろう。
きっと楓を守るとか、そういう理由だろうことは、彼の性格から容易に想像できる。
彼は気付いているだろうか?自分が相当なお人好しだということに。
「友情だなんて…………余計なお世話です」
「おい!姫島」
「ひゃいっ!………ああ、川島先生ですか。なんですか?」
「川崎なんだが………まあいい。どうしたんだ、今日は疲れてるのか?」
「いえ、別に」
ここにもお人好しが一人。
名前を間違えてしまうのはこの先生の特徴みたいなものだ。
別にわかりづらい名前というわけではないのだけれど。お人好しめ。
一般の人間に私の心境がわかるものか。
「そうか、居眠りなんてイメージと合わないから何かあったと思ったけど、違ったか」
「はい、何もありません。居眠りについてはすいませんでした」
簡潔に追い払う。
とにかく一人の時間を邪魔されたくない。
だというのに、担任と呼ばれるこの男は引き下がらない。
「先生がなんで先生になろうと思ったのか、聞かせてあげよう。きっと元気がでると思う」
「元気はあります。先生の時間を私ごときに使わせるのは忍びありません。結構です」
「それじゃあ、頼む。姫島、俺の話、聞いてくれるか」
「………………わかりました」
有難迷惑とはまさにこのこと。
お陰で一人の時間は、先生の独白タイムに変わってしまった。
承諾してしまった以上、聞き役は免れられない。
「先生は一度死んだんだ。もちろん、比喩表現だけどね。ありきたりな話だよ」
■
男がいた。
それはちっぽけな存在で、そのことに男は気付いていない。
女がいた。
それは男にとって大きな存在で、そのことに女は気付いていない。
悪魔がいた。
それは昔から男の中にいて、それは男の本質であった。
神がいた。
それは孤独で、まるで男のようであった。
「付き合ってください!!」
「えっと、あの、ごめんなさい」
男は女に告白した。
女はおしとやかで、美人で。
男は俗に言う不良というやつで。
当然、つり合うなどと思っていなかった男は傷つかなかった。
当然だと、納得した。
けれど、涙が出た。
帰りは泣いて帰った。
悪魔はそんな男に囁いた。
『それでいいのかよ。あの女が欲しいんだろ?』
「うるせえ、なんだか知らねえけどよ、幻聴の分際で俺に話しかけんな。殴るぞ」
『おお、怖い怖い。けど、事実だろ?俺はお前なんだから』
「欲しいとか、そんなんじゃねえんだよ。相手が好きだっていう男にならなきゃ、意味ねぇだろうが」
男は悪魔を拒んだ。
囁きに応じなかった。
その状態が何カ月か続いたある日、女がやってきた。
「あの、お昼ご飯、一緒に食べませんか?」
「お、おお。いいぜ、予定もないしな」
男は大いに喜んだ。
なにせ、以前断られた女が自分を誘ってくれたのだ。
もしかしたら、自分のことを見てくれて、いいと思ってくれたのかもしれない。
自分を認めてくれたのかもしれない。
そう思った。
悪魔を鼻で笑い、手を高々と空に掲げ、勝利の雄叫びをあげた。
それ以来、悪魔は顔を出さなかった。
「あの、少し時間をいいですか?」
「ああ、いいぞ」
男は女に告白された。
男は喜びに奮え、女は顔を赤らめた。
そこから、男の物語は動き出す。
男は女を大切にした。
女は謙虚だった。男に精いっぱい尽くしてくれた。
だから、男はそれに応えた。
学校を卒業すれば、給料の安定した職に着き、二人で頑張って生きて行こう。
子どもも二人くらいは作って、幸せな家庭を気付いて行こう。
そう思っていた。
男は、そう思っていた。
「おい、川崎の野郎はどうなんだ?順調か」
「はい…………でも、もう私は………」
「なんだよ?お前が身体売ってるってコト、学校にバラしてもいいわけ?きっと客は増えるだろうなぁ。お前はモテるしな」
「やめてっ!!……………なんでもするから」
女は貧しかった。
男は知らなかった。
彼女が自分を断った理由。
それは自分にはなかったことに。
「あの、川崎君。話があるの………………」
「ん?なんだ、どうしたんだ」
女は深刻そうな顔をして男を呼ぶ。
その表情は男の判断を裏切らず、男は、真実を知った。
男は怒らなかった。ただ、穏やかに女を慰めた。
大丈夫、今まで辛かったろう、我慢したな。
戦った戦士をたたえるように、厳かに、男は女の頭をただ一度だけ撫でた。
その日、男は人を殴った。
ただひたすらに、殴る。
女を脅した、下種を。
顔の形が変形して、血を吐いて、悲鳴をあげる。
いつしか、男の顔には笑みが浮かぶ。横では悪魔が嗤っていた。
