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第2話

 朝は、床の砂から始まった。昨夜の彼女の頼みどおり、私は箒を持たなかった。ぎゅっと我慢して朝日を入れると、木目の隙間に光が刺さって、砂粒の影がやたら立派になる。そんな大げさな影の上で、彼女は指先をそっと滑らせ、粒を一つずつ集めては紙コップに落とした。砂時計のまねごと。時間の方が砂にされて、減っていく。


「印、増えた」


 彼女はコップを覗いて言った。印。ここにいるという事実を、毎朝集めて可視化するらしい。私はパンを焼きながら頷いた。トースターの中の金網が赤くなる。パンの焦げ目は運の模様だと思っている。今日は、きれいに斑点。良い日、悪い日、どっちとも言えない日。


「全部食べていい?」

「もちろん」


 彼女はパンを端から齧りながら、咀嚼の回数を小さく数える。十一、十二、十三。数えごとは安心のメトロノームだ。カップの中で牛乳が揺れる音を耳で撫でて、それからふっと目を伏せる。その伏せ方に、まだ貴族の影が残っている。教わった礼儀は、体の節々に住み続ける。


 母は朝に帰ってきた。ドアに鍵を差し込む音で、私は彼女だと分かる。回し方が一瞬だけ慎重すぎるから。私が「おはよう」と言う前に、母の目はリビングの見慣れない輪郭を捉える。視線は驚かない。夜の仕事で、知らない人の顔を一晩にいくつも見てくる人は、驚くタイミングが世間と少しずれている。


「お客さん?」

「一晩だけ……」


 言いかけて、やめる。一晩、を何回か言ったところで、言葉の数は宿泊の数を決めない。母はひと呼吸で状況を飲み込み、冷蔵庫から水を出し、彼女に差し出した。


「三つ約束」


 母はテーブルの角を指で叩く。合図のように、彼女が姿勢を正す。私はパンの端を噛むのをやめた。


「ここにいるあいだ、(一)名前は名乗らなくていい。(二)外で会ったことは、外でしか話さない。(三)出ていくときは、玄関から出る」


 最後のは、少し笑いそうになった。彼女は真面目に頷く。母のルールはいつも、笑えるところで笑えないようにできている。


「あと、床は汚れたら拭く。でも印は残していい」

「はい」


 母はシャワーへ消えた。音がしばらく続き、止む。上の階では、何も落ちない。代わりに、母が浴室から出るときのバスマットが、足の形をはっきり残す。それを見ていると、彼女の肩の緊張が少しほどけた。印は、ほかの人にも許されていた。


 学校では、時間がずっと普通に流れる。朝のホームルーム、配られるプリント、誰かの早口の笑い。私は座って、視界の端で噂が運動を始めるのを見た。彼女の家のこと。数字の大きな話。桁の多い不幸話は、教室の空気を一度で甘くする。「でも結局、あの子どうなったんだろ」「保護されてるって」「海外で療養?」「親戚とか」「パパ逮捕って本当?」嘘が真実の皮を着たり脱いだりする。私は無言でノートを開き、紙の上に今日の日付を書く。年、月、日。数字の整列。整列は、ひとりのための礼儀だ。


 放課後、私は駅の落とし物のカゴからローファーを探した。落ちている靴は、すぐ左右が離婚する。片方だけ箱に入っていた。サイズは少し違う。少し違うもの同士の方が、摩耗に強い。私は許可を得てそれを持ち帰り、玄関に並べてみた。彼女はじっと見て、首を傾げた。


「……片方で歩いた距離を、なくしたくない」

「靴に、距離が残るの?」

「残ります。音の跡」


 私は頷き、靴をそのまま置いた。玄関に空白が一つ増えた。欠けたままの整然さ。見た目の悪さに支えられる夜もある。


 夜九時、上の音の時間に、皿が伏せられる音はしなかった。その代わり、彼女が立ち上がり、椅子を少しずらした。床板が小さく鳴く。その鳴りが彼女の耳に届いた瞬間、彼女の肩が微かにおりた。代用品でも、合図にはなるらしかった。私はホッとして、それから自分の中の五つ目の袋がぷっくり膨らんだのを感じた。何かがうまくいく予感。危険なやつ。


 翌朝、彼女は付箋に鉛筆で「音の名前」を書き始めた。冷蔵庫の呼吸、湯の湧く直前の沈黙、ポットのパチン。付箋たちは家の中のあちこちに貼られていく。家が名札をつけられて、誕生日会みたいになる。私は学校からの帰りにテープを買い、剥がれそうな角を押さえた。


