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外れスキル〈工場〉で追放された兄は、荒野から世界を変える――辺境から始める、もう一つの帝国史――  作者: 工程能力1.33
1章

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第94話 エリザベートとライナルト

 ヴァルトハイン公都の空は、夏の終わりを思わせる鈍い雲に覆われていた。

 かつてユリウスとともに遊び、未来を語り合った庭園の一角に、今、エリザベートは立っていた。

 馬車の音が近づく。降り立ったのは、喪服に身を包んだ若き将軍――ライナルト。

 父ヴァルトハイン公爵の葬儀のため、一時帰還した彼は、そのまま執務室にも向かわず、まっすぐエリザベートの元へと現れた。


「久しぶりだな、エリザベート」


 低く、乾いた声。その声に背を向けたままエリザベートは唇を噛みしめた。


「……私を、ここに閉じ込めておいて、どの面下げて」


「閉じ込めておいたのは、他の男に会わせないためだ」


「ユリウスのことでしょう? あなたには彼に勝てないわ」


 その言葉に、ライナルトの口元がわずかに吊り上がった。


「勝てない? だからこそ、奪うのさ」


 そう言って、彼は懐から一通の書簡を差し出す。

 そこには帝国つまりは皇帝の承認印が押された結婚許可証と、婚姻届が添えられていた。


「ユリウスの元婚約者、帝国公認の名家の娘、そして――俺の妻。お前には、俺の子を産んでもらう」


 エリザベートの顔が蒼白になる。

 逃げようと後ずさった彼女の手首を、ライナルトが強引に掴む。


「やめて……!」


「この婚姻は、我がヴァルトハイン家の安定のためだ。拒否は許されない。もう、お前の気持ちなど関係ない。俺が“選んだ”のだ」


 その言葉は、彼女の最後の抵抗心すらへし折った。

 しばらくして、城の礼拝堂で質素に――だが形式的には完璧な――婚礼が行われた。

 花嫁の顔には、ヴェールで隠しきれぬ絶望の色があった。


 絶望はエリザベートに行動する力を与える。

 月明かりが細い路地を照らしていた。

 エリザベートはフードを深く被り、足音を忍ばせながら屋敷の裏門を抜けた。着の身着のままに近い格好だったが、それでも自由を得たことに心が震えた。

(ユリウス様……どうか、どうか……)


 心は決まっていた。もう一度あの人に会いたい。声を聞きたい。

 許されない想いかもしれないが、それでも、心だけは偽れなかった。


 馬車も使わず、身を隠すようにして徒歩でグロッセンベルグを目指す。

 いくつもの検問を避け、川沿いの道を選んだのは正解だった。追手の気配もない。

 ――そう思っていた、そのときだった。


「見つけたぞ、エリザベート様」


 冷たい声が背後から放たれた。

 驚いて振り返ると、森の影から数人の男たちが姿を現す。全員、黒衣の騎士装束――ライナルトの直属の私兵だった。


「やめて……お願い、戻りたくない!」


 エリザベートは反射的に走り出した。だが、足は重く、空腹と疲労で力が入らない。

 逃げ切れるはずもなかった。あっという間に腕をつかまれ、地面に引き倒される。


「離してッ!」


「無駄だ。お前はあの方の“所有物”だ。勝手な真似は許されん」


 声には一片の情すらなかった。

 彼女の目に涙が浮かぶ。悔しさ、恐怖、そして――あきらめ。


 それでも、心だけは折れなかった。

(私の心は、まだ……)


 薄れゆく意識のなかで、エリザベートは遠くグロッセンベルグの灯を思い描いた。



 ヴァルトハイン公都の一角にある、かつて貴族令嬢として過ごしていた屋敷に、エリザベートは再び閉じ込められていた。


「おかえり、妻としての務めを忘れていたようだから、また教え込まないとね」


 ライナルトのその言葉には、皮肉と支配の響きが混じっていた。

 逃亡の果てに辿り着こうとしたグロッセンベルグ――ユリウスの元にたどり着く前に捕まり、護衛に拘束されてこの場所に戻された。

 すでに形だけの結婚式は挙げられていた。逃げたところで、戸籍上も世間的にも、彼女はライナルトの妻であり、ヴァルトハイン家の正統な「妃」であると扱われる。


 そして――


「妊娠しているようだな」


 冷たく、乾いた声でライナルトは告げた。

 エリザベートは俯き、小さく震える肩を押さえた。


(子どもに罪はない……でも、どうして、こんな……)


 ユリウスの面影が脳裏をよぎる。

 笑った顔も、まっすぐに言葉を向けてくれたあのまなざしも。

 だが、それはもう、二度と届かない遠い場所のもの。


 「いい子を産め。お前のような美しい女との子なら、次代の旗印にもなる」


 「……」


 応えなかった。応えたくなかった。

 だが、否定もできなかった。

 婚姻は済んでいる。逃げたことで、どんな言葉をかけても「裏切り者」の印象は消えない。

 今や彼女は、望まぬ形でライナルトの妻となり、彼の子を宿す存在。


(ユリウス様……)


 心のなかで、何度も呼んだ。

 けれど、声が届くことはない。


 それでも、エリザベートはまだ――絶望してはいなかった。


(生まれてくるこの子が、私に残された最後の希望かもしれない……)


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