『ほら、やっぱりこうなった』
けらけら、けらけら、けらけら、けらけら。
悪魔が嗤う。
男は、警察という正義によって、裁かれることになる。
女が説明してくれたことが良かったのか、予想よりも罪は軽く裁かれた。
「待っています」
女はそう言って、男のもとを去った。
それは、男にとって大きな力となった。
長い時間は男を疲弊させたが、
それでも、男は生き残った。
女に会うために、自分であり続けた。
そんな時、神がいた。
神は神々しくて、絶対的な存在だと思っていたけど、
彼は一人ぼっちだった。
まるで、男はそこに自身を見ているような気がして、
神に話しかけた。
「おい、何をしている」
「人間、お前は何をしている」
「俺は罪を償っている」
「そうか、私も罪を償っている」
「何の罪を償っている」
「私は人を愛した。だからココにいる。人間、お前は何の罪を償っている」
「俺は女を愛した。だからココにいる」
神は人と変わらぬ格好をしていた。
翼もなければ、神々しい輝きもない。
ただ、彼は美しい白い髪を持っていた。
それは、かろうじて残った‘彼’であって、
彼が神であるということを示す、唯一のモノであった。
「人間、私はお前が気に入った。何でも望みを叶えよう」
神はそう言って、男を助けようとした。
男は言った。
「俺は、会いたい。あの娘に、会いたい」
神は、それは出来ないと言った。
それなら、必要ないと男は言った。
男と神は毎日語らった。
不思議と、話は合った。
神と人間はわかりあえるのだな。
男は愚かにも、そんなことを思った。
「これでサヨナラだな」
男の釈放の日、神は消えていた。
男は神のいた場所に会釈をし、刑務所を後にした。
女はそこで待っていた。
けれど、女は病気を患っていた。
男を待つために身体を売るのをやめた。しかし、彼女にはお金がない。
必然的に、病は彼女を蝕んでいった。
つまり、男が力としていた言葉は、
女にとっては死に等しい言葉であって、
もう取り返しのつかないことだった。
男は頑張った。
努力した。
奮闘した。
けれど、やはり、当然。
女は息を引き取った。
後に残ったのはどうしようもない喪失感。
胸に空いたのは永遠に埋まらない空席。
しかし、
悲しいことに、
愚かしいことに。
男の力と彼女の努力。
それらは、限りなく等価であった。
男は空っぽになった。
いや、違うもので埋め尽くされていた。
虚無、倦怠、怠惰。
とにかく、男からは、やる気というものが消え失せた。
そうして、何年もの歳月が過ぎた。
■
「そして、男はどうなったと思う?」
「はあ、わかりません。そもそも、私の問題には全く関係ない話じゃないですか」
「はは、そう言うなよ――――――篠月は傷が無事、治って良かったな」
「…………………何故、貴方が知っているんですか?彼女は病欠ということになっているはずですが」
川崎先生はいつもの人の良さそうな笑みを浮かべ、私に迫る。
「簡単なコトだよ、姫島。いや、フェリッシュと言った方がいいのかな」
「――――――――――っ!!アナタは、何者ですか」
「ん、先生か?そうだな、先生は――――」
彼の姿が視界から消える。
視認できないのだから、消えたとしか言いようがない。
背後に裏拳を振り抜く―――が、その手は虚空を切った。
代わりに、私の肩にポン、と手が置かれる。
振り向いた時には、もう遅い。
「先生は………………………………悪魔だよ」
「あ、」
ぐしゃ
私の胸で、命の砕ける音が、聞こえた。
■
「なあ、お前って休んでる間、何してたんだ?」
「あ~、わかるかな。自分探しの旅ってやつ?」
「おい、そんな旅に出て、学校留年したらヤバいだろうが」
「そ、それは考えてなかったな…………………どうしよう」
放課後、俺たち以外は誰もいない屋上。
いつもより幾分か日が短くなってきたような気がする。
他愛もない話、いや、小蔵にとっては死活問題かもしれないけれど。
しかし、これはこれで学生らしい会話とも取れないだろうか。
少なくとも、人が簡単に死ぬような、人の命が羽のように軽い、アノ戦場よりは。
それにしても、本当に何事もなかったように会話しているが、なんだか、腹立たしいな。
「おい、どんな旅だったんだよ?」
「え……………………ああ、まあ、そんな遠くまで行かなかったし、そんな面白い話でもねえよ」
「いいから聞かせろって」
「だから、何でもねえって。また、あの怪談みたくつまんねぇから」
あの怪談というのは、「黒い天使」のことか。
