半身召喚の幼き聖女
連載するかどうか、迷ってる話をとりあえず短編で出してみました。
夕暮れの湿った空気が、校舎裏の影に深く沈んでいた。
古びた鉄製フェンスに押しつけられた背中に、網目の硬い感触と冷気が制服越しにじわじわと伝わってくる。
「ねえ、聞いてるの美琴? 調子のってんじゃないわよ」
甲高い声が、狭い敷地に響いた。
目の前に立っているのは、同級生の香坂リナだった。
綺麗に巻かれた髪を怒りで揺らし、鋭い爪を立てた指先を美琴の鼻先に突きつけている。その背後には、取り巻きの女子生徒が二人、嘲笑を浮かべながら胸の前で腕を組んでいた。
神崎美琴は、荒い息を殺しながら視線をわずかに低く落とした。
反論しても無駄だということは、これまでの経験で痛いほど分かっている。
怒鳴り返せば余計に長引き、謝罪すれば調子に乗るなと詰られる。美琴にできるのは、ただ嵐が過ぎ去るのを待つように、じっと足元のアスファルトを見つめることだけだった。
アスファルトの亀裂から生えた雑草が、不気味に揺れている。
「ちょっと、シカト? なんなのその目! ムカつくのよ!」
リナが苛立ちを露わにして、美琴の肩を強く突いた。
体勢が崩れ、背中のフェンスがガシャンと鈍い音を立てる。
その時だった。
――ジッ、と耳の奥を刺すような異音が響いた。
「え……?」
リナの声が不自然に途切れた。
足元が、眩いばかりの青白い光に包まれていた。
光はアスファルトの表面を這うように広がり、美琴だけでなく、目の前に立つリナの足元までも飲み込んで緻密で不気味な幾何学模様を描き出していく。
焦げつくような独特の臭いが鼻腔を突き、周囲の空気が重く押しつぶされるような圧力が肌にへばりついた。
「な、なにこれ!? なに!?何が起きてるの!?」
取り巻きの女子たちが悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。
リナも顔を大きく引きつらせ、腰を抜かしたようにその場にへたり込んだ。
美琴の心臓が早鐘のように打つ。
野生的な直感が、この光に触れてはならないと全身の毛穴を逆立てて警鐘を鳴らしていた。
逃げなければ――。
美琴は咄嗟に身を翻し、フェンスを背にして大きく足を引いた。
しかし、動転した足がもつれ、激しく尻餅をついてしまう。
あおむけに倒れ込んだ美琴の視界を、強烈な青白い光が覆い尽くした。
あまりにも最悪な体勢だった。
逃げようと後ずさった拍子に倒れたため、腰から上の上半身だけが光り輝く魔法陣の内側へ倒れ込み、両足を中心とした下半身は魔法陣の『外』へとはみ出していた。
一方、腰を抜かしてへたり込んでいたリナは、全身がすっぽりと魔法陣の『内側』に収まっている。
「ひっ……、あ……っ!?」
「きゃああああああっ!?」
二人の悲鳴が交錯した。
叫ぶ間すら与えられず、開けた口の奥へ、焦げつくような熱気と吐き気を催す圧力がどっと流れ込んでくる。
息が詰まり、肺が内側から押しつぶされるような痛みに美琴は喉を鳴らした。
境界線を無視するように、光が暴走して弾けた。
視界が真っ白に染まり、空間そのものがねじ切られるような絶大な負荷が美琴の全身を襲う。
ズバッ、という、肉体では聞こえるはずのない衝撃音が脳内で響いた。
光の『内側』にあった上半身だけが、むりやり空間ごと切り取られる感覚。
痛い、という感覚すら置き去りにするほどの強烈な断絶。
次の瞬間、美琴の意識は浮遊感とともに極彩色の渦の中へと呑み込まれていった。
* * *
「――うわあああああっ!?」
耳を劈く叫び声と、けたたましい歓声が同時に美琴の鼓膜を叩いた。
「成功だ! 異世界からの召喚儀式が成功したぞ!」
「やった! これで我が教会は、世界を護る聖なる力を手に入れたのだ!」
ひんやりとした冷気が、肌を刺す。
そこは校舎裏の湿った地面ではなかった。
古びた石造りの壁、天井高く掲げられた松明の炎、そして白と金の装束に身を包んだ男たちが大勢、興奮に顔を歪めて取り囲んでいる。
教会地下の、広い密室だった。
「嫌ぁぁぁっ! 何ここ!? だれ!? 来ないでよ!」
美琴のすぐ隣で、甲高い叫び声が上がった。
リナだった。制服のまま石床にへたり込み、取り囲む男たちを見て乱暴に髪を振り乱しながら怯えて叫んでいる。
