第97話 セシリアの決断
作戦会議室には緊張が漂っていた。
ヴァルトハイン公爵軍が二手に分かれ、一方はグロッセンベルグ、もう一方はノルデンシュタイン砦へと進軍しているとの報告を受けたばかりだった。ユリウスは広げた地図を前にして、目を伏せながら頭を悩ませていた。傍らでは、軍の幹部や各町の代表者が一堂に会していた。
「ノルデンシュタインを空にするわけにはいかんが……我々の戦力は決して多くはない」
グレン・リルケットが低い声で言った。かつて帝国の騎士団に所属していたというだけあり、場を引き締める威厳があった。
「俺が砦に戻るのが筋だろうが、グロッセンベルグに残るべきだとも思っている。ユリウス殿を支える者が中央にいなければ、全体の采配が乱れる」
「では誰が行く? リルケット殿以外で、砦の全体を見られる人材がいるとは思えん」
一人が声を上げると、周囲も同意するようにうなずいた。だが、それは答えが見つからないがゆえの安易な賛同であり、場に重苦しい沈黙を呼び込んだ。
そのとき——
「私が、ノルデンシュタインに参ります」
すっと立ち上がったのは、セシリアだった。
「セシリア様……?」
「いえ、ここでは正しく名乗りましょう。セシリア・フォン・グランツァール。帝国の皇女であり、元・帝都戦略魔導研究所主任。砦の指揮官としての資格はあると自負しております」
言葉は穏やかだったが、その瞳には揺るぎのない光が宿っていた。
「無理だ。セシリアに危険を背負わせるわけにはいかない」
と、ユリウスが即座に制した。
だが、セシリアはそれをやんわりと制するように手を差し出した。
「私は、危険を背負わせる立場にいる者です。戦禍を広げた帝国の一員として、何かを償いたい。そして……あの砦を放棄すれば、ヴァルトハインに“逃げた”と烙印を押され、次は市民が標的にされます」
「だが、魔導錬金砲とパワードスーツは最低限しか残せない。正面からの力押しには耐えきれませんぞ」
と、リルケットが言う。
「それでも、魔導通信と射程を活かせば、持久戦に持ち込めます。私なら、やれます」
ユリウスはセシリアの目を見つめた。
一国の皇女としてではなく、砦を守ろうとする者の目だった。
「……わかった。行ってくれるなら、信じるよ」
ユリウスがそう言うと、セシリアは静かにうなずいた。
「ありがとう。ノルデンシュタイン砦、必ず守ってみせます」
室内に重く漂っていた空気が、ほんの少しだけ動いた。
その覚悟が、皆の心に火を灯したようだった。
ノルデンシュタイン砦の指揮官として名乗りを上げたセシリアは、軍議の後、沈んだ表情を隠しきれずにいた。部屋を出ると、背筋を伸ばし堂々と歩こうとするが、指先は震え、目はどこか遠くを見ていた。
そんなセシリアに気づいたユリウスは、廊下の角でそっと声をかけた。
「セシリア、大丈夫?」
一瞬、彼女の表情が強ばる。しかし、すぐにそれを振り払うように微笑んだ。
「もちろんですわ。私、やると言った以上、後には引けませんもの」
「でも……怖いんじゃないかなって、僕にはわかる。無理はしないで」
その言葉に、セシリアの瞳がわずかに潤む。
「本当は……少しだけ、不安です。でも、皆が前を向いているのに、私だけ怯えていたら、それこそ皇女として……失格ですわ」
「皇女としてじゃなくて、セシリアとして、僕は心配してる。君は、いつも誰かのために頑張りすぎるから」
その優しい言葉に、セシリアの肩が小さく震える。
「……ありがとうございます、ユリウス様」
そのとき、どこからかパタパタと軽い足音が近づいてきた。リィナだ。
「お二人とも、そうやって見つめ合って、またいい雰囲気ですねー。まさかこのまま、砦の前線で戦うセシリア様に“出征前の口づけ”なんてするおつもりでは!?」
「なっ、ななな、何を言っているのですかリィナっ!」
セシリアが耳まで真っ赤になり、肩を怒らせる。
「ち、ちがうよ! そういうつもりじゃない!」
ユリウスも慌てて両手を振ったが、リィナは勝手に
「ふむふむ、やはり戦地の別れはロマンス……」
と一人で頷いている。
セシリアは顔を両手で覆い、ユリウスは頭を抱える。
「……リィナ、君はもう少し空気を読んでくれ」
「はいっ、では次は“勝利の凱旋と再会の抱擁”を想定した作戦も用意しておきますね!」
「……頼むから本気にしないで……」
温かな緊張感と、少しの笑いが入り混じるその空気は、戦いに向けて進む一歩に、確かな支えを与えるものとなっていた。




