第73話 崖っぷち
グロッセンベルグの代官屋敷。重苦しい空気が立ちこめる執務室に、一通の書簡が届けられた。
ヘルマンは手にした封筒をじっと見つめていた。赤い封蝋には、三本の剣と鷲の紋章――ヴァルトハイン公爵家の紋が刻まれている。
「……とうとう来たか」
呟きながら封を切る。中から取り出した羊皮紙に、震える手で目を通した瞬間、顔色が見る間に青ざめていく。
『敗戦の責は重い。お前の采配が我が名に泥を塗った。汚名をすすげぬのなら、死をもって償え』
直筆のサイン。重厚な筆致で書かれた「カール・フォン・ヴァルトハイン」の名が、容赦なくヘルマンの胸を貫いた。
手が勝手に震え、書簡を床に落とす。
「な、なぜだ……まだ、終わっていない……!」
震える声で叫ぶが、その叫びは虚しく空間に吸い込まれた。
――指揮官を失って退却したとはいえ、兵の半分は戻った。まだ戦える。まだ挽回できる。
ヘルマンはよろめきながら机に手をつき、歯を食いしばった。
「そうだ……砦だ。あの砦にある技術を手に入れれば……公爵閣下は、きっと許してくださる……!」
狂気に縋るような眼差しで、窓の外を睨む。そこには、既に夕闇が忍び寄っていた。
「ユリウス……貴様さえいなければ……」
ヘルマンの脳裏に浮かぶのは、巨大な機械兵とともに投石機を破壊し、自軍を蹴散らしたあの少年の姿。
彼の目が、暗く、鈍く光った。
「どんな手を使ってでも……砦を、手に入れてみせる」
ヘルマンは焦燥を隠しきれない顔で、部下に命じていた。
「……奴を、もう一度呼べ。あの女、ヴィオレッタをだ」
しばらくして、例の黒衣の女――ヴィオレッタが再び姿を現した。
「あら、またお会いするなんて。前回の失敗は残念でしたね」
艶やかな微笑を浮かべながらも、どこか突き放すような態度。
ヘルマンは机に両手を叩きつける。
「ふざけるな! あんな薬が効かないとは聞いてなかったぞ!」
「おかげで、あなたのところからは撤退命令が出ました。帝都でも私たちの立場、微妙になってますの。これ以上、あなたの無計画に付き合えば、こちらも危険ですわ」
「おい、待て。まだ策はある。協力すれば、砦の機械兵を全部――」
「いえ。結構です」
ぴしゃりと冷たく言い放ち、ヴィオレッタは踵を返す。
「……ユリウス様は、もう私の手では落とせません。残念ですけどね。ふふっ。セシリアちゃんも本気になるでしょうし」
黒衣の裾を翻して去っていくその後ろ姿を、ヘルマンは拳を握り締めて見送った。
「くそっ、使えん女め……!」
苛立ちを胸に、彼の思考は次なる策――もっと卑劣で、もっと確実な罠へと移っていく。
「……ならば。和平を装うまでよ。やつが人道と理性を捨てきれないなら――それが命取りになる」
ヘルマンは紙と筆を手に取り、丁寧に停戦協定の申し入れ状を書く。
「よもや、断りはせんだろう……あのガキめ」
唇の端が、ゆっくりと、薄ら笑いを描いた。




