第8話 忘却再生
ざあ、と不吉な風がアパートの中へ入り込み、夏の生温かい風が硬直する俺の頬を優しく撫でた。
じわりと不安が胸に滲む。こびりついて、俺の思考を支配する。
汗が頬を伝う。それとは逆に、口は冬の寒さに凍えたように動きが鈍い。
冗談だと言い聞かせても、どれだけ思い込んでも、口は思うように動こうとしない。
「な、なに言ってんだよ、姫島さん。俺が楓を殺さなきゃいけない理由を教えてくれ」
「答えなさい、殺せますか」
姫島さんが向ける瞳は、至って真面目なものだった。無表情に、無感情に。ただ真実を告げるだけ。
冗談だ。冗談だ。冗談だ。そんな言葉を小声で繰り返す。
しかし、自然と俺の心臓は鼓動を速める。嫌な予感がするのだ。俺は答えるしかない。彼女と向き合う以外に選択肢は残されていない。その先にあるのが、最悪の展開でも。
歯を食いしばり、姫島さんに答える。
「無理だ、絶対に殺さない。他のヤツが殺そうとすれば、俺は全力でそいつを阻止するだろうさ」
「そうですか………」
姫島さんは少しだけほっとしたような表情を見せた。しかし、すぐに真顔に戻り、俺を見る。彼女の金髪がさらりと風になびいた。
姫島さんは少し躊躇するように口を開く。俺の喉から、ごくり、と音が聞こえた。
「なら、彼女には会わないことです」
「なんでだよ」
「貴方は殺さないのでしょう?なら、会うことはできません」
「だからそれと何の関係があるんだよ!」
少しずつ苛立ち始めた俺と静かに佇む姫島さん。ちょうど、雲に月が隠れて唯一と言っていい明りが消える。別に明かりをつければいい。そう思ったが、俺の身体はその場所を離れようとしなかった。姫島さんから視線を切ることが出来なかった。
「桐人、今は話せません。まだ、貴方に話す段階ではないからです。歯がゆいのはわかります。しかし、耐えてください」
「意味がわからねぇ………!そんなんじゃ諦め切れねぇな」
「絶対に聞く、と?」
「ああ、そうさせてもらう。さっきから要領を得ないんだよ。姫島さんらしくもない」
「そうですか………思ったよりも、貴方には楓が深く根付いているようですね」
「そうなのかもな」
沈黙が流れる。変わらず無表情な姫島さんからは何も読み取ることが出来ない。
楓に会えない。そのことによる落胆が大きいに違いない。俺は熱くなっているにも関わらず、心は完全に冷え切っていた。
眼の封印をひも解く。姫島さんに気付かれないように、瞬きの間に。瞬間、ベルフェゴールが小さく呻いたような声をあげたが、姫島さんは気付いていないようだ。
集中する。普段は決して見えないモノが、認識しえない膨大な情報が俺になだれ込む。
余分な情報はいらない。欲しいのは姫島さんの状態に関係するモノ。心音、呼吸、微かな表情の動き。どんなことでもいい。
こんな事、認めるわけにはいかない。姫島さんが、友人である楓を殺せるか、なんて。そんな言葉は、きっと嘘だ。
「貴方は、絶対に知りたい。けれど、楓は殺したくない。そうなんですね」
「ああ、そうだ。それがベストだろ?」
「……………仕方、ないですか」
「?」
姫島さんはうつむく。何やらぼそぼそと呟きが聞こえる。眼からは波として伝わってくるため、その内容が明確に読み取れる。
自然と俺の意識はそちらに持っていかれる。
『私は神を否定する。彼の理を捻じ曲げ、これを成す』
それは、俺やアスタロトが口にしていた言葉に雰囲気が似ているように感じる。目の前で喋っているはずなのに、何処か遠くから聞こえて、脳に直接響くような不思議な――――その時、悪寒が走る。
ちょうど、雲隠れした月が顔を見せ、姫島さんを鮮明に映し出す。金の髪が、光の束のように見えた。
「convert」
ハッキリと言葉が聞こえた、瞬間。姫島さんが俺との距離を詰める。素早い踏み込み。視認は出来ても反応は不可能。俺は座った状態なのだから、当たり前と言えば当たり前だ。そのまま、姫島さんの小さな手が俺の頭を鷲掴みにした。
デジャヴ。
こんな細腕のどこにそんな力があるのかと言うほどの握力。逃れることは出来そうにない。姫島さんは俺が動くたびに指を食い込ませるように力を込めた。ミシ、と骨の軋む音が身体に響く。
情けないうめき声が漏れる。
「こ、これは……どういう……」
「貴方の答えの、結果ですよ」
指で視界が分断され、白黒の世界が左側にだけ広がる。身がこわばる。
