第70話 リィナママ
リルケットの鋭い視線が、ヴィオレッタに突き刺さる。
「……貴様、何者だ?」
ヴィオレッタは笑みを崩さず、優雅に身を引いた。その足元には、こぼれた薬液が床に染みを作っている。
「まぁまぁ、そんな怖い顔をなさらずに。わたくしはただ、彼の心を癒そうと……。疲れた彼には、少し甘い夢が必要だっただけ」
「ふざけるな!」
リィナの瞳が怒りに燃え、魔導出力を上げた拳を握る。彼女の身体からは、ゴーレムとは思えぬ感情の奔流があふれていた。
「ユリウス様を――利用しようとしたこと、絶対に許さない!」
「許すも何も……彼はもう、わたくしを『ママ』だと呼んでいたでしょう?」
その言葉に、リルケットの表情が一瞬強張る。ユリウスの精神状態は、まだ完全には戻っていないのだ。
「リィナ、彼を連れて下がれ。私がこいつを押さえる」
「……了解です、リルケットさん」
リィナは、まだ意識の朦朧とするユリウスを優しく抱え上げる。その目には、怒りと哀しみが混ざった光が宿っていた。
「ユリウス様、もう大丈夫です。帰りましょう……みんなが待っています」
リルケットは一歩前へ進み、腰の剣に手をかける。
「今すぐ降伏すれば、命だけは助けてやる。グロッセンベルグの犬が、ここで何をしていたか……たっぷり報告してもらう」
「おやおや……怖い人たちに囲まれてしまったわね」
ヴィオレッタはくすりと笑い、袖口から小さなガラス瓶を取り出す。
「では、また会いましょう――今度はもっと、可愛い彼に会えることを期待して」
瓶を床に叩きつけると、紫色の煙が一気に部屋に充満する。
「くっ、煙幕か……!」
リルケットが咄嗟に剣を抜くが、ヴィオレッタの姿は既にその場から掻き消えていた。
リィナは急いで窓を開け、ユリウスの呼吸を確保する。
「ユリウス様、しっかりしてください……もう、誰にも、あなたを渡さない」
「ユリウス!」
ミリが駆け込んでくる。続いてセシリアも現れ、ヴィオレッタに薬を飲まされたユリウスを心配そうに見つめた。
「ユリウス、しっかりして!」
セシリアの声に、ユリウスがふらりと身体を起こす。そして、虚ろな瞳でリィナを見つめ――
「……まま……?」
その一言に、全員が凍りついた。
「……は?」
ミリとセシリアが同時に目を見開く中、リィナは一拍おいて――
「まあまあユリウスちゃま、おきまちたか~? よちよち、ママがぎゅーしてあげまちゅよ~」
ノリノリでユリウスの頬に手を添え、まるで本物の母親のような声色で甘やかしモードに入るリィナ。
「ち、ちがっ……ちがっ……! なにやってんのよあんたはぁぁぁぁ!!」
ミリがリィナの背中を全力で叩く。
「や、やめてくださいミリ様っ、ユリウスちゃまの心のケアをっ、わたくしなりにぃっ!」
「おい、ややこしくなるからやめろ! ユリウスが本気で信じたらどうすんだ!」
「ママ~、ぎゅってしてぇ~……おなかすいたぁ~……」
ユリウスがぐずり始め、リィナのスカートの裾を握る。
「はうっ……これは罪悪感と幸福感の二重奏……!」
「リィナ、ほんとにやめて! ほら、セシリア! なんとかして!」
ミリが必死に訴えるが、セシリアは口元に手を当て、ぷるぷると肩を震わせていた。
「ふふ……ご、ごめんなさい……だって……リィナったら……」
「笑ってる場合じゃないでしょぉぉぉぉっ!!」
ミリの絶叫が執務室に響き渡る中、リィナは至福の表情でユリウスを抱きしめていた。




