第79話 ヘルマンの最期
グロッセンベルグの北方、水源地帯を流れる清流のほとり。木々に囲まれた薄暗い小道を、ヘルマンの馬車がきしむ音を立てて進んでいた。
「……奴らめ。和平だのなんだのと甘言を弄しおって……っ」
ヘルマンは独りごち、震える手で懐の小箱を握りしめた。その中には、ヴィオレッタから渡された毒の小瓶。ひとたび水に混ぜれば、一つの都市を沈黙させるほどの猛毒だ。
「砦など取るに足らん。だがこの街を奪われたままでは、公爵様に……いや、全てに顔向けができん……!」
馬車を降り、彼は水面近くの岩場へ足を進めた。ここは、グロッセンベルグの飲用水を担う分水点の一つ。ここを毒せば、あらゆる生活と軍事が機能不全に陥る。砦への補給も断たれ、敵は終わる。
震える手で箱の蓋を開け、小瓶を取り出す。だが、その瞬間。
――バキッ。
背後で枝を踏みしめる音。風の音ではない。明らかな、足音だった。
「……誰だ?」
振り返ったヘルマンの視線の先に、黄昏に沈んだ森の闇から、金の双眸がいくつも浮かび上がった。
「狼……ッ!」
それは瘴気に染まった異形の群れ――“飢えた群れ”と呼ばれる野生の魔獣たち。ヘルマンの手が震える。毒の瓶を落としそうになるが、必死に握りしめる。
「よ、寄るな……っ! 俺には、まだやるべきことが……!」
一歩、二歩と後ずさり。だが狼たちは包囲を狭めてくる。逃げ道はない。
「そうだ……いざとなれば、俺がこの毒を……飲めば……」
震える手を口元に持っていく。だが、できなかった。瓶を開ける勇気が出ない。
(嫌だ……死にたくない……!)
次の瞬間、一頭の狼が飛びかかった。
「うわあああああっ!」
毒の瓶は地面に転がったが、割れはしなかった。ただ、草の上にぽつんと横たわるだけ。
その傍らで、ヘルマンの悲鳴が、森の奥に消えていった。
瓦礫と化した市庁舎の前――。
リルケット率いる救助隊が現場に駆けつけた。彼女は外壁の崩れた部分に目をやりながら、仲間たちに的確に指示を出す。
「重機は間に合わないわ。魔導スリングで梁を浮かせて! そこ、まだ息のある兵士がいるわ!」
「了解! こっちも一名、発見!」
セシリアとミリもオリオンの力を借りて、瓦礫の撤去を手伝っていた。
「ユリウス様、兵士たちの多くは気絶か軽傷のようです」
「よかった……死者が少なければ、それでいい」
そのとき――。
「そこの方! ユリウス様の軍の方でしょうか!?」
遠くから、まだ息を切らした文官たちが数人、駆けてきた。
その中の一人が、ユリウスたちに深く頭を下げる。
「代官ヘルマンは、混乱の中、この街から姿を消しました。我々はもはや戦う意志を持ちません。どうか、これ以上の流血は――」
ユリウスは静かに頷いた。
「わかりました。あなた方の降伏を受け入れます。市庁舎と町の管理は、こちらが一時的に引き継ぎます」
文官たちは安堵の表情を浮かべたが、すぐにリィナが口を開いた。
「……ヘルマンが逃げた、というのが気がかりです」
ユリウスも表情を引き締めた。
「そうだな。あの男が何かを仕掛けていないとは限らない。すぐに捜索を始めよう」
その後、ユリウスたちは兵士を分け、城壁外と周辺の河川沿いを調査。
そして、川辺の小道で、森に続くぬかるんだ地面に奇妙なものを見つける。
「……これは……」
リィナが指差した先にあったのは、血まみれの衣服――代官ヘルマンのものと思しき、赤い縁取りの外套だった。草むらの奥には、ずたずたに裂かれた人の死体。顔は潰れ、誰とも識別できない。
だが、その傍らには――。
「この小瓶……見覚えがあります。魔導ガラス製の毒薬容器。割れず、魔力にも強い構造……」
セシリアが拾い上げた小瓶は、蓋が開いたままの状態で、毒素がすでに流れ出たことを示していた。
「まさか……川に……?」
「いや、川への流出はないようだ」
ミリがあたりの水草を調べ、頷いた。
「だが、これは確かに毒を撒こうとしていた証拠だ。……逃げ場を失って、使うつもりだったのかもしれない」
「その前に、野生動物にやられた……ということか」
ユリウスは静かに外套を拾い上げ、空を仰いだ。
「……これが、あの男の末路か」