姫島さんを取り巻くどす黒い閻。冷やかな彼女の手を伝って俺の身体までまつわりつく黒。振り払おうともがくが、不思議な事に腕に力が入らない。
「何をする……つもり」
「私は情報専門。それは前に言いましたよね」
いつもと雰囲気が違う。冷酷な視線は死人ですら殺せそうなほどだ。恐ろしい。
声音は低い。彼女の喉から絞り出すような、無理矢理作られたような声だ。一つ、歯ぎしりが聞こえた。それは、どちらのものだったのか。
「記憶も、情報の一つですよ。桐人」
「まっ―――!」
「convert」
言葉。脳を揺さぶられるような感覚。その直後に視界が急激に暗くなる。削られていく。書き換えられていく。そして、何かが割れる音。
崩落する意識では何が起こっているのか、理解が追いつかない。
俺はいつかの暗闇を見た。黒の部屋と白の部屋。しかし、前と違ったのは、白い俺がいなかった事。
落ちて行く景色の中、闇の空には輝きのない、暗い月が浮かんでいた。
■
私は倒れた桐人を見下ろす。いつも通りの無表情、のハズ。私は感情が死んでいる。元より身体の構造がそうなっている。しかし、楓と出会ってからというもの、何かがおかしい。
この私が、悲しいと感じたり、楽しいと感じたり、辛いと感じたり。そんなあり得ないことが私に怒っている。
それはきっと彼女の前でだけなのだろうと思っていた。しかし、そうではない。それ以外の場面でも、私の中で感情は生まれた。意志とは関係なく、ただ強引に、私の中から這い出てきたのだ。
それは、私が人間に近付いているということ。知らず、自分はそれを望んでいるということ。
でも、それは叶わない。この力を使い続ける限り、私が人になるなんて、夢物語だ。
私は悪魔だ。誰よりも非情に、冷酷であらなければ意味がない。
楓の事は私が解決する。こうして、桐人の記憶を奪ったとして、私の心は痛まない………。
「それでよかったのか」
びくりと反射的に声の方へ目を向ける。しかし、そこには真っ暗な闇が広がっているだけだ。どうやら、よほど気が立っているらしい。
ふと、先ほど桐人を掴んでいた手を見る。そこには無様に震える、細い無力な少女の腕があった。
「なんで……!」
自分の腕を力任せに握り締める。こんな情けなく震えているのは私ではないのだ。いつだって私は気丈でいなければいけない。
そもそも、こんなことで罪悪感など覚えてはいけない。
爪が食い込むほど強く。桐人を掴みあげた時よりも強く………。
ギリッ
それが自分の歯ぎしりの音だと気付いたのは、口に鉄の味が広がってからだった。どうやら、肉まで噛んでしまったようだ。
ふがいない。でも、感情は表面に出ることはない。私はそういう生き物だから。
ふう、と息を吐き出し、自問自答を始める。
「私は……これで良かったはず。これが最善だった。これが数ある選択肢の中で最も適切な判断だった。そう、でしょう?」
感情は浮かんでこないはずなのに。何も感じはしないハズなのに。何故、こんなにも落ち着かない?自分は最善の選択をした。きっとそう。自分における、最善の。
「私は最善を、尽くした………」
「なのに、苛々するかね?」
「……っ!?」
今度はより鮮明に、自分とさほど離れていない位置から声が聞こえる。しわがれた男の声。私は困惑した。精神状態が穏やかな状態だったなら冷静に対処できたのだろう。
私は息を殺し、周囲を見渡した。よく見ると、暗闇の中に黒く、蠢くものがあった―――猫だ。真黒な猫が私に向かって歩いてきている。
学校での桐人の言葉を思い出す。人語を話す、悪魔の名を持つ猫の話。
「貴方が、ベルフェゴールですか」
「ほう、この姿でも動じないとは。中々賢しい人間もいたものだな」
「話は聞いていますからね」
冷静に返す。心は揺れ動かない。異常は毎日経験して慣れている。自分に害を成さないモノなら、恐れるに値しない。
今更猫が喋ったところで、どうと言うことはないのだ。
それに確信があった。桐人の話を聞いた時から、それは存在しているのだと。
彼からその話を聞いたのは、楓が倒れたあの夜。全てが動き始めたあの夜。
「貴方が、狂わせたんですね」
「狂わせた?それは心外だ。元々、この男は狂わせるために生まれた存在だ。そして、俺は約束を果たしに来ただけだ。初めからこうなる予定だったのだ」
