第68話 混沌の魔女
夕暮れのグロッセンベルグ。城壁の門が重々しく開き、戦場から帰還した兵たちが次々と中へ入ってきた。
無言の行軍だった。誰もが肩を落とし、顔には疲労と動揺の色が濃い。鎧は煤にまみれ、槍は折れ、盾は砕けていた。
「門を開けろ! 急患だ、担架を通せ!」
叫びながら駆け込んでくる衛生兵たちの声が、町に敗北の空気を広げていく。
砦の戦況を見守っていた指揮官、グロッセンベルグの代官ヘルマンは、報告を受けて執務室に姿を現した。
「どういうことだ、これは」
開口一番、低く抑えられた声に怒気がにじむ。
副官の一人が膝をつき、震える声で報告する。
「……敵の反撃を受け、投石機五台をすべて失いました。指揮官バスラー殿が討たれたため、軍は統制を失い、やむなく退却を――」
ヘルマンは机を拳で叩いた。
「退却? 我々は、砦ひとつ攻め落とすために何百も動員したんだぞ!」
「はい……しかし、敵には予想外の戦力が……。金属製の機械兵が二体。うち一体は、メイド服を着た少女の姿でしたが……とても人間の動きとは思えません」
「メイド……だと?」
あまりに現実味のない報告に、ヘルマンは顔をしかめた。
「バスラーは老練な軍人だった。まさか一撃で……」
副官が小さく頷く。
「本陣を直撃されました。迎撃する暇もなかったとのことです」
ヘルマンは沈黙する。
机の上に置かれた地図を睨みつけたまま、やがて呟くように言った。
「……だが、軍そのものが全滅したわけではない。兵は戻ってきた。戦力は、まだある」
その瞳には、敗北を認めぬ炎が燃えていた。
――――
夜のグロッセンベルグ。敗退した兵士たちの報告を受けたヘルマンは、玉座ではないが重厚な椅子にもたれ、沈黙していた。
「指揮官を失って退却、だと……」
低くうなるような声。怒りに満ちた目で、床に膝をついた副官を睨みつける。
報告が終わった後も残された副官。恐怖で額に汗がにじむ。
「兵士が残ったのは不幸中の幸いだ。まだ……終わってはいない」
ヘルマンはゆっくりと立ち上がると、奥に控えていた小姓に命じた。
「呼べ。あの女を」
小姓の顔がこわばる。「まさか……“混沌の魔女”を……」
「ほかに誰がいる。戦場で勝てぬなら、影から奪うまでだ」
しばらくして、部屋の扉が音もなく開いた。
そこに現れたのは、黒いフードに身を包んだ細身の女。瞳はどこか焦点が合っておらず、口元には奇妙な笑みが浮かんでいる。
「ヘルマン様……私をお呼びで?」
「名は?」
「ヴィオレッタ。以前と同じですわ」
女がフードを取ると、白銀の髪と、妖艶な香りがふわりと広がった。
「目的はただ一つ。ノルデンシュタイン砦の主、ユリウスとかいう若造を薬で支配し、砦を内側から手に入れろ」
「洗脳でよろしいのですね。美しい若者の精神を壊すのは、わたくし大好物でして」
ヴィオレッタは喉を鳴らすように笑いながら、腰の小瓶をひとつ取り出した。虹色に揺れるその液体は、見る者の目を引きつけて離さない。
「これは、理性を薄く、夢とうそを混ぜる霧の滴……。ご所望の結果は、きっとお見せできます」
「失敗は許さんぞ。あの砦の力、あの機械兵を手に入れねば、我が地位は危うい。お前の薬であのユリウスを“こちら側”に引き込め」
「ええ。彼がどんな想いで戦っているのか、すべて見せてもらいましょう」
闇夜に紛れ、混沌の魔女ヴィオレッタは笑いながら消えた。
狙うは、砦を守る者の心と魂――。




