第4話(完)
春は、冷凍庫のドアから始まった。朝、母が「そろそろ」と言って開ける。冷気が床に落ちる。角で溜まる。透明の小袋を指で摘むと、プラスチックが軽く鳴って、冬のなかの言葉が薄く見える。室温に置いて、待つ。待つことは嫌いじゃない。合図を見送った夜から、私は待つことを道具にしている。
その間に、家の中の付箋を一枚ずつ貼り替えた。「蛇口の不在」は剥がし、「水の戻り」に変えた。「上の音(代用)」は残した。「出立」は色あせたので、新しいペンで縁をなぞる。玄関の砂は、もう毎日増えない。彼女が踊り場に置いていったコップの中の粒は、あの夜の分で止まっている。止まっているものは、時々やさしい。
上の階の引っ越しは、本当に始まった。昼の工事。天井裏の配線が抜かれ、梁の上でネジがころころ転がる音。夜は、静か。静けさは予告どおりだった。最初の数夜、私は椅子をわざとずらして、床板に小さく鳴ってもらった。誰の切符でもないのに、合図の形は、こっちの心拍を整える。音は目的がなくても役に立つ。
学校は相変わらず、噂が昼休みの端から放課後の端へ走っていく。彼女の名字は、黒板のチョーク粉みたいに、掃除のあとに薄く残る。消えた時が、いちばん長く残る。私は進路希望の紙の空欄に、鉛筆を置くだけ置いて、何も埋めない。未来に期待しないことはできないけれど、期待に住所を書かせないことは、練習すればできる。
夜、母が食卓でコップを二つ並べた。断水の告知の紙はもう剥がして、代わりに「工事完了予定」の紙が掲示板に貼られている。角は、変わらず空気に合わせてぴくぴくする。
「ねえ」
母が言う。母の話はいつも、説明を一枚抜いてから始まる。
「あの合図、私がお願いしたの」
分かっていたことを、言葉にする。言葉にすると、体のどこにしまっておけばいいのかが決まる。私は頷く。母は続ける。
「仕事の知り合いに、区の相談の人がいてね。インターホンは怖いリズムだから、車にしてくれって。光なら、音より減量できる」
減量。母の語彙は時々、道具みたいに手に馴染む。私は、あの夜に玄関で見た若い女の人の袖口のインクを思い出す。役所の名乗り方。名前は名乗らなくていい。三つの約束は、家の外にも持っていけた。
「行き先は」
私が訊くと、母は「帰れない、ところ」と彼女の言葉を借りた。正確な固有名詞は一切出てこない。出してはいけない種類のものだと、私にも分かる。「しばらくは名前が要らない場所。音の管理がしてあるところ。合図をつける練習ができるところ」
想像が、現実より軽くなるように、私は一回だけ深呼吸をした。重くしない。重くするのは、大人たちの仕事だ。私の役目は、印を保管すること。
小袋の曇りが消え、紙の繊維が戻ってくる。母がテーブルに置く。私は手を拭いて、端から開く。折り目は、慎重に、でも躊躇しすぎず。出てきたのは、便箋の代わりのノート紙が三枚。鉛筆の線は、冷やしたあとなのにちゃんと濃い。
一枚目。「ここにいます」。いつか彼女が声に出して言った文が、文字になっている。もう少し続く。「印は増えました。砂の入れ物は、透明が良いです。透明だと、いることが疑えるから、確認ができるから」。透明は疑いの道具、という理屈が、彼女らしい。目の前に透明なものがあり、そこに砂がある。
二枚目。「上の音のこと」。彼女は書く。上の音は眠りの切符。でも、合図の語は、昔は別の意味だった、と。二度、間をおいて一度——それは、家で誰かを呼ぶときの癖だったらしい。あの家の廊下は長くて、名を呼ぶ前にボタンを押す癖がつく。ボタンの数字は小さくて、押しにくかった。呼んでは来ない誰かを呼び続ける癖。合図は便利で、すぐ暴力になる。だから、私たちは、合図の形を奪い直して外の光にした。合図の再分配。私はそこに、母の仕事の癖を見つける。誰かから暴力を少しずつ剥がして別の道具にする、あの手つき。
三枚目。「名前の練習」。紙の上では、彼女は自分の名前を書いていない。でも、名前の代わりに「ここで呼ばれるべき呼び方」をいくつか試している。「客」「居候」「拾得物」「避難者」「同居人」「印」。最後にだけ、小さな丸が付いている。印、という呼び方は、彼女自身の合図だ。私は笑って、それから少し泣いた。笑いは泣く前に来て、泣きは笑いの余白に住む。
