第93話 ライナルトの決行
ライナルト・フォン・ヴァルトハインは、南征の野営地に設けられた指令幕舎の奥で、報告書に目を通していた。内容はグロッセンベルグの現状。
荒野から帰還したはずの兄――ユリウスの勢力が、周辺の都市国家を次々と懐柔し、経済と軍事の両面で一つの同盟網を築きつつあるというものだった。
「くだらん……地方都市を二つ三つ取り込んだ程度で、何が“外交的勝利”だ」
書状を握り潰す。だが、その震える手は怒りからではない。焦りだ。
兄の名が、兵たちの口からささやかれるようになっているのを、彼は知っていた。
“本来の継承者”“真の公爵家嫡子”“鉄の砦を築いた男”。
忌々しい称号の数々が、彼の耳に届くたび、心臓が締め付けられるようだった。
(グロッセンベルグを奪っただけではない……周囲の都市まで味方につけて、公爵領簒奪を夢見ているのか?)
自分は戦争に勝っている。敵の都市を占領し、街を焼き、金を奪っている。
だが、得るものの質が違う。兄は、人心を得ていた。
「このままでは……父上の目が――」
父、すなわちヴァルトハイン公爵。彼の絶対的な後ろ盾。
だが、その父がグロッセンベルグの急成長に心を動かし、万が一にも――
その可能性を想像した瞬間、ライナルトの中で、なにかが静かに決壊した。
「公爵……いや、“あの老いぼれ”が、ユリウスを再び呼び戻すようなことがあれば、俺の未来は潰される……!」
机を叩き、椅子から立ち上がる。思考は既にひとつの結論へと収束していた。
「やるしかない。あの男が生きている限り、俺は“弟”のままだ……!」
ライナルトは幕舎の帳を押し開けると、信頼する部下を呼び寄せた。
「今夜、話がある。……選りすぐりの者を集めろ。間違っても口外するな」
その目には、決意と狂気が同居していた。
彼はもう戻れない。兄を越え、家を継ぎ、公爵の地位を手にするため――。
ライナルトは、己の父を殺すと決めた。
――――
南部戦線。ヴァルトハイン公爵の野営本陣。
戦勝の祝宴が終わり、酒と喧騒が静まった深夜。公爵の天幕を守る兵たちは、既に酔いと疲労で気の緩みを見せていた。だが、その中を一人の男が、堂々とした足取りで奥の帳へ向かう。
「父上、お時間をいただけますか」
それはライナルトだった。将軍としてこの戦の先鋒を務めた彼に、衛兵は敬礼し、何も疑わずに通す。
「……何だ。こんな夜更けに」
帳の奥、老いた公爵は椅子に腰かけ、地図と報告書に目を通していた。眼差しは鋭いが、以前よりも覇気は薄れている。ライナルトは静かに一礼し、机の前に立った。
「グロッセンベルグが周辺都市と手を結び、勢力を増しております。兄、あの出来損ないが、グロッセンベルグを掌握してからというもの、流れがあちらに」
公爵の手が止まる。瞼がかすかに動いた。
「……ほう。それで?」
「父上。軍の一部を北へ戻し、直ちに反攻すべきかと」
「馬鹿を言うな。今、南部を押さえねばならんのだ。あの地を落とせば、南部諸貴族への補給線を断てる。グロッセンベルグなど、あとで潰せばよい」
「……それでは、兄が足場を築く時間を与えるだけです。奴は、きっと手を打ってくる」
「貴様はまだ兄に劣等感を抱いているのか? “出来損ない”に怯えるな。そんなことより、貴様の務めを果たせ、ライナルト」
その言葉に、ライナルトの表情が一瞬歪む。だが、すぐに元の冷ややかな顔へ戻った。
「……ええ、務めは果たします。父上」
そして、ライナルトは静かに歩み寄り、机の地図の上に小さな金属瓶を置いた。
「お休み前に、酒を一杯。遠征の勝利を祝して……」
公爵はわずかに眉をひそめたが、息子の差し出す杯に疑いは抱かなかった。
翌朝。
ヴァルトハイン公爵、遠征先にて病死と公式に発表。
軍内は一時騒然としたが、すでに将兵の支持を得ていたライナルトが、混乱を抑え、公に「後継」として名乗りを上げた。