正直、アレは実在したのだから、話自体はつまらなくはない。
コイツはつまらないけど。
「…………………小蔵。そういえば、あの噂、誰から聞いたんだ?」
「え?ああ、あれは………………………友達が噂してたんだ」
「そうか、わかった。まあ、お前のことだからどうせナンパして聞いたんだろう」
「それは違うぞ」
小蔵は耳たぶをもむ。
コイツ、嘘をついている。
何回言わせれば気が済むのか。
俺と小蔵は親友で、お互いの癖は把握できている。
だから、それでなくともわかり易い小蔵の嘘など、見抜けないはずがない。
けれど、俺にはそれを問いただすことが出来なかった。
それを訊くのはまずい気がした。
まるで、今にも崩れそうなパズルのピースを、無理矢理引きぬくような、そんな気がしてならなかったのだ。
そして、そのピースに入る文字は…………。
「もう、俺に何も言わないでどっか行くの、やめてくれないか」
「そうだな~努力はするけど、もしかしたら無理かもしれない」
「………そうか」
「ごめんな」
「別に。皆で何処か行こうぜってなった時に、お前がいないのは可哀そうかと思ってよ」
「ああ、それは困るな」
なんとなく、わかってはいるのだ。
夢と同じく、この時間は一瞬だということ。
日常に戻ったようだ、なんて甘いこと言って、小蔵を追い詰める自分。
一寸先は闇、とはよく言ったものだが、
俺の目の前の闇の名前は、自分の「わがまま」というものだった。
真実も告げないで、何も知らない小蔵に、ここにいろ、などと。
「どうしても、駄目か」
「それはわからない」
「……………香織さんのことか」
「それだけじゃない。俺からも、一つ、聞いていいか」
来た。
なにが?
決まっている。
香織さんの、死に際について。
あの日、小蔵が見たモノについて。
俺が、間接的に香織さんを殺したことについて。
そうに決まっている。
それなのに、小蔵の口から出た言葉は俺を責める言葉ではなかった。
「高宮。俺は何を隠していると思う」
「………なんのことだよ」
「わかってるんだろ?長い付き合いだ、お前が俺の嘘を見抜いていることくらい気付いてる」
親友だしな、と付け加えて、小蔵は疲れたように笑った。
その顔は俺が見たことのある小蔵の顔ではなかった。
一瞬、最近は毎日のように見ている、忌まわしいヤツらの顔にだぶる。
昨日、楓を嬲り殺そうとした、死人が思い出される。
どうしてだ。
どうしてだ。
どうしてだ。
何故、左目が疼く。
「俺、さ。ちょっと大変なことに巻き込まれてるんだよ」
疼く。
「香織ちゃんの転校にも関係してるかもしれない」
うずく。
「それって、結構危ないことなんだけどさ。すげぇんだぜ?俺、戦ってるんだよ」
ウズク。
「だから、その原因を突き止めるまでやめられない。けど、死んだりしない。絶対に……」
「もう、やめてくれ。たくさんだ」
「え………高宮?」
何を言っているんだ、コイツは。
その言葉は、
戦うという言葉は、
死なないという言葉は、俺が言うべき言葉なのに。
なんで、お前の口から、出てくるんだ。
それは一番口にしてはいけない言葉だろうが―――――――!!
「小蔵、お前は何をしているんだ。頼む。答えてくれ」
「ごめん。それは教えられ」
「答えろっ!!」
「ど、どうしたんだ高宮。いきなり怒鳴るなんて、らしくないぞ」
唇が震えて上手く声が出ない。
パズルが崩れる。
けど、聞きださなきゃならない。
ここで聞けなければ、俺は一生後悔するような、そんな気がする。
「なあ、何をやってるんだ」
「教えられないんだ」
「なんでだよっ!!」
「――――――――――――それは高宮が一番よく知っているんじゃないのか?」
背筋をなぞり上げる悪寒。
俺たち以外の声。
よく知った声。
忘れるわけがない。声の主は俺のクラスでは担任と呼ばれる人物だ。
名前を間違えられやすくて、風間先生とは違う人気と人徳があって。
しかし、
それにしては、その人にしては、
その声は人間味に欠けていた。機械や人形のような、無機質な声。
「こんにちは、川崎先生」
「ああ、こんにちは。お前は姫島のように間違えないんだな」
「姫島さん?――――――あんた、知ってるのか」
「さあ?どうだろうな」
温和な表情を崩さない。
しかし、その目は笑っていない。
この人は――――――――――危ない。
逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ――――!!
