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自殺美学と宗教について

作者: 遺書
掲載日:2026/03/03

いつもの殴り書きです。

自殺美学なんて概念を生み出した昔の人間は、総じて皆重い罪を償わなければならないと思う。それか、もう日本人にはその固定観念が最初から染み付いてしまって、消そうとすればするほどに執着深く、拡がって、そうして未熟なままに自死などという大罪に思いを馳せるのだろうか。どうしてみんな決まったように、口を揃えて死にたいとか、或いは死ねばなんとかなる、なんて言うのか。


殺人というものがもっと身近にあった頃、それは日本でも海外でもずっと昔のようで、実はそうでもなくて、とにかくその時代を生きていて、自分が心酔する程の愛おしい人をどうか吊し上げて殺してくださいと願ったユダは、キリストが処刑された時、どういう気持ちだったのだろう。

親からもらった、もしかしたらそういう概念はないのかも知らないがとにかく、その自分の名前が裏切者の意として現代に至るまでに使われることになるとは思いもしなかったのだろうか。太宰が書いたようにユダの密告は嫉妬からだったのか、それとももっと初めからユダはキリストに心酔してなんかいなくて、神だとか教祖だとか思ったことなんて無くて、初めからただキリストを処刑するためだけにずっと側に仕えていたのだろうか。


とにかく、自分と同じ生き物を、命を吊し上げて処刑して、それを見世物のようにしていた時代は確かにあって、宗教とかそういうものが絡むと人間はとたんに頭が悪くなって、でも今はそれはどうだってよくて、そういう時代があったからこそ、自死というものは華々しいと考える人間が増えて、それが酷かった時代より私たちは一世紀近くも後に生をこの世に受けられたのに、まだ、未だその風潮は抜けきらず、ずいぶんしぶとく、細々と、それでいて美しいままに、残っている。

自ら死んで、人生という物語が完成する、そんな気がしている。酷い思い出も時間が経てば風化して形骸化して、美化されるのと同じように、自分で死を選ぶことこそがいちばん華々しく、それでいて他人の記憶に残り、賞賛されるべきだと、そう思っている。なんて重い罪。


自死を選べば天国も地獄もなく、ただ何もない空間を延々と歩き続けなければならないのに、そもそも死後の世界を信じている人間がもうこの国にはいないことはなくても、昔よりかはきっと減っていて、例え何も無いところを歩き続けるとしても、生きているよりはずっとマシだと言う人間のどれほど多いことか。

無宗教というのは一見自由なように見えて、実のところ残酷なのではないか。最初の方に宗教が絡むと人間はとたんに頭が悪くなると書いたけれど、この世界は頭が悪い方が楽しく輝いて見えるのかもしれない。本来恐れるべき死というものを、恐れることなく、存在しているのか、いないのか、分からない出会ったこともない神の言葉を信じてさえいれば、人生が好転すると、そう思っていた方がきっと気楽に生きられるのでは?


もちろん宗教、さらに言えば新興宗教という言葉は、生まれてから今まで宗教というものをまるで避けているかのように生きてきたこの国の人間にとっては聞こえが悪いかも知れないが、薄っぺらく、怪しく見えるかもしれないが、もちろんただ金を巻き上げるだけの宗教に名を借りた悪い集団や、街のそこら中でビラなどを配っている恐らく法律など気にも留めない妄信的な信者などはこちらからしてみれば頭のおかしい、気の狂った、傍迷惑なそれでいて関わりたくないと思う存在なのは間違いないけれど、そういう集団のせいで宗教に触れる機会を失ったわたしたちが知らない、それらに紛れたただ人間を救済することを目的とした宗教というのは確かにあって、それにこの世に生を受けた瞬間から信仰することが当たり前の国があって、私達から見ればそれは異国の文化で、まるで遠くのことのような気がするけれど、それに死ぬまで触れられないのは少し残念というか、そこに確かにあるのだから少しくらいは知っていたっていいだろうという気がしてならない。


宗教というのは生死のことが厳しく決まっていて、決まっているからこそ、死にたいとか最近軽々しく使われるようになった希死念慮などという言葉は、きっと信者の中には存在せず、代わりに聖書とか、教祖の言葉さえ信じて疑わずしていれば、幸せなあの世へ行けるのだから、わたしからしてみたらその方がずっと、自殺美学などという馬鹿げた風潮などよりもずっと、素晴らしく、華々しく思える。


自分の中に自殺美学などという概念がなければ、どれほど自由に羽を伸ばして、どこまででも飛んで行けたのにとか、きっとそんな世界はどこへ行っても存在しないのに、考えてしまう。

わたしの中にあるこの美学は、なくてはならないもので、どの国に生まれていても、わたしはそこからどうしてもはみ出して、パズルの足りないピースなどではなく、それとも逆か、ピースの足らないパズルなどではなく、何故かどこにも嵌ることのない、余分な一欠片、わたしの人生の全てを集めても、何も完成することなどなく、誰の記憶にも残らず、老衰したとして、今際の際に家族に囲まれて息を引き取るような、愛しい人に手を握られながら息を引き取るような、綺麗な最後はきっとわたしには訪れずに、それが何故か分かる、そう信じて疑わないからこそ、自殺美学というものに陶酔して、ああもしかしたら、これこそがもう宗教のようなものなのかもしれない。

同時に大罪であると、正しい路ではなく、踏み外した先の未来だということはもう嫌というほどに分かっているにも関わらず、この為体。自分は駄目な人間だと、いつからか信じて疑わず、どうしてかそれだけは正しく、間違えであるはずなどなく、自分の決めたことは何ひとつとして信じられないのに、これだけは何故か信じている。強く、強く、強く。

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