第3話
玄関の空気は、冬を一度畳んで春に差しかけた匂いがした。彼女は砂のコップを胸に抱え、ドアの縁を足の指で軽く探った。合図の残響が天井の骨の中でほどけていく。二度、少し間を置いて一度。怖いリズム。怖いのに、彼女の肩はほどけていた。許可の形は、ときどき恐怖と同じ型をしている。
「玄関から」
母が言った。三つ目の約束を、確認のようにもう一度。私は頷き、チェーンを外す。外の廊下の冷気が室内の温度に触れて、境界線が目に見えた気がした。付箋の角が同時にぴくっとして、紙の街が全員で会釈する。
階段は静かだった。断水の夜は、音の抜け殻だけ残る。彼女の足音は柔らかく、私の足音はその後を追いかける形で硬かった。上へ行くか、下へ行くか、一瞬迷って、彼女は視線を上に投げた。天井の向こうの骨の方角。私は母を見る。母は首を横に振らない。振らないことが、許可だ。
二階の踊り場で、上の扉に紙が貼ってあった。管理会社の仮の注意書き。工事のため退去準備、と太い字。紙の角が空気と相談して震えている。その震えが、さっきの合図の余韻に似ていた。扉の隙間から、人の匂いはしない。段ボールの匂いだけが、夜の温度に馴染んでいく。
彼女は上を見たまま、砂の紙コップをそっと踊り場の手すりに置いた。砂がこすれてかすかに鳴る。その音は、ここでやめる音にも、ここから始める音にも聞こえた。私は無意識に指を伸ばして、紙コップを支え、何も言わずに手を引っ込めた。袋の口を、指先でさぐる。怒り、閉まっている。羨望、閉まっている。羞恥、閉まっている。憐れみ、まだ湿っている。期待——いちばん軽い音で、私の掌から抜ける。
「上じゃない」
母が静かに言って、私と彼女の目を交互に見た。声は小さいけれど、どこに方向を向けるべきかが、すっと整列する。
「外だよ」
外。彼女がその語を口の中で転がす。外の音は、今夜は少ない。だからこそ、外の音は合図の形をくっきり持つ。
階段を下りる。一階に近づくほど、空気が少し重くなる。重さは、そこに人がいる証拠だ。エントランスの扉の向こうで、エンジンの息がひとつ休んで、また続く。私は息を合わせる練習をするみたいに、呼吸を整えた。断水の夜は、呼吸音が大げさになる。
オートロックは壊れたままで、押せば開く。押すと、外の駐車スペースに小さなハッチバックが停まっていた。黒でも白でもない、夜の色。運転席のライトが二度点いて、間をおいて、一度点いた。私の背中に汗が浮く。合図。今度は光の言語。音と同じ文法でしゃべる光。
運転席から降りてきたのは、若い女の人だった。厚手のパーカーの袖口にボールペンのインクが滲んでいて、夜の温度が袖に住んでいるみたいだった。彼女は私たちを見る前に、空を一度見上げた。上の静けさを確認するように。それから会釈。
「夜分にすみません」
声は固いけれど、固さの下に柔らかさの準備がある。名乗りは短く、役所の出先の名前がくぐもって聞こえた。私は母の横顔を見る。母は、ほんの少し長く瞬きをして、それからいつもよりゆっくり頷いた。その頷きの中に、これまでのいくつかの電話と、私に言わなかった数行の説明と、三つの約束の出所のことが折りたたまれて入っているのがわかった。
「合図、お願いしてたんだって」
母が私にだけ聞こえる声で言う。私は首をひねる。誰が、誰に、と続ける前に、女の人が、上を指さして微笑んだ。
「上の方、今夜は静かでしょ。だから、光で」
二度、間をおいて一度。インターホンでは怖かったリズムが、車のライトだと少し優しくなっていた。恐怖は、道具で減量できる。
彼女はマンションの敷居に片足を残したまま、車と母と私の順に目を配った。目は、印の場所を選んでいる。どこに自分の跡を残すか。彼女は、砂の紙コップが今踊り場にいることを、知らん顔のように記憶してから、敷居をまたいだ。靴は片方だけ。もう片方の空白は、そのまま運ばれる。
「ここからは、私が自分で、出ます」
彼女が言った。「届けられる」のではなく、「出る」。同じ移動でも、言い方が体の中の重心を変える。女の人はすぐ頷いて、後部ドアを開ける。布の座面が夜を吸って静かな音を立てた。
「名前、聞かないままでもいいんですか?」
女の人が確認する。母が先に「いい」と言い、私も頷く。三つの約束の一つ目は、そのまま車の中にも適用された。ルールは、持ち運べる。
