第87話 移住希望の確認
ノルデンシュタイン砦の朝は、肌寒い霧とともに始まった。だが、砦の中にはいつもより温かな空気が満ちていた。
ユリウスは中央広場に集まった民たちの前に立ち、深く一礼した。
「皆さん。グロッセンベルグの代官――ヘルマンは、すでにその地位を追われました。町も戦火には巻き込まれず、混乱も収まりつつあります」
どよめきと、安堵の息が広場に広がった。
「本来、皆さんが暮らしていた場所です。家も土地も、そこにあります」
ユリウスの声は静かだったが、言葉は確かに民の心に届いた。
「ですが……私たちはあくまで砦を拠点とする身です。いずれ、再びあの町が戦場になる可能性はある。そこで、皆さんに問います。戻りますか? それとも、ここに残りますか?」
民たちは顔を見合わせた。中には目に涙を浮かべる者もいる。懐かしき故郷への想いと、ここで築かれた新しい絆。両方の間で揺れていた。
沈黙のなか、年老いた男が一歩前に出た。
「町に戻れると聞いて、うれしくない者はいません……だが、わしらの家はもう、あんたたちの工房や畑のそばにある。孫も砦の学校に通いはじめた。もはや、この地も……我らの故郷じゃよ」
それを皮切りに、次々と声があがった。
「わたしはここに残るわ。ユリウス様と一緒にいたいし……」
「砦の水も悪くない。畑ももうすぐ収穫できるんだ」
「グロッセンベルグは町だけど、ここには希望がある」
ユリウスは、思わず苦笑した。
「……希望、ですか。責任重大ですね」
「だからこそ、俺たちはここに残るのさ!」
少年が叫ぶように言い、笑った。広場に笑い声が広がる。
ユリウスはひとつ頷いた。
「ならば、ここを守ります。皆さんが故郷と呼べる場所を、僕たちが築いていきましょう」
そう言った後も日が傾きはじめるまで砦の広場で、ユリウスは住民たちの声に耳を傾けていた。
「俺たちは戻りませんよ……」
「そうだ。ユリウス様がいてくれるなら、ここで生きていける!」
「もう一度、この町で始めるんです!」
老若男女が口々に叫び、まるで一つの声のようにユリウスを包み込んだ。
――こんな日が、本当に来るなんて。
ユリウスは、ゆっくりと目を伏せた。肩が震え、こらえきれずに涙がこぼれ落ちる。
そこへ、ミリが駆け寄ってきた。
「お、おい兄貴、泣いてんのかよ……!」
焦ったように声をかけるミリだったが、次の瞬間、口を噤む。
見たことのないユリウスの顔――安堵と喜びがないまぜになった、心からの涙。
ミリは慌てて顔を背けたが、ぽそっと呟いた。
「……ったく、しゃーねえな」
そう言うと、そっと自分のスカーフを外して、ユリウスの目元に押し当てた。
「お前が無理してるの、あたしは知ってっからな。……少しは甘えとけ」
その声は、普段のような怒鳴り声ではなく、どこか震えていた。
「……ありがとう、ミリ」
ユリウスは、かすかに笑って答えた。
数歩離れた場所から、その様子を見守っていたセシリアは、そっと微笑み、心の中で呟く。
(……今回は、譲りますわ)
するとその直後、背後から聞こえてきた無機質な声。
「セシリア様。無理をなさらずとも、大丈夫です」
「っ!? リィナ……いま、心を読んだのですか?」
「いえ。ただ、顔に書いてありました」
淡々と返すリィナに、セシリアは肩を落としながらも、どこか安心したように息をついた。
「まったく……油断も隙もありませんわね」
「ユリウス様のためですから」
そうして、夕日に照らされる広場には、少しだけ温かな空気が満ちていた。
戦いの準備が続く日々の中で、束の間の、しかし確かな絆の時間だった。




