第78話 逃げるヘルマン
崩れた市庁舎の壁の向こう――粉塵が舞う瓦礫の中から、オリオンのシルエットが姿を現す。その装甲に、まだ慣れない動きがぎこちないながらも、威圧感は十分だ。
「ユリウス様、無事ですか!」
リィナが駆け寄ると、瓦礫の影からすっくと立ち上がる青年――きりっとした表情のユリウスが現れた。
だが――。
「って、お前その格好……」
ミリが目を丸くする。
ユリウスの姿は、市庁舎への潜入時に着ていたメイド服のままだった。戦闘の最中にすっかり忘れていたらしい。
「……しまった。着替える暇がなかった」
「は、はやく脱げ! そんなんで人前に立つな!」
ミリは真っ赤になって顔を背けながらも、チラチラと横目で見ていた。
「……べ、別に似合ってるとか思ってないからな。ただ、その、目のやり場に困るだけで……」
その様子を見て、リィナはクスクスと笑った。
だが、その直後。
「――ぐっ、まずい!」
リィナが振り返る。市庁舎の裏手の路地から、一人の影が走り去っていた。
「ヘルマン、逃げました!」
「追うぞ!」
ユリウスはメイド服のまま剣を握りしめ、オリオンの横を駆け抜ける。
――――
裏路地に出たヘルマンは、汗だくで肩で息をしていた。
「くそ……化け物どもめ……なんだあの機械は……っ! 無理だ、勝てるわけがない……!」
逃げるしかないと歯噛みするヘルマンの前に、黒衣の女がひとり、静かに立ちはだかった。
「……ヴィオレッタ」
「逃げるのね、ヘルマン」
「ち、違う! 退却だ、戦略的な撤退だ!」
ヴィオレッタは冷ややかな瞳で彼を見下ろし、懐から小瓶を取り出す。それは薄紫色に濁った液体――毒。
「カール公爵からの伝言です。『万が一にも、出来損ないに背を見せたら殺せ』……だそうよ」
「な、何だと……!」
「最後のチャンスです。これで街を取り戻すか、飲んで死ぬか。お好きにどうぞ」
震える手で小瓶を受け取るヘルマン。その顔はすでに青ざめ、足元は震えていた。
「……これが、公爵からの最後通牒、か」
小瓶の中には澄んだ液体がわずかに揺れていた。香料のような甘い香り。それが却って不気味だった。少量で軍一個を壊滅させる毒──ヴィオレッタがそう言った。
「使い方は簡単。グロッセンベルグを流れる川に、この毒を流せばいい。機械兵も、兵士も、民草も、すべて終わり」
「それで功績になると思ってるのか? ヴィオレッタ……!」
毒を握りしめた手が震える。眉間に浮かんだしわが深まる。ヘルマンの脳裏には、自分の街が壊れるのことが浮かんだ。
そして、あふれるユリウスへの憎悪
「なぜ、あの出来損ないが……あの小僧が……! なぜ私がこんなめに!!」
壁を叩く。だが響くのは、空虚な音だけだった。
「こんなもの……これが私の最期の切り札だと? ふざけるなッ!」
叫びながらも、ヘルマンは毒の小瓶を懐にしまう。
「私は……私はまだ負けていない。砦を奪い返し、この毒で奴らの繁栄を破壊する。公爵の命令だ。これは命令なのだ……!」
独り言のような呟き。もう誰も聞いていないはずのその言葉が、まるで自らに言い聞かせる呪文のようだった。
ヴィオレッタますでに壊れるヘルマンを見て笑う。
「……さて、どうなることやら。最後の一押しはしてやったわよ、ヘルマン。あとは……あんたの意志次第ね」
その瞳には冷たい光が宿っていた。