「予定、約束。曖昧ですね。貴方は何者ですか。いや、桐人は何のために生まれたんです?」
「狂わせるため。それ以外は話せないな。本来なら……まあ、君に話すことはもう何もない」
「そうですか。それでは仕方がないですね。どちらにせよ、桐人は楓の事を思い出すことは出来なくなったわけですから、これでなんの危惧もなくなったわけですが」
黒猫は目を細めて私を睨む。そして、人のようにニヤリと口角を釣り上げ、笑う。
「なるほど、記憶の改変か。面白い。黒食というのは何でも出来るんだな」
「何でもは出来ませんよ。命のある限りです。私は情報の改変、つまり世界の理を曲げる力です。影響力の強い黒食は多くの閻を消費する。だから、私はそのうち消える」
そう、消える。それは死ではなく消滅。死体である肉の塊が残るわけでもなく、跡形もなく消える。魂すら残らない。
力を使うたびに私は人間らしさを失っていく。
体温や言葉などがそうだ。私に元から感情というものはなかったはずだが、それも薄れてきている。
「そうだな。それが黒食だ。堕天使が与えた、出来損ないの力だ」
「堕天使………楓から聞いた言葉の中にありました。何が起こっているんです?」
「今は、教えられない。いずれ時が来る。そして、それは近い」
黒猫は目の前で倒れる桐人を見下ろす。
――――不気味だった。恐れることはなくとも、おぞましい。死人に感じるものとは違う、なにか。
「彼の出会いは短く、美しい。彼の周りに人は存在できない。そういう、運命だ」
猫は私の質問に曖昧に答えるだけだった。恐らく、舐められている。
黄金の右目がギラリと輝く。見透かされている。感情も、思考も、もしかすると、私の未来さえ。
「くく、君は、あとどれくらいで消えてしまうのかな」
「私はまだ消えませんよ。せめて、貴方がたの事情を知るまでは」
「そうかね?ならば、精々生きよ、出来損ないの人の子よ。神と堕天使、そして悪魔に。刃向かって見せるのだ。まあ、無駄なことかもしれないがね」
「まったく、喋る気はないのに気になる言葉ばかり言うんですね」
私は部屋に踵を返す。黒猫の気配が私の後ろから動かない。
私は………この感覚を以前にも体験している?
猫の気配は濃厚で、空気が液状になったように背中にのしかかってくる感じだった。――これは恐れか。
最初に既に感じていた妙な気配。初めは桐人の例の‘眼’の放つものだと思った。事実、似たようなものは感じた。しかし、この猫に会って確信した。
正にあれは――――――――。
考えるのを放棄し、私は逃げるように、アパートのドアを閉めた。
■
失敗した。殺せなかった。負けたのだ。役立たずめ!
命令を守らないからだ。やはり、力を与えても人間は人間に過ぎないのだろうか。私は使えるようなヤツがいれば連れてこい、と命令した。あの場所は必要のない場所だったからだ。
意思のある悪魔は少ない。明確な欲望を持つものが少ないからだ。しかし、その欲が暴走するというのも困りものだ。
「どうした、ルキフェル。苛立っているな」
背後から人間の声。私はこの世界に下りて、一人だけ人間を認めた。
カワサキ。異質なまでに無感情な、人形のような人間。
「どうもしない。アスタロトが暴走しただけだ。学習したぞ。ヤツ等の中に欲の鍵がある」
「ふむ、俺が潰しても問題はないが、ルキフェルよ。お前には手下が足りない。俺を含め、四人ではな」
「三人だ。カワサキ、お前は私と同じ立ち位置にいるのだ。お前は悪魔ではない」
カワサキは私と同じ位置にいる人間だ。私の目論見を聞いて、賛同した人間だ。
本当に彼が人間であることが惜しい。同じ堕天使であったならばより深く、理解し合えただろうに。いや、そうであったならこの関係は成り立たなかったのか。
「それでは、俺はアスタロトの様子を見てくるとしよう」
「まあ待て。お前はここに来ることが少ない。もう少し話してもよかろう?」
「話があるようにも思えないが」
「ある。神の動向についてだ」
「聞こう」
私はカワサキを引き寄せる。
私の前には沢山の書物が広がっている。その全てが反逆の方法。
カワサキには何度も話した。彼は的確に意見を述べる。私の計画について、人間としての視点を与えてくれる。
「神は使いを送っていた。それは前に話したな」
「ああ、わかっている。それがどうかしたか」
「正体がわかった。驚いたよ。まさか、あんな少女が天使だったとはな」