「これは?」

「逃げ道の地図」


 彼女は言う。地図。出口は音の向こう側にある。私はしばらく考えてから、それが怖いと思っている自分に気づいた。出口があるということは、ここが入口なのだ。

 夜、母は台所でわざと大きく鍋蓋を置いた。ガシャン。彼女が笑う。音は、眠りへの切符。母と私と彼女、三人で鍋の音を一枚ずつめくって過ごす夜は、いつもより早く終わる。


 それでも、外の世界は外の規則で動く。ポストは宣伝チラシで肥り、インターホンにはセールスの指が触れる。ある晩、廊下の向こうをゆっくり走る車があった。ライトがカーテンの隙間を縫って、天井に薄い川を作る。彼女は川を目で追い、呼吸を止める。車は去る。何も起きない。何も起きないことが、起きたことみたいに残る。


 彼女のスマホは、私の机の引き出しの中に眠っている。電源は落としてある。私は一度だけ、黒い画面に自分の顔が映るのを見た。映る顔は、秘密を持っている人の顔だった。秘密は、美容に悪い。


「手紙を書きます」


 ある昼下がり、彼女が言って、古いノートを広げた。便箋の代わり。宛名は書かない。文面は、淡い。「ここにいます」「お皿の音がして、眠れました」「砂は増えています」。彼女は書いて、読み返し、破って、細く折って、小さなポリ袋に入れた。捨てるわけでも保存するわけでもない、どっちつかずの収容。私はその袋を冷凍庫の角に置くのを手伝った。冷たいところの方が、安全な気がした。


 土曜日、母が仕事から戻ると、管理組合の掲示板から剥がしてきた紙を玄関に貼った。工事のお知らせ。来月から上の階の人が引っ越す。入れ替えで天井裏の配線工事。昼間は騒音、夜は静か。紙の角が、空気でぴくぴく震える。私は貼られた文字の「静か」を二度読む。


「上が……静かに?」


 彼女が読んで、口の形が消えていく。音を言葉にして生きてきた人が、言葉で音に触れるのを失うとき、頬の内側が少しこける。私はとっさに言った。


「昼間は、うるさいかも」

「昼、私はいないでしょう」


 学校。彼女は自分の口で言いながら、自分の胸に当たる音を確かめるように手を置いた。昼間の騒音は、彼女には効かない。夜の静けさだけが問題だ。私は頭の中で引き出しを開け、入っているもののラベルを読み直す。四つ目の袋の口が湿る。慰めをやりたくなる癖。やらない。


「じゃあ、音を……作ればいい」


 私が言うと、彼女は、少しだけ笑った。現実的な笑い。わたしたちは音を作る計画を練った。椅子をずらす角度、壁に寄せた本を落とす振動、湯を落とすタイミング。上から聞こえるはずのものを、下から持ち上げる。非合法な振付。


 試してみると、成功率は五割くらいだった。時々、上の人の生活音とバッティングして、変な和音になる。変な和音でも、彼女は眠れた。私はそれでまた五つ目の袋を膨らませる。できることが増えると、期待は正しい顔をして近寄ってくる。正しい顔が一番、間違いの入り口だ。


 日曜日、私が宿題をしていると、インターホンが鳴った。二回、間を置いて一回。セールスのリズム。母が出て、短い声で追い払う。彼女はソファの背に指をかけ、息を止める。指の関節が白くなる。ドアの向こうの誰かが、もう一度ボタンを押しかけてやめた気配がして、静かになった。


「怖い?」

「怖いリズムでした」


 怖いリズム。言い得て妙だ。音にも暴力がある。静けさにも暴力がある。選べるのは、どちらに殴られたいかだけ。私は台所でコップを洗い、わざと小さな音を立ててみる。コツン。彼女の目の焦点が戻ってくる。


 次の日、学校の先生が言った。「最近、体調崩している子が増えてるから、体調に気を付けるように」。私は頷きながら、教室の窓の外で鳴っている工事の音を、それほど嫌いになれない自分に気づく。大きい音は、それだけで正直だ。


 月の半ば、私は図書室で新聞の地方欄をめくって、彼女の家の名字を見つけないように気をつけた。彼女の家はもう新聞に名前を載せない。名前が載るのは、回収された家具や、競売の結果や、役所の告示の方だ。名前はそこにはいない。いないことが、いることより重い。紙は軽いのに、情報は重い。私はページを閉じ、帰り、彼女のために安い耳栓を買った。夜の静けさから耳を守るために。彼女は包装をしばらく触ってから、首を振った。