最後の行は、私に向いていた。「掃かないでくれて、ありがとう」。床の砂のことだ。私は箒を持たなかった日々の我慢を、やっと正解にしてもらえた気がした。正解は人から渡されるとき、荷物になりすぎない。
紙を畳み、戻さない。戻さないのが礼儀だ。私は冷凍庫の角を空け、「次のため」の場所にする。まだ誰のものでもない印のため。母は頷き、冷蔵庫の「呼吸」の付箋の下に、小さく「続く」と書き足したままにしておいてくれる。
春が深くなるにつれて、家の音は少しずつ春用に変わる。夜風の通り道が変わり、カーテンの裾が床を撫でる。ベランダの手すりが朝だけ鳴る。私は付箋を足していく。「朝の鳴り」「夕方の曇り」。印は、増える。印が増えると、人がいなくなっても、誰かがいたという文は減らない。
ある日の午後、玄関のポストから「返送」のスタンプの押された封筒が戻ってきた。あの、切手のない分厚い封筒。宛名不完全。差出人不明。母は受け取り、紙の重さを手のひらで測るみたいにしてから、古紙の束に入れた。過去が自分で帰れるときは、見送ればいい。見送るときは、玄関から。三つ目の約束は、紙にも適用できる。
上の階は、空になった。昼の工事も終わって、新しい住人がまだ入らないあいだ、天井の向こうは空洞の音がする。空洞の音は軽い。軽い音は、期待をふわふわさせる。私は五つ目の袋をそっと撫でる。袋の口は、もうあまり暴れない。期待は捨てられないから、畳む。畳んで、押し入れの上の段に仕舞う。取り出すのは、合図が要るときだけ。合図を、自分で決める練習。
日曜日、私は紙コップを持って階段を上がる。踊り場に残した砂の入れ物。中に、少しだけ新しい粒が増えていた。誰かの靴の底から落ちたものか、工事で舞った粉か。私はそれを肯定することにした。印は誰のものでもないときがいちばん役に立つ。紙コップを一度部屋へ持ち帰り、彼女の付箋の横に置く。彼女の字と、私の生活の字が、今夜だけ隣り合う。
机に座って、私も手紙を書く。宛名はない。内容は、淡い。「ここにいます」「上の音は、しばらく空洞です」「砂は、少しずつ増えます」「冷凍庫の角は空いています」。書いて、折りたたみ、小さな袋に入れて、冷凍庫の隅に滑り込ませる。春でも冷やしておく言葉がある。冷やし方を知っていると、期待は保存食になる。非常時にだけ食べる。
夜、窓を少し開ける。遠くでブレーキが短く鳴る。二度、間をおいて一度。私はもう、そのリズムを怖いとだけは感じない。合図は、奪われるたびに、別の使い道を覚える。彼女が持っていった使い道と、ここに残った使い道。両方が正しい。
母が台所で鍋蓋を落とす。わざとじゃない。小さく、でもはっきり。私は笑う。笑いは、音のないところより、音のあるところでよく働く。彼女は今、眠れるだろうか。そう思ってから、期待の袋の口を自分で結び直す。眠れても眠れなくても、彼女の印は彼女のものだ。私の印は、ここにある。
眠る前に、玄関の内側の付箋「出立」を指で撫でる。角が、空気に合わせてぴくぴく動く。動くたびに、私は三つの約束を口の中で数える。 (一)名前は名乗らなくていい。(二)外で会ったことは外で話す。(三)出ていくときは玄関から。数え終わると、四つ目の袋——憐れみ——の口が乾いていることに気づく。乾いて、ちゃんと結べる。最初に捨て損ねたやつだ。遅れてでも、手放せるものもある。
電気を消す。部屋が夜の形になる。付箋の白だけが薄く浮かぶ。「呼吸」の下の「続く」が、見えたり見えなかったりする。続く。続くのは、私たちの生活で、彼女の生活で、印で、音で、冷凍庫で、袋で。終わるのは、合図に従う迷い方だ。終わり方を、ひとつ手に入れた。終わりを手に入れると、始まりを持てる。
目を閉じる前、私はひとりで合図を作る。机の角を、指で二度、間をおいて一度。誰にも向けない、小さな光の代わり。私の中だけで点滅する。合図。明日へ。
【完】