「少女………なるほど、彼女か」
「心当たりがあるようだな」
「ああ、その件は任せておけ。それではな」
そう言うとカワサキは背を向けて遠ざかる。私としてはもう少し話していたいところだが、彼には彼の仕事があるのだ。私にもあるように。
私は目の前にある一枚の資料を手に取る。思わず笑みがこぼれる。
「くく、今に見ていろ。貴様等の破滅は目の前だ」
■
「彼は君と血が繋がっている」
そう繰夜から告げられたのは彼が運ばれてきた直後。どうして繰夜が知っているのか、そもそも私に兄弟がいたのか。
私の過去というものはどうにも曖昧で、気付いたら孤児院だった、という感じなのだ。
色々な思考がごちゃごちゃに混ざり合って、結局今も言いだせないままだ。
あなたは私の兄妹です、と。
繰夜が言っただけなので信憑性は薄いのだが、初めて会った時の違和感。それがなんとも引っかかって、一応言ってみるだけ言ってみよう、という結論に至った。
私は皆の間では人見知りで通っている、ハズなのだが、それ故に特定の個人に興味を持つというのは周りから見ればそれは奇妙に思うわけで。
「どうしようかなぁ。とりあえず作戦は終了したんだし、暇は持て余している。じっとしていても仕方ない、けど………あああああ!嫌だなぁ、もう」
こうしてうじうじと部屋のベッドで作戦を練ったりしているわけだ。下着姿だったりするので、一人であることは言うまでもない。
別に異性に告白するわけでも、いや、一応は告白だけれど、恋愛という目的でない以上、緊張なんてあり得ない、なんて思っていたが、これが思っていた以上にキツイ。
今まで必要以上に人と接してこなかったのが災いしたのかもしれない。この期に直してしまおうかと本気で考えてみる。
「どうしよう、第一声でお兄ちゃん、はキツイかな。私のイメージなら兄さん、って感じ?あれ、そもそも私が姉だったりするのかな。というか血が繋がっているってだけで兄妹とは限らないし、お父さん、とか………それはないわね」
もう、ごっちゃだ。混乱の極致。いっそのこと、誰かに笑って欲しかった。もしかしたら、怒った勢いでそのまま言えてしまったりするかもしれないし。
辛い。呼吸が苦しい。これまで、生涯でここまで苦悩したことはない。
私は重い空気を吐き出すように深くため息をつく――――はぁ。
手で顔を覆い、簡易な暗闇を作り、身体を丸める。
「行動が大事………かなぁ?」
誰にでもなく問う。多分、先ほど出会った黒猫を思い出して。
きつけに頬を張り、コートを羽織る。鴉の羽のような黒が私を温かく包む――いや、暑い。
「ああ、もう!行きゃあいいんでしょ行きゃあ!」
「どうしたんだい?随分意気込んでいるねぇ」
「うぇああああ!?」
ドアが開いていた。
のんびりとした口調、柴さんがその隙間から覗いていた。
「いいい、いつ、いついつ、いつ?」
「え?ああ、ついさっきだよ」
「あ、……そうですか」
「下着姿でゴロゴロしている辺りからだよ」
「全部じゃないですかぁあああああああああっ!!」
その場に崩れ落ちる。下着姿を男性に見られただけでなく、その、素の部分まで……。恥ずかしすぎる。
頭を抱え、柴さんとは顔を合わせないようにする。
顔が熱い。決して夏の熱気のせいではない。
「あ~大丈夫だよ。ほら、僕って………忘れやすい……っぽいし?」
「曖昧すぎます!」
「はは、ほら、行くんでしょ?急ぎなよ」
そう言うと柴さんは部屋のドアを大きく開けた。同じ室内だというのに、部屋の中と違って、廊下はひんやりとしていた。火照った顔に気持ちいい。
呆けていると、柴さんは困ったように私を眺めた。
「なんというか、君はクール気取りのおてんば娘って感じだね」
「………うるさいです。もう知りません!」
軽口に答えながら、私は柴さんの脇を全速力で走り―――抜けようとして立ち止まる。
立ち止まった後、華麗にターンを決め、柴さんに向かって指を突き出す。
「今見たこと聞いたことは忘れてください!」
「はいはい。行った行った~」
「~~~~~っ、じゃあ、行ってきます!」
少しでも早く一人になりたくて、私は走った。人と話すのは苦手だ。
ふと、廃ビルで出会った喋る黒猫を思い出す。気が付いた時には既にいなくなっていたが、今では夢だったのではないかとすら思う。
