第8話 解放
馬車が止まる。軋む音と、冷たい風の音だけが聞こえた。ブタ商人の隣にいたあの男、ユリウスが馬車から降りる。あたしは、まだ座り込んでいた。どうせ、ここも変わらねぇ。次の「ご主人様」も、きっと同じだ。どうせ、命令を聞かなきゃ怒鳴られて、動かなければ鞭が飛んでくる。そして、あたしはまた、何の役にも立たないって、誰かに売り飛ばされるんだ。そんなことの繰り返し。もう、何も期待なんてしない。
御者が、冷たい声であの男に言い放った。「ここから北が、お前らの住む場所だ。生き残れるもんなら、な」。その言葉は、あたしの凍りついた心に、さらなる冷気を吹き込むようだった。ここが、あたしの終着点。どこまでも続く灰色の景色の中で、朽ちていくだけの場所。
ユリウスは、振り返って、あのボロボロの砦を見上げた。それから、あたしに顔を向ける。その目には、いつもの冷静な、何を考えているのか分からない光が宿っていた。そして、あの、不思議な言葉を口にした。
「……ここが、僕たちの新しい家だ、ミリ」
僕たちの、家? また、適当なことを。どうせ、すぐに、あたしを捨てるくせに。
御者が馬車を反転させて、遠ざかっていく。もう、あたしとユリウスの他には、この広大な荒野に誰もいない。その時、ユリウスが、あたしの目の前に立った。いつもと変わらない顔。でも、その瞳が、まっすぐにあたしを見つめていた。その視線に、わずかな不安がよぎる。何か、気に障ることでもしただろうか。
「ミリ」
その声が、静かに、あたしを呼んだ。
そして、信じられない言葉が、彼の口から紡がれたんだ。
「君を、奴隷から解放する」
……は?
あたしの頭は、一瞬真っ白になった。今、こいつ、何て言った? 解放? そんな言葉、聞いたことねぇ。売られるか、戻されるか、それだけだ。
「……何を、言ってるんだ?」
喉が張り付いたみたいに、かすれた声しか出なかった。冗談なのか? それとも、新しい、意地の悪いからかい方か?
「この砦で、僕が作りたいものがある。それは、僕一人の力では実現できない。君の力が必要だ。だから、君を道具として扱うつもりはない。共に、この場所を、新しい工場を、築いてくれる仲間が欲しいんだ」
彼の言葉は、淡々としていて、感情がこもってるようには聞こえなかった。でも、その言葉の一つ一つが、あたしの心に、冷たい氷を溶かすように響いてきた。道具じゃない? 仲間? そんなこと、誰も言ってくれなかった。あたしは、ずっと、ただの道具だったのに。
「……あたしは、奴隷じゃ、ないのか?」
もう一度、震える声で尋ねた。まだ信じられなかった。そんなこと、あっていいのか?
彼は、静かに首を横に振った。
「そうだ。これからは、対等な関係だ。君は、自由だ」
ユリウスはそう言うと、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。それは、奴隷の売買に使われる正式な契約書だった。彼は、その羊皮紙をミリの目の前で、音を立てて二つに引き裂いた。破れた紙片が、冷たい風に舞い、荒野の空へと吸い込まれていく。その光景は、ミリのこれまでの呪われた過去が、まるで断ち切られたかのようだった。
その瞬間、あたしの心の中で、何かが音を立てて弾けた気がした。今までずっと、灰色にくすんでいた視界に、ほんの少し、色が戻ったような気がした。瞳の奥に、長く忘れ去っていた、小さな、小さな光が灯った。それは、喜びとか、そういうのとは少し違う。ただ、重くのしかかっていた何かが、少しだけ、軽くなったような、そんな、不思議な感覚だった。
自由。その言葉の響きは、まだ現実味がなかった。でも、この男の目は、嘘をついているようには見えなかった。荒れ果てた砦を前に、あたしは初めて、明日というものが、少しだけ、違うものになるかもしれない、と思った。
ユリウスは破れた契約書が風に舞うのを見送ると、振り返って砦の門を見上げた。
「さあ、入ろう。まずは、雨風をしのげる場所を確保しないと」
ユリウスが砦の中へ足を踏み入れようとした、その背中に、ミリは慌てて声をかけた。
「あ、あんた……!」
そう呼びかけたものの、すぐに言葉に詰まった。もう「ご主人様」じゃない。じゃあ、なんて呼べばいいんだ? ユリウス、と名前で呼ぶのは、なんだか照れくさいし、まだ慣れない。これまで誰の名前も呼んだことがない。それに、この男は、さっきまで自分を縛り付けていた鎖を、たった今、断ち切ってくれたんだ。奴隷を解放するなんて、普通じゃねぇ。
戸惑うミリに、ユリウスが振り返って首を傾げた。
「どうした、ミリ?」
その優しい声に、あたしは決心した。名前はまだ無理だ。でも、もう、「あんた」じゃない。そう、この男には、たった今、あたしを奴隷から解放した、あたしの「恩人」への、少しばかりの敬意を示したい。
「……兄貴!」
あたしの口から出た言葉は、意外にもはっきりとしていた。ユリウスには双子の弟がいると言っていたから、その呼び方が、なぜかしっくりきた。
ユリウスは、一瞬、目を見開いたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻り、小さく「ああ」と頷いた。その表情は、あたしの呼び方を咎めるでもなく、かといって特に喜ぶでもなく、ただ受け入れただけのように見えた。
だが、その瞬間、あたしの心の中に、今までになく温かい、新しい感情が芽生えるのを感じた。この、廃墟の砦の門前で、あたしは、ようやく本当の「自分」になった気がした。
この後コミカルな雰囲気になります。文体も変えているのでお覚悟を。