「音を消すのは、逆に怖い」

「じゃあ、音を足す」

「音を足すのは、ほどほどに」


 彼女は笑った。ほどほど。それができる人は強い。


 その夜、上の階で皿が落ちた。本物の音。彼女の胸が一度大きく上下して、眠りが肩から降りてきた。私は横で彼女の呼吸の音を数え、指を折って、十で戻し、また数えた。数えることで、期待をすすぎ洗いする。小さく小さく。


 ある午後、母が早く帰ってきて、食卓に唐突に封筒を置いた。切手が貼られていない。ポストカードの束のように分厚い。裏に、見たことのある会社のロゴが印刷されている。彼女の家の、昔の取引先。母は封筒を二指でつまみ、軽く振って、中身が均一なことを確かめた。


「これ、ポストに間違って入ってた」


 誰かが古い住所録で投函したのかもしれない。彼女は封筒を見て、座ったまま背中を硬直させた。硬直した背中は悲鳴の代わりだ。母はその封筒を玄関の外の新聞受けに入れ直し、「知らない」と小さな声で言った。私たちは頷く。知らない。知らないことは防災。


 その晩、彼女は眠らなかった。上の音があっても、彼女は目を閉じなかった。目は夜の海になり、時間だけが波打った。私はソファ前の床に座って、髪ゴムを指で伸ばしたり縮めたりした。伸びるものは、戻るときが一番静かだ。


「ねえ」


 彼女が、夜の真ん中に言った。声は小さいけれど、宛名が私だとわかった。


「合図が来たら、出ていきます」

「合図?」

「上の音の、ある形」


 彼女は指を三回、ソファの縁に当てた。コツ、コツ、コツ。違う。二回、少し間を置いて一回。さっきのインターホンと同じリズム。怖いリズム。私の背中を汗が伝う。


「それが、来たら」


 彼女は言葉を止め、息を半分吸って、吐かない。


「帰る?」

「帰れない、ところに」


 その言い換えが、鋭い刃物みたいに部屋の空気を切った。帰る、は戻ること。戻る場所がない人は、行くしかない。行き先に名前がないとき、人は合図で歩く。


 私は五つの袋の口を指で押さえながら、口の中に生まれかけの言葉を数個殺した。止めない、約束を破る、助ける、見張る。どれも正しすぎる。正しすぎる言葉は危険だ。私は代わりに、体で言うことにした。毛布を彼女の足元に寄せ、部屋の隅の付箋の角をなで、台所のコップを静かに並べ直す。音を置き直す。彼女はそれを見て、眠らない目で頷いた。


 翌日、管理組合からもう一枚紙が来た。来週の水曜の夜から、上階の改装の前準備で、配線の切り回しのため夜間の断水。二十二時から五時。水の音が消える夜。上の音も、多分減る。増えるのは、空気の張りつめた感じ。紙を読みながら、私は彼女の肩がどうやって耐えるのかを想像して、想像が現実より重くなりそうで、慌てて軽くする。想像は軽く。重いのは現実だけでいい。


 学校で、担任が突然、進路希望調査票を配った。将来の話は今の話とは別の通貨で動く。私は名前欄にだけ鉛筆を置き、ふと思う。彼女の将来は、合図で始まるのだろうか。そんなことを思った瞬間、五つ目の袋の底で何かがひっくり返る音がした。期待。袋から出した覚えはないのに、机の上を歩いて、私のノートの端に座る。


 帰ると、玄関の砂が増えていた。新しい粒はいつも光り方が違う。彼女はその日の分を紙コップに追加し、「今日は多い」と言った。多いのは嬉しいのか、悲しいのか、彼女の顔にはどちらの解釈も並んでいた。


 夜九時、上の階から皿の音は来なかった。代わりに、天井のどこかが呼吸をやめたみたいに静かになった。私は椅子を動かし、本を落とし、盥を伏せ、いくつかの和音を作った。彼女の目は半分だけ柔らかくなり、半分は海のままだった。


「合図、今日は来ない?」


 自分で言って、後悔する。合図なんて招くものではない。彼女は首を振り、枕に顔を半分埋めた。


「合図が来る日は、きっと砂が少ない」

「どうして」

「上に、風が吹くから」


 詩のような理屈。意味は分からなくても、理解はできる。私は頷き、窓を少しだけ開けた。夜風が入ってきて、付箋の角を揺らす。印と印の間を風が歩く。


 火曜日、私は帰り道の自販機で、彼女がいた場所を見た。誰もいない。芝の色は先週より春に寄って、白線の上の黒ずみが薄くなっている。自販機のガラスに貼られた新しいキャンペーンのポスターが、ほんの少し剥がれて、角が外気に馴染んでいる。その剥がれ方が、彼女の爪の色の剝がれに似ていた。似ているだけで、何も起きない。私は水を買い、小銭が当たる音をポケットの布が呑み込むのを聞く。