人でないにしろ、話すのは同じ。話し下手な私がまともに会話なんて出来るわけがないのだから。それは猫でも人でも関係ない、ハズ。
走る。とにかく、一人になれる所へ。
とりあえず、外に出るのが定石ではないだろうか。広いところなら幾分か落ち付けるかもしれない。
「あら、あなた」
小走りでやり過ごそうとしたが、どうやら無理のようだ。曲がり角に突然人がいるなんて聞いていない。心の中で舌打ちをする。
「な、なんでしょう」
「いや、ただ見ない顔だと思ってね。名前は?」
「…………桐葉です」
「そう」
黒髪、まあ、私も周囲も大体が黒髪であることには違いないけれど、目の前の女性はとても黒髪が似合う女性だった。年は私よりも年上に見えなくもない。喋り方が大人びているせいだろうか。
とにかく、一言で言うのならば彼女は美人だった。女の私から見ても。
袖のない黒のコート。形状は多少違えど、私たちと同じ。
「じゃあ、私は急ぎますので」
「あ、ちょっと待って」
振り切って逃げる作戦、失敗。仕方なく黒髪の女性に向き直る。
にこにこと笑って私を呼びとめた彼女は、言っては悪いのかもしれないが、なんというか、油断ならない感じがした。私が男だったら、尻に敷かれてしまいそうな。
「な、なんでしょう」
自然と私の声はうわずる。ただでさえ喋り慣れていないのにこれはハードルが高い。蛇に睨まれた蛙。うん、実に的を射ている。
というか、私はさっきの言葉を繰り返しただけだった。
「私の名前、言ってなかったでしょう?」
「はあ、そうですね」
「私ね、篠月楓っていうの。よろしくね、桐葉ちゃん」
そう言うと黒髪の女性はさっさと歩いて私の視界から姿を消した。
私は嵐が再来しないうちに外へ出てしまおうと駆けだした。
■
思考が混濁している。ここは何処だ?嗅いだ事のある埃とカビの匂い。廃墟のような、コンクリの壁。ぼんやりと視界に映る、見たことのある顔。にやにやと下卑た笑いを浮かべながら私を見下ろす―――――。
そこで一気に意識がクリアになり、身を素早く起こす。
「メフィスト!何故貴様がここにいる!」
「んにゃ、お目覚めかい。可愛い寝顔だったのに。ひひっ」
妙な笑い方をして、私から軽やかに離れる両耳のないスキンヘッドの男。その風貌はマネキンと間違えてしまいそうでもある。スキンヘッドには何やら文字がびっしりと書かれている。私にはそれは解読できないが。
私はこの男が、心の底から嫌いだった。
「ふざけるな、真面目に答えろ下種」
「ひひっ、こえぇ。しっかしよぉ、命の恩人にその態度はねぇんじゃねぇの?」
「命の恩人だと?いつ私が助けっ………!」
頭の奥を握られたような鈍い痛みと共に、ようやくクリアになった脳に記憶が鮮明になだれ込む。
命令以上の行動、つまり敵方への襲撃をした自分。本格的に戦ったにも関わらず、結果的に悪魔化しても勝つことが出来なかった自分。惨めに木に張り付けにされ、目の前の男によって助けられた、認めたくない、現実。
頭を押さえる。徐々に脳が押し潰されていくようだ。歯を食いしばっても堪え切れない。身体の芯が震える。頭皮に爪が食い込み、血が一筋、私の頬を伝った。
「あ、ああ、あああああああああああ!!!」
「ひひっ、いいねぇ。強気な女が絶望する姿ってのは、そそるねぇ」
メフィストがずるりと爬虫類のような長い舌をのぞかせる。実に不愉快だった。
私のこの態度はこの男にとってさぞかし滑稽なのだろう。しかし、抑えられない。指は更に頭に食い込み、ぬるりと体液が指に絡みついた。
声は自ら止めることが出来ない。命を吐き出すような絶叫。メフィストはそれを見て、げらげらと下品に笑う。
「ひひ、俺に助けられたのがそんなに嫌だったのか?傷つくってもんだぜぇ」
「当たり前だ!貴様のような下種に借りを作るなど………!」
「そぉんなに睨むなよぉ!俺だって暇じゃあねぇんだ。こちとら邪魔されて迷惑だぜぇ」
メフィストは私へ顔を寄せる。今にも触れそうな距離。かかる息は腐乱臭に近い匂いがした。吐き気が込み上げる。
「主様の命令じゃなきゃあ、んな面倒な事するわけねぇ」
「命令……それは、あのことが主に知られていたということか」
「おお、そうみたいだなぁ。ひひっ」
何故、主に事が知れた?主とて世界全てを見渡す目を持っているわけではないだろう。そのための我々だ。主はその情報から色々な事を分析し、私たちに指令を下す。
それでは………?
