第69話 迫る毒
砦の門前。砂塵をあげながら、商隊がゆるやかに進んでいた。物資を求めるこの砦にとって、行商人の来訪は歓迎すべきことだ。だが、今日の隊列の最後尾には、注意を引かないように慎重に身を隠している女の姿があった。
ヴィオレッタ――薄布で顔の下半分を覆い、慎ましい薬草売りに扮していたが、その瞳は爛々と輝いていた。
(この砦……機械兵が守っているって噂、まんざらでもなさそうね)
リルケットの監視を避けつつ、ヴィオレッタはこっそり薬売りとして屋台を広げた。そこに、ちょうどよい“お客”が訪れる。
「……こんにちは。ここで薬草を?」
それはユリウスだった。視線はかすかに落ち、疲れた様子を見せている。砦防衛戦のあと、幾度か夜を眠れずにいることは、誰の目にも明らかだった。
(来た……これがターゲット)
ヴィオレッタは、にこやかに微笑んで見せた。
「ええ。旅の商隊に混ざって来たんです。疲れた顔をされてますね? 薬草茶、おひとつどうぞ。心を落ち着けるもの、特別に淹れますから」
「ありがとう……いただくよ」
ヴィオレッタは懐からごく自然な手つきで、香り高い茶葉を取り出し、簡易的な器具で湯を注ぐ。その間にも、穏やかな口調で語りかける。
「……がんばってるんですね。そんなに無理しなくていいのに。ほんとに、偉い子」
「……え?」
その言葉に、ユリウスの動きが一瞬止まる。ふと見上げた先で、ヴィオレッタはあたたかな微笑みを浮かべていた。
ほんのわずかな“違和感”。けれど、その表情に宿る母性めいた柔らかさが、ユリウスの警戒をすり抜け、深い疲れの中にあった彼の心をじわりと包み込んでいく。
「いいのよ、もう何も考えなくて……ママがついてるわ」
それは、薬草の香りにまぎれた“何か”が、彼の意識に忍び込む瞬間だった。
ユリウスは、どこか上の空のような目で、ヴィオレッタの言葉に頷いた。
「じゃあ、こっちに来ましょうね。お仕事は、ママといっしょにするんでしょう?」
「……うん、ママ……」
そう呟くユリウスは、普段の冷静さや知性の影をまるで感じさせなかった。その表情は、無垢な子供のようにさえ見える。
執務室に入った二人は扉を閉め、ヴィオレッタは鍵をかけた。内ポケットから取り出した小瓶には、淡い青の液体が揺れている。
「さぁ、これを飲めば、もっとお利口さんになれるわ。ぜーんぶ、ママの言うことを聞けるようになるのよ」
彼女は微笑みながらグラスに薬を注ぎ、ユリウスの唇に運んだ。
しかし、そのとき——
バンッ!
執務室の扉が、外から蹴破られた。
「ユリウス様から離れなさい!」
リルケットが鋭い叫びと共に飛び込んでくる。続いてリィナも滑り込み、瞬時にヴィオレッタとユリウスの間に割って入った。
「……ママじゃない。あなたは誰……?」
揺らぐ瞳のユリウスに、リィナは必死に呼びかける。
「ユリウス様、目を覚ましてください! あなたはそんな人じゃない!」
「だめよ、それ以上は——!」
ヴィオレッタが逃げようと動いた瞬間、リルケットの剣が机の上を斬り裂き、すぐ横をかすめた。
「次は当てる」
リルケットの声には、冷たく鋭い殺意が宿っていた。
ヴィオレッタは歯ぎしりしながら、ポケットからもう一つの小瓶を取り出したが、それを振り上げる前に、リィナの蹴りが彼女の手を打ち抜いた。
薬瓶は床に砕け、広がった液体からは、ほのかに甘い香りが立ち上る。
「ユリウス様!」
リィナがその腕を取り、肩を抱えるようにして支えた。
「……リィナ……リルケット……? 僕、なにを……?」
意識が戻りかけているのを見て、二人はほっと息を吐く。ヴィオレッタは、再び逃げるために窓へと走るが——
「そのまま動かないで」
扉の外から、セシリアの声が響き、複数の衛兵が駆け込んできた。
——闇の中で仕掛けられた毒牙は、間一髪のところで止められたのだった。




