第94話 エリザベートとライナルト
ヴァルトハイン公都の空は、夏の終わりを思わせる鈍い雲に覆われていた。
かつてユリウスとともに遊び、未来を語り合った庭園の一角に、今、エリザベートは立っていた。
馬車の音が近づく。降り立ったのは、喪服に身を包んだ若き将軍――ライナルト。
父ヴァルトハイン公爵の葬儀のため、一時帰還した彼は、そのまま執務室にも向かわず、まっすぐエリザベートの元へと現れた。
「久しぶりだな、エリザベート」
低く、乾いた声。その声に背を向けたままエリザベートは唇を噛みしめた。
「……私を、ここに閉じ込めておいて、どの面下げて」
「閉じ込めておいたのは、他の男に会わせないためだ」
「ユリウスのことでしょう? あなたには彼に勝てないわ」
その言葉に、ライナルトの口元がわずかに吊り上がった。
「勝てない? だからこそ、奪うのさ」
そう言って、彼は懐から一通の書簡を差し出す。
そこには帝国つまりは皇帝の承認印が押された結婚許可証と、婚姻届が添えられていた。
「ユリウスの元婚約者、帝国公認の名家の娘、そして――俺の妻。お前には、俺の子を産んでもらう」
エリザベートの顔が蒼白になる。
逃げようと後ずさった彼女の手首を、ライナルトが強引に掴む。
「やめて……!」
「この婚姻は、我がヴァルトハイン家の安定のためだ。拒否は許されない。もう、お前の気持ちなど関係ない。俺が“選んだ”のだ」
その言葉は、彼女の最後の抵抗心すらへし折った。
しばらくして、城の礼拝堂で質素に――だが形式的には完璧な――婚礼が行われた。
花嫁の顔には、ヴェールで隠しきれぬ絶望の色があった。
絶望はエリザベートに行動する力を与える。
月明かりが細い路地を照らしていた。
エリザベートはフードを深く被り、足音を忍ばせながら屋敷の裏門を抜けた。着の身着のままに近い格好だったが、それでも自由を得たことに心が震えた。
(ユリウス様……どうか、どうか……)
心は決まっていた。もう一度あの人に会いたい。声を聞きたい。
許されない想いかもしれないが、それでも、心だけは偽れなかった。
馬車も使わず、身を隠すようにして徒歩でグロッセンベルグを目指す。
いくつもの検問を避け、川沿いの道を選んだのは正解だった。追手の気配もない。
――そう思っていた、そのときだった。
「見つけたぞ、エリザベート様」
冷たい声が背後から放たれた。
驚いて振り返ると、森の影から数人の男たちが姿を現す。全員、黒衣の騎士装束――ライナルトの直属の私兵だった。
「やめて……お願い、戻りたくない!」
エリザベートは反射的に走り出した。だが、足は重く、空腹と疲労で力が入らない。
逃げ切れるはずもなかった。あっという間に腕をつかまれ、地面に引き倒される。
「離してッ!」
「無駄だ。お前はあの方の“所有物”だ。勝手な真似は許されん」
声には一片の情すらなかった。
彼女の目に涙が浮かぶ。悔しさ、恐怖、そして――あきらめ。
それでも、心だけは折れなかった。
(私の心は、まだ……)
薄れゆく意識のなかで、エリザベートは遠くグロッセンベルグの灯を思い描いた。
ヴァルトハイン公都の一角にある、かつて貴族令嬢として過ごしていた屋敷に、エリザベートは再び閉じ込められていた。
「おかえり、妻としての務めを忘れていたようだから、また教え込まないとね」
ライナルトのその言葉には、皮肉と支配の響きが混じっていた。
逃亡の果てに辿り着こうとしたグロッセンベルグ――ユリウスの元にたどり着く前に捕まり、護衛に拘束されてこの場所に戻された。
すでに形だけの結婚式は挙げられていた。逃げたところで、戸籍上も世間的にも、彼女はライナルトの妻であり、ヴァルトハイン家の正統な「妃」であると扱われる。
そして――
「妊娠しているようだな」
冷たく、乾いた声でライナルトは告げた。
エリザベートは俯き、小さく震える肩を押さえた。
(子どもに罪はない……でも、どうして、こんな……)
ユリウスの面影が脳裏をよぎる。
笑った顔も、まっすぐに言葉を向けてくれたあのまなざしも。
だが、それはもう、二度と届かない遠い場所のもの。
「いい子を産め。お前のような美しい女との子なら、次代の旗印にもなる」
「……」
応えなかった。応えたくなかった。
だが、否定もできなかった。
婚姻は済んでいる。逃げたことで、どんな言葉をかけても「裏切り者」の印象は消えない。
今や彼女は、望まぬ形でライナルトの妻となり、彼の子を宿す存在。
(ユリウス様……)
心のなかで、何度も呼んだ。
けれど、声が届くことはない。
それでも、エリザベートはまだ――絶望してはいなかった。
(生まれてくるこの子が、私に残された最後の希望かもしれない……)