そこで、思い至る。あの場には、もう一人私と同じ者がいたことを。
拳を握りしめ、自分の寝ているコンクリの床を殴る。何度も、何度も、何度も。
「どうしたどうしたぁ?綺麗なおててが汚れちまうぞ?」
「くそっ………メフィスト、ベリアルは何処にいる」
「べりあるぅ?だれだそりゃ」
「新しく入れた悪魔だ!見慣れない顔は見なかったか」
「さあな、知らねぇよ」
つまらなさそうに口をもごもごと動かすメフィスト。どうやら、本当に知らないようだった。
苛立ちでもう一度、地面を殴りつける。その痛みを励みに、未だ鈍痛の残る身体を起こし、立ち上がる。
「おい、どこ行くんだよ」
「決まっている。疑問の解決だ。もっとも、結論は出ているようなものだが」
速足にその空間を立ち去る。
ベリアルを早く見つけ出すということ以前に、この男といるとどうにも心穏やかではない。
「それではな、メフィスト。出来るだけ顔は見せるな。殺されたくなければな」
「おいおい……………お、おお!そうだ。カワサキの旦那がお前を探してたぜぇ?」
妙にうわずった声でメフィストが私を呼びとめる。不愉快ながら振り向く。
しかし、決してこの男が呼びとめたからではない。
―――――カワサキ。
その名前が出たからだ。
カワサキはメフィストが苦手とする唯一の人物で、私も少しだけ苦手意識を持っていた。
主が妙に気に入っているということもそうだが、何より、雰囲気が異質だ。不気味なのだ。同じ悪魔である私から見ても。
「で、そのカワサキがどこにいると?」
「正確な位置なんてわからないのはお前がよく知ってるだろぉ?なんてったってここでは場所に決まった名前なんて付いてねぇんだから」
「大まかでいい」
「って言われてもなぁ、そうだなぁ……主の間の近くかねぇ」
「十分だ。それでは、二度と顔を見ないことを祈る」
今度こそその空間を抜け出す。背後で何やら呼ばれたような気はしたが、例え重要な情報があったとしても、あの男から聞くのだけはプライドが許さない。
濁った空気が私の身体にまとわりつく。最初こそ嫌悪はあったが、今ではそこまで気にならない。慣れとは恐ろしいものだ。
角を曲がる。この建物を明るみで見たことはないが、意外と複雑なのではないかと思う。覚えられなければ歩くのすら困難な道だ。
幾度か角を折れ曲がり、広い空間を超え、更に広い空間に辿りつく。
――――主の間だ。
耳を潜める。――――――――ざり。
足音が遠くから聞こえる。それは徐々に私へ近づいてくる。
「カワサキ、何の用だ」
反応はない。ただ暗闇、音のする方へ声をかける。
「例の失敗の事だろう?」
「失敗?」
予想より少し遠くで声が聞こえる。暗闇をじっと見つめていると、黒い影が姿を現す。
影、と言うより、衣服が黒いせいで闇に融け込んでいるだけなのだが、まあ、普段から影のような男であることには変わりない。
「そうだ………私が、運ばれた原因。失敗と言う以外に」
「愚行」
私の言葉を遮るように短く、低い声で告げる。
ずしりと重圧感すら感じる。視界が揺れる。
「愚行……?」
「主の命に逆らい、敵に対峙した結果、返り討ちにあった。それは愚行以外の何物でもない。失敗と言うのは定められた目的に対し、望む結果が得られなかった場合に使う言語ではないのかな。勝手に響きの良い言葉に置き換えるのは頂けない」
「しかしっ!………しかし……」
言葉が出てこない。カワサキの言うとおりだった。歯を噛み締める。
今更ながら、あの時、衝動的にヤツ等を消してしまおうとした自分がなんと愚かだったのだろうと思い知らされる。
何も、言い返せない。
「………しかし……」
「……わかっている。お前の行動の原因はな。お前は普段冷静だ。だからこそ、今回は明確だった」
「原因……何を言っている」
「お前が力を与えられる前だった頃の、因縁というやつだ」
瞬時に思い出されるのは自分と同じ、銀の髪を持った青年。へらへらとしていて、無性に腹の立つ敵。しかし、何か懐かしいような、そんな感覚が残る、人間。
何故、こんなにも心揺さぶられるのか。
「欲の制御というのも難しいものだな」
「どういうことだ?まさかヤツが私の欲の元だと……!」
カワサキは何も言わない。しかし、わかる。あれは肯定だ。それならば、態度の柔らかさも頷ける。欲に負けたのなら仕方がない、と言っているのだ。
拳を握りしめる。床を殴った時の傷が引き伸ばされ、そこから地面に赤いしずくがポタリと落ちた。
これは同情だ。情けをかけられている。ふざけるな――――!