しかし、その声を聞きながらも、美琴の意識は急速に遠のいていた。
寒かった。
猛烈な寒気と、下腹部から急速に失われていく生命の感覚。
「ガ……ッ、あ……っ……」
喉を鳴らしても、声にならない。
美琴は床に突伏していた。
目の前の石床が、赤黒い液体でぐんぐんと染まっていく。
自分の血だった。
下半身がない。
腰から下の感覚が一切存在せず、途切れた切断面から、ドクドクと恐ろしい勢いで熱い血が溢れ出し続けている。
「ひっ……!? な、なんだあの娘は!?」
「血が……!? 体が上半身しかないぞ!」
「おい、二人召喚されたぞ! 一人は上半身だけだ!」
「召喚で失敗したというのか!? これではすぐに死んでしまうぞ!」
男たちの歓喜が、一瞬にして恐怖と狼狽へと変わっていく。
リナも美琴の腰から流れる絶望的な血の量を目にして、「いやああああっ!」と喉を潰さんばかりの悲鳴を上げて這い進み、美琴から必死に距離を取った。
(痛い……寒い……たすけ……て……)
美琴は荒く短い呼吸を繰り返すが、肺に酸素が入ってこない。
指先が冷たくなり、視界の端から黒いモヤが広がっていく。
なぜ自分がこんな目に合わなければならないのか。
リナに呼び出され、理不尽に怒鳴られ、そして理由も分からず体に大きな穴を穿たれるように切り裂かれて、冷たい石床の上で野放しに血を流して死んでいく。
(いやだ……死にたく、ない……)
涙すら流す余力のないまま、美琴のまぶたがゆっくりと重く閉じられた。
心臓の鼓動が、途切れ途切れになっていく。
トン……、トン……、と、最後の一打が消えかけた、その時。
* * *
ふっと、あらゆる音が消え去った。
神官たちの狼狽する叫びも、リナの金切り声も、松明が爆ぜる音も、激しい血流の音も。
すべてが一瞬にして吹き飛び、完璧な静寂が空間を支配した。
肌を苛んでいた激痛と、凍えるような寒さも綺麗に消えていた。
美琴がゆっくりと目を開けると、そこは周囲一面が透き通るような白に満たされた空間だった。
上下も左右もなく、ただ心地よい光だけが満ちている。
「やあ。ひどい災難に遭わせてしまって申し訳ない」
穏やかで、どこか響きのある声が聞こえた。
振り返ると、そこに一人の青年が立っていた。
透き通るような白い髪と、深い知性を湛えた瞳。人間離れした美しい容姿をした彼は、申し訳なさそうに眉を下げて美琴を見つめていた。
「あなたは……? 私、死んだの……?」
美琴は自分の声が出せることに驚きながら、自分の手を見た。
手は透けてはおらず、痛みもない。だが、下半身はやはり存在せず、光の靄のようなものでかろうじて繋ぎ止められている状態だった。
「ここは世界の隙間。そして僕は、この世界で『神』と呼ばれている存在だよ」
青年――神は穏やかに言い、美琴の目線に合わせて膝をついた。
「君の身に起きたことについて説明させてほしい。あの異世界の者たちが執り行った召喚術式は、ひどく不完全で不法なものだった。その影響で、君は召喚の渦に巻き込まれる際、上半身だけがこちら側に引きずり込まれてしまったんだ」
「上半身、だけ……」
美琴は生々しい切り欠きの感覚を思い出し、体を強張らせた。
「そうだ。君の体の半分……下半身は、元の世界に残されたままだ。そして大変心苦しいのだが、残された下半身をこちらに連れてくることも、君を元の世界に完全な姿で戻すことも、世界の理の上で不可能なんだ」
神の言葉は残酷だったが、その声には真摯な痛ましさが込められていた。
「じゃあ……私は、このまま死ぬしかないんですか……?」
美琴の問いに、神は静かに首を振った。
「いいや、方法はある。君の『魂』と、こちら側に届いた『上半身の質量』は確かにある。これらを元にして、君の肉体をこの世界に適した形へと再構築することができる」
「再構築……?」
「簡単に言えば、体をちいさく作り変えるんだ。元の体の大きさへ戻すための質量が足りないからね。こちらに来た上半身の質量だけで全身を組み上げると……どうしても、幼い子どもの姿になってしまう。質量的に、それが限界なんだ」
神は美琴の目をじっと見つめた。
「子どもの姿になれば、筋力も体力も落ちる。元の年齢の精神を持ったまま幼い体に閉じ込められることは、想像以上に歯がゆく、もどかしい苦痛を伴うかもしれない。……それでも、君は生きたいと思うかい?」