彼女は乗り込む前に、玄関の横の掲示板に目をやった。工事のお知らせの紙。夜間断水。静か、という文字。彼女はその文字を一度口の形にして、言葉にしないまま飲み込んだ。飲み込んだ文字は、喉の奥で小石みたいになるはずだ。今日は、それでいい。
「待って」
思わず、私は言っていた。止める言葉ではないと自分で確認するために、一度、呼吸をした。
「冷凍庫」
彼女は一瞬きょとんとして、それから笑った。笑いは泣く前に来る。私はそのことを、最近何度も学んでいる。
「春になったら、出しておいてください」
冷凍庫の角に置いた、宛名のない手紙の小袋。凍っている言葉。彼女の声は、それを思い出して少し温度を取り戻した。
「溶けたら、読めます」
「読むよ」
約束。約束の言い方はいつも危険だ。期待の袋に穴を開ける。私は自分の声がどのくらい漏れやすいかを測り、母の横顔を視界に入れて、漏れの角度を小さくした。母は何も言わない。何も言わない人は、たいていよく聞いている。
彼女はドアの縁に指先を滑らせ、木目の筋を一つずつ数え、それから車に乗った。ドアが閉まる。「パタン」という音が、私の内ポケットに入り、そこに座る。ライトがもう一度だけ、二度、間をおいて一度、短く点いた。合図の再演。今度は私へのものだった。残される側にも、合図は必要だ。
車が出る。エンジンの音が、砂を巻き上げないように丁寧に小さくなる。ヘッドライトが角を曲がり、夜の色に混ざる。私はエントランスの前に立ったまま、何も持たない手の重さを感じる。持たない手は、意外に重い。
「送らなくてよかったの?」
母が言う。送る、には二つ意味がある。付き添って行くことと、見送ること。私は少し考えて、首を横に振った。付き添うと、戻る場所が二つになる。今夜は、玄関のこの角を、彼女のための片方の戻る場所にしておきたい。
階段を上がる。踊り場の手すりに、砂の紙コップが残っている。中の粒は、今夜はやっぱり少ない。風が吹いたから。彼女が言っていた理屈の詩を、私は信じることにした。信じると、説明がいらなくなる。説明は体力を使う。
部屋に戻ると、付箋たちがまだそれぞれの場所で夜番をしていた。「冷蔵庫の呼吸」「ポットのパチン」「蛇口の不在」。不在にも名札をつける。私は一枚だけ新しく作る。「出立」。玄関の内側に貼る。角は、空気の流れでぴくぴく動く。
母は台所でコップを二つ出し、蛇口をひねって、すぐに何も出ないのを見て笑った。笑いは、音のないところでいちばんよく働く。私はテーブルに座り、いつもの癖で彼女の座っていた椅子を少しだけずらす。床板が鳴く。上の音の代用品。今夜、それはもう誰の切符でもない。でも、印にはなる。
「行き先、どこだと思う?」
母が背中で訊いた。私は答えを持っているわけではない。持っていたら、期待が形になる。形になった期待は、だいたい壊れる。
「帰れない、ところ」
私が言うと、母は「うん」と言って、冷凍庫を開けた。冷気が床に落ちる。角で、冷たい空気が少し溜まる。母は小さなポリ袋を確かめ、またそっと閉めた。今はまだ春ではない。
夜半、窓を少しだけ開けると、遠くの道路でトラックのブレーキが短く鳴った。二度、間をおいて一度。世界は、私たちのリズムをあちこちに隠しているのだと思う。聞き取ろうとすれば、聞こえる。聞き取らないと決めれば、静かにもできる。選べるのはいつだって、自分がどちらを怖がるかだ。
私は床に座り、手のひらで木目をなぞる。指先に、ささくれが少しだけ当たって、そこで止まる。止まることができる場所がひとつあると、人はどこへでも行けるような錯覚を持てる。錯覚は、夜を渡るための道具だ。
上の階は、静かだ。静かなまま、朝までいるのだろう。工事の紙が宣言する静けさは、予告状の丁寧な言葉づかいをしている。予告は、恐怖を薄め、期待を濃くする。私の五つ目の袋は、静かに、でも確実に膨らむ。膨らまないふりをするのは、思っているより難しい。袋の口を押さえる両手のひらが、少し汗ばむ。
冷蔵庫の横の付箋が、風でふわりとめくれた。そこに「呼吸」と書いたのは彼女だった。私はその下に、小さな字で付け足す。「続く」。呼吸は続く。音は、減る夜もあるけれど、消えない。印は、増える。砂は、溜まる。春は、いつか溶ける。私は、自分に向けてうなずく。うなずきは、誰にも見せない合図だ。