「カワサキ、ベリアルは何処だ!」
「ベリアル、か。ヤツが来なければお前は消滅していたな」
「何処だと聞いている!」
「さてな、それはわかりかねる。俺とてお前たちの全ての動きを把握しているわけではない」
知らない、か。恐らく本当の事なのだろう。この男は嘘を言わない。
自力で探すしかない、ということか。まあ、いい。
「話は終わりでいいな。私はヤツを探さねばならん」
「………やり過ぎるな」
手加減をしろ。彼においてはらしくない言葉。新人だということもあるのだろう。
しかし、関係ない。新人だからこそ厳しく指導するのが常というものだ。立てなくなるくらいまで、痛めつけてやらなければ。
口の端からは、自分のものとは思えないほど低い笑い声が漏れた。
■
アスタロトが離れて行くのを無言で見送る。別段止めるような事柄でもない。ルキフェルに直接関係しないならば、身内間の事だろうと自分には関係がない。
組織立って動くには確かに問題はあるが…………。
アスタロトの歩いて来た方向からもう一つ影がゆれる。髪のない頭に、下品な笑み。
「ひひっ、随分と甘いんじゃあねえのか?カワサキの旦那」
「彼女の事は彼女に任せればいい。あの新人を殺そうが生かそうが俺の関与するところではない」
「冷たいねぇ……」
ギラリとメフィストの目が光る。ボロボロに崩れた彼の衣服からはらりと布切れが落ちる。
へらへらと笑う口元からは唾液が垂れる。しかしこの男、隙は全くと言っていいほど存在しない。その態度も、敵の油断を誘うためのものか。
「そんなに睨むなよぉ」
「別に睨んでなどいない。それより、何の用だ」
「別にようなんてねぇさ。けどよぉ、旦那、何話してたんだぁ?」
「何、とは?」
「主様と、なぁんかたくらんでるだろぉ?俺たちが知らねぇ、なんかをよぉ」
確かに、彼らには世界を統べるため、とだけ話している。神や堕天使などの事柄は全く触れていない。全てルキフェルの指示だ。
しかし、それを話すことで何かが変わるとも思えない。
よって、彼にこれを話すのは無意味であると判断する。
「それを話して、お前たちが心変わりするとは思えない」
「モチベーションってやつだよぉ。いい刺激が欲しいじゃねえか」
話すな、というのは命令。自分の判断でそれを破るのは信用の問題がある。
この男も、本気で言っているわけではなさそうだ。
「用はそれだけか」
「おお、こえぇ。まだ死にたかぁねぇな。ひひっ」
げらげらと笑いながら俺の横をすぎる。どうやらアスタロトの後を追ったようだ。
火に油を注ぐのが好きな奴だ。この組織には変わったものが多いらしい。この俺も例外ではないが。
「ふん、さて」
正直、信じがたい話ではある。神、悪魔、天使。そして堕天使。何年か前では考えられなかっただろう。
愛を知り、希望を知り、絶望を知った、今では。それが信じられる。それが全て真実であるとわかる。そして、理解する。俺の判断。
堕天使が最も正義に近い。そう思った。もちろん、反論もあるだろう。だからこそいがみ合う。
人の世はこの繰り返しだ。
対立は消えない。あのときも、今も。
思い出すのは刑務所で見た、美しい白髪の神と、彼女の名前。
「…………鏡花」
しばらく、過去を噛み締めるようにその場に立ちつくした。
■
目が覚める。そこはどこか。室内であることは確か。温かい。体温で暖められた床。そして、黒猫。
ぼんやりと視界が回復する。ズキズキと頭が痛い。最悪の目覚めだ。
身体をゆっくりと起こす。やはり見慣れない景色。何が起こったのか。
「目覚めたか。桐人」
キリヒト。なんだその言葉は。響きとしては名前が適切だろう。そしてかけられたタイミングから自分のものであると捉えた方が無難か。
声のした方を向くと、黒猫が目に入る。
「何だ、黒猫。久しぶりじゃないか」
ああ、徐々に意識がはっきりしてきた。この黒猫には会ったことがあるはずだ。
言葉を発する、金の眼を持った黒猫。忘れようがない。あの地獄のような施設の生活の中で、唯一オレが争い以外で話することが出来た相手だ。
「ほう、わかるのか。では、あの衝撃で封印が解けた、ということか」
状況が掴めないために黒猫の言葉が繋がらない。
封印?何のことだ………それよりもこの場所は?安全なのか?
「おい、黒猫。ここは何処だ。オレはやられたのか。ヤツ等は……いや、ヤツ等はもう死んだな。十三号はどうした」
「落ち着け。ここは協会ではない。お前が言っているのは、もう五年ほど前の話だ」
「五年………馬鹿な」
月明かりが顔に当たる。
―――――――――静かだ。
争う音がない。悲鳴もない。身体も痛まない。本当に五年が経ったというのか?