問いかけが、白い空間に静かに響いた。
幼い子どもになる。
そんな非現実的な話、普通なら笑い飛ばすか、困惑して立ちすくむところだろう。
だが、美琴の頭に浮かんだのは、あの冷たい石床の感触と、溢れ出る自分の血の温かさだった。
理不尽に召喚され、勝手に体を切断され、血を流して見捨てられかけた。
あのまま何もできずに消えていくなんて、あまりにも悔しすぎる。
「生きたいです」
美琴は、小さく、しかし確かな力を持った声で言った。
「どんな姿になっても……私、生きたいです。理不尽に死ぬのだけは、絶対に嫌です」
神は一瞬目を見開き、やがて優しく目を細めた。
「強い心だね。分かった。君の意思を尊重しよう。……それから、あちらへ戻すにあたって、君の服も用意させてもらったよ。元の制服は上半分しかなかったからね」
神がそっと手を差し伸べると、美琴の身体が柔らかく白いワンピースへと包み込まれていった。
「召喚の瞬間に戻す際、君の肉体を巻き戻す時間の歪みを少しだけ利用して、傷も塞いでおく。元の場所へ戻った時、君は無傷の幼子の姿になっているはずだ」
神の指先が、美琴の額に優しく触れる。
温かい光が、美琴の身体の芯へと染み込んでいく。
「君の未来に、どうか小さな温もりが多くあらんことを」
神の声が遠ざかっていく。
世界が反転するようにぐるりと揺れ、まばゆい光の中に美琴の意識は再び落ちていった。
* * *
「――うわあああああっ!?」
耳を劈く叫び声と、けたたましい歓声が同時に美琴の鼓膜を叩いた。
「成功だ! 異世界からの召喚儀式が成功したぞ!」
「やった! これで我が教会は、世界を護る聖なる力を手に入れたのだ!」
ひんやりとした冷気が、肌を刺す。
古びた石造りの壁、天井高く掲げられた松明の炎。白と金の装束に身を包んだ男たちが大勢、興奮に顔を歪めて異世界の『聖女』の到来を称えていた。
「嫌ぁぁぁっ! 何ここ!? だれ!? 来ないでよ!」
すぐ隣で、先ほどとまったく同じリナの金切り声が響く。
(時間が……戻ってる……)
美琴は目を見開いた。
先ほどまで石床を赤く染めていた自分の血は綺麗に消え去り、激痛も寒気もない。リナも美琴の滑落した血を見てパニックになるのではなく、ただ見知らぬ場所へ召喚されたことに取り乱していた。
しかし、立ち上がろうとした瞬間――強い違和感が美琴を襲った。
目線が、異常に低い。
視線を落とすと、自分の手が恐ろしいほど小さかった。
指は短く丸みを帯び、皮膚は柔らかく薄い。着ているのは高校の制服ではなく、神が与えてくれた、小さな白い無地のワンピースだった。
両足もある。しっかりと床についているが、その足も小さく短い幼児のものだった。
(本当に……子どもの姿に……!?)
5歳か6歳程度だろうか。
感覚の重心が普段と違いすぎて、膝が生まれたての小鹿のようにガクガクと震えて上手く力が入らない。
大人の頭脳を持ちながら、思い通りに動かない幼子の肉体。
強烈な不整合感が美琴の眩暈を誘う。
「……ん? おい、召喚陣の中を見ろ」
叫び散らすリナと大歓声を上げていた神官たちの動きが、不自然に止まった。
中央に突伏している『異世界の二人』を見下ろす男たち――その一人、中年神官のゲイリオスが、引きつった笑みを浮かべたまま眉をひそめた。
「二人……召喚されたのか? いや、しかしもう一人は……子ども……?」
「どうなっている? 召喚されたのは、あちらの聖女様ではないのか……!?」
「なぜ幼子が一緒に倒れているのだ……!?」
リナも不審そうに涙目のまま美琴を見下ろし、「え……何この子……?」と呟いた。
歓喜に沸いていた地下室が一転して、不気味な困惑と悪意に満ちた静寂に包まれていく。
美琴は白いワンピースの胸元を小さな手で必死に握りしめ、冷たい石床の上で身を縮こまらせた。
(助かった……けど……)
不気味な異物を見るような冷酷な視線が一斉に突き刺さる。
命が助かった安堵も束の間、この場所に自分の居場所など最初から存在しないのだと、幼い体になった美琴は肌で感じ取っていた。
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