 帰りの階段で、上の階の住人に初めて会った。段差の上で立ち止まったままの、無口そうな中年の男性。段ボールを抱えていて、手の甲に小さな切り傷がいくつもある。挨拶をすると、彼は頷くだけで通り過ぎた。段ボールに印刷された矢印が、上を指している。上へ。彼の背中に貼られたテープが少し剥がれかけていて、その角が、空気に合わせてぴくぴく動く。


 その夜、上の音は来なかった。代わりに、インターホンが二回、間を置いて一回、鳴った。私は立ち上がり、彼女が座ったまま凍りつくのを見て、母を見る。母は手で静かに「待て」をし、それから受話器をとる。


「はい」


 短い言葉。間。静かな、「どちら様ですか」。返ってきた声は、小さな会社の名乗り方をしていた。回収業者。不要品の引き取りで……。母は「ああ」と穏やかに頷き、「間に合ってます」と言って切った。扉の向こうの足音が遠ざかる。私の心臓は、胸の中で、さっきのリズムで叩く。二回、間を置いて一回。


 彼女は口を開かない。開かない口に、言葉がたまって重くなる。同じ部屋に私と母と彼女の三人がいて、それぞれ別の沈黙を持っている。沈黙は買い物袋みたいで、何も入っていないのに腕に痕を残す。


「水曜の夜、断水だね」


 母が、わざと明るく言った。明るく言う技術は、一日に何回も使うと鈍る。彼女は頷いた。頷き方が、昨日より少し固い。私の中で、五つ目の袋が自分の重さに負けて、口を少し開ける。中から小さな虫が出て、光の方へ飛ぶ。私はそれを追わない。追うと、捕まえたくなる。


 水曜の午前、学校で避難訓練があった。ベルが鳴る。規則的な、誰もが知っている怖い音。列を作る。廊下に出る。階段を降りる。私は列の後ろで、彼女の足の裏の震えを想像して、足首の内側を軽くつねった。痛みは想像を黙らせる薬。校庭の砂は乾いて、靴底にくっつかない。空は雲をかぶって、温度の境目が見えない。


 家に戻る途中、昼の工事の音が街に散っていた。金属が金属を叩く音、断線の切り子が跳ねる音、車のクラクションが交差点で迷子になる音。私はその混ざり方を、あえて好きだと思った。好きだと思えば、怖くならない。


 夕方、彼女はいつもの位置に座り、付箋の角を指で直した。私は台所で鍋を出し、時計を見た。二十二時まで、まだ時間がある。断水が始まるまで、音は作れる。作れる、と自分に言い聞かせる。作れることは、いつも現実より先に立つ。


 九時。上は静か。私たちは計画通り、椅子を動かし、本を落とし、盥を伏せる。彼女の呼吸は、それで一度、深くなる。私は安心を飲み込む。飲み込んだ安心は、喉の奥で小石になる。


 九時半。インターホンが鳴らない。鳴らないことが、鳴ることみたいに部屋に存在感を持つ。十時。水の音が、すっと消える。蛇口をひねる。空気だけが吐き出される。家じゅうの付箋が、いっせいに静かになる。冷蔵庫の呼吸だけが、遠い。


 彼女が立ち上がった。足音は柔らかい。柔らかい音は、消えるのが早い。彼女は玄関に向かい、砂を入れた紙コップを持ち上げる。砂は、今夜はほとんど増えていない。私は一歩近づき、声を出さないまま、母のいる台所の方向を見る。母は私を見て、一度だけ頷く。その頷きには、たくさんの言葉が折りたたまれている。開けると戻せない種類の言葉。


 そのとき、天井の向こうから、何かが三度叩かれた。違う。二度、間を置いて一度。私の皮膚が縮む。合図。玄関の空気が、わずかに重くなる。付箋の角が、同時にぴくっとした。


 彼女はコップを抱えて、笑った。笑いは、泣く前に来ることがある。


「行きます」


 私たちの部屋に、言葉が落ちた。床は揺れない。上の音だけが、まっすぐだった。私は五つの袋の口を、両手では足りない指で、片っ端から押さえた。怒り。羨望。羞恥。憐れみ。期待。最後の袋だけが、軽い音を立てて、私の手のひらから抜けた。


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