狂いだしそうなほどに、脳が直感を告げる。
それに反して身体は動かない。
まるで、最初からそうだったかのように、地面からピクリとも動かない。
「そんな怖い顔をしなくてもいいだろうに。怖いのはこちらも同じだよ。その眼に見られていると、全てを見透かされそうだ」
「お、おい、さっきから何話してるんだよ高宮、それに先生も」
「南原、先に帰っていろ。俺は高宮と話がある」
「でも、」
「くどいぞ」
その威圧に満ちた言葉はやすやすと小蔵を追い払った。
小蔵が扉を閉め、ガシャン、と重い鉄の音がした。
静寂。
先生はもう、隠す気はないようだ。
いつもの温和な顔は崩れ、いや、消えたという方が正確かもしれない。
とにかく、先生の顔には、表情というものがなかった。
「さて、高宮。二人だけだな」
「そうだな――――単刀直入に訊く。あんた、組織の人間か」
「組織?何のことやら」
「とぼけんじゃねえぞ!小蔵を巻き込みやがって!!」
「それは彼が望んだことだ。本当に組織とやらについては知らない」
川崎先生は悪びれもせずそれに答える。
何かの問題に答える教師のように、ただただ、答える。
そこには、人の意思が存在していない、そんな錯覚すら覚える。
「ただ、これだけは言えるのではないかな。昨日、あの倉庫街にいて、‘悪魔’を駆逐しようとした者達が君の言う組織ならば、俺たちはその対極に位置する」
「なんだと?」
悪魔は死人のことだろうか。呼び方が違うのか?
それに、対極に位置するということは、‘敵’ということなんだろうか。
ということは―――――!!
「昨日、黒食を使う死人が出たって話だけど、それはアンタなのか」
「黒食?死人?それはConfuse Blackと悪魔のことか。なるほど―――――――――――その通り。俺ではないが、仲間の一人がやったモノで間違いないだろう」
「へえ、じゃあ、アンタらは楓を傷つけたヤツラで間違いないんだな?」
「仲間か?お前の仲間ならば我らの敵だ。衝突するのはわかりきったことだろう。そして、今の状況もまた然りだ」
眼が熱い。
どくん、どくん、どくん、どくん、どくん、どくん、どくん、どくん、どくん、どくん
心拍数が上がる。
怖い。俺は恐れている。
重い。肉の塊は鬱陶しい。
熱い。左目は胎動を繰り返す。
壊れてしまいそうだ。頭が痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
あ、
気付いてしまった。
彼が敵、だということ。
彼の発言の中に彼女の名前が出てきたということ。
それは――――――――――
「これから、俺を殺すのか」
「そのつもりだ。生かしておくメリットがない」
「じゃあ、訊くけどよ―――――――姫島さん、どうした」
「もちろん、殺したが。何か、問題があるか?」
その時、俺の中で何かが弾けた。
頭が痛む。
怖い怖い怖い
世界の色が反転する。
怖い怖い怖い
大気の流れが見える。
怖い怖い怖い
口が勝手に動く。
怖い怖い怖い
ああ、――――――してしまう。
『我は見下す。愛欲、暴食、強欲、怠惰、憤怒、嫉妬、高慢。罪に溺れる愚か者。光に身を寄せる者に希望はなく、身を滅ぼす者に手向けは存在しない。さあ、落ちよ。深淵よりも深く、黒に染まれ』
わけのわからない、呪文めいた言葉が口をついて出る。
ぞわりと全身を駆け巡る力の奔流。
昨日と同じ、痛みを伴うような錯覚。
そして、
「お前、何故、力が使えている?閻の働く時間帯は決まっているはずだが」
「くく、さあな。俺にもわからないよ。何分、初心者なものでね」
わからない、わからないけど
「―――――――――さあ、始めようか。ゴミ掃除の時間だ」
俺を支配していたのは、
妙な高揚感と、
凄まじい殺意。
そして、
病的な、楽しさだった。
俺は、きっと、コイツを、殺してしまう。
久しぶりになりました。
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