なら、何故記憶がない?
黒猫を見る。すると、おかしなことに気付く。金の眼が、片方だけになっている。
「片方、眼はどうした」
「何を言っている」
しわがれた声でおかしそうに猫は笑う。そして、オレを見据える。
「ほら、これを見ろ」
黒猫が持ってきたのは一つの手鏡。そしてそこにはオレの姿が映る。
金色の左目を持った、オレの姿が。
ぞくり、と何かが背筋を走る。鏡から目を離さぬまま、黒猫に問う。
「どういうことだ」
「見ての通りだ。お前は俺と眼の取引をしたのだよ」
「眼の取引だと?」
「ああ、戦いに巻き込まれる代わりに、力を与える。命を削る代わりに、力を与える。悪魔の契約だ」
「………なるほど、お前が悪魔というのはやはり本当の事だったのか。そして、オレは相も変わらず争いを求めている、と」
むしろ、すんなり受け入れる。そうでなくては。ずっと戦ってきたのだ。ずっと、ずっと。
人を殺すまではいかないまでも、動けなくなるまで。戦意を失うまで。あるいは、人として、壊れるまで。
それが、こんな静かな所に投げだされて、大人しくしているのは異常だ。
安寧など訪れない。それが、『黒の協会』だった。
「さて、何が起きたか説明してもらおうか、黒猫」
黒猫と向き合う。状況を説明できるのはこの猫だけだ。おかしな話だが。
「まず最初に問いたい。どこまで思い出した?いや、どこまで戻った?」
「記憶か……何故ここにいるのかわからない。そして、覚えているのは施設での戦い。お前との会話………十三号との……くそ、曖昧だな」
「なるほどな。封印後は覚えていない、か。神と悪魔の話は?」
「それは覚えている。人の魂を食らうだけの存在が神。人の命を食らう代わりに神に、つまり天使に対抗し得る力を与えるのが悪魔。そのどちらでもなく、魂の消滅を目論むのが堕天使と、こんな感じだったハズだな」
「大方間違っていない。今のお前には適当に説明してしまったから心配だったが、問題はなさそうだな」
「オレはなんで契約したんだ?命を代償にしなければ戦えないほど強いヤツが出てきたとでも?」
「それは、今から眼の記録を見せよう。その眼はものを覚える。目を閉じていろ」
言うとおり両目を閉じる。眼の記録。信じがたい話だが、人語を解する猫もいることだ。それを疑うことはしまい。
しばらくして、暗闇が波打つようにして黒以外の色が浮かびだしてくる。
不思議な感覚だ。夢を見ることは少ないが、その感じに似ている。
沢山の記録。
最初に映ったのは血にまみれた女。オレは女を抱えて何やら叫んでいる。
オレが映る。鏡だろうか。そこに映った瞳は今のように金色に輝いていない。くすんだ色をしている。それを見てオレが顔をしかめる。
親しげに男に呼び止められる。男を殴る。そして、何やらオレがわめき散らす。男と共に歩きだす。
大きな建物に入る。部屋に入る。金色の髪をした少女にオレが話しかける。
しばらく話すと離れる。
そこからは人物を覚えるのに注意を向ける。中々覚えやすい者が多い。
人形のような男。中々出来る。これは楽しみな相手だ。
並んで歩いていた男を切る。仲間も敵になり得るということか?
二人目の金髪。今度は少女ではない。それなりに発達した肉体をしている、が。少しだけ違和感が残る。
現れる三人組。銀髪の男に……女が二人。
しばらく見流す。そして、最後。
再び現れた金髪の少女に持ち上げられ、そして―――――――。
「――――――――っつ」
「どうだった?」
「………どうもこうも、訳がわからない」
誰が味方で、誰が敵なんだ………?そもそもなんでヤツと共に行動している?
とにかく、何やら現実離れした状況にあるのはわかった。
敵か味方か。その問題はおいおい解決すればいい。最悪、皆殺しにすれば楽だ。
それにしても、女のために命を投げ出す、か。なんともドラマティックな展開だ。馬鹿らしいことこの上ないが。
さて、そんなことは問題ではない。何故、ヤツがオレの傍にいるのか。
「とにかく、組織に行ってみるか。お前は適当に振る舞っておけ。これからは俺も同行する」
「そうだな。動かないことには何もわからないか。精々邪魔になるなよ」
「言うな、若造め」
かけてあった黒いコートを羽織り、ドアを開け放つ。
途端に広がる世界。夜の闇が満ちる、美しい世界。見上げれば、そこには細くなった月が浮かぶ。
「外は相変わらずか……ま、精々退屈させないでもらいたいものだな」
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