第6話 出発
公爵家から追放される日、ユリウスは夜明け前の暗闇の中、一人、城の門へと向かっていた。簡素な荷物を積んだ一台の粗末な馬車が、門の前に待機している。先日奴隷市場で買い取ったばかりの少女ミリが、その馬車の脇に、うずくまるように立っていた。冷たい北の風が吹き荒れ、その旅立ちを一層寂しいものに感じさせた。誰も見送りなど来ないだろう。そう思っていた。
御者が手綱を握り、出発の準備を整えている。重々しい音を立てて開かれた城門の向こうには、北の荒野へと続く、細い道が伸びている。ユリウスは、一度だけ振り返り、かつて自分が生まれ育った城を見上げた。そして、再び前を向いた、その時だった。
門の前に、人影が一つ立っているのが見えた。
「……ライナルト」
そこにいたのは、ユリウスの双子の弟、ライナルトだった。彼は、夜闇の中でもその存在感を際立たせるように、毅然とした態度でそこに立っていた。その顔には、兄が追放されることへの安堵と、自分こそが公爵家を継ぐという確信に満ちた、傲慢な笑みが浮かんでいた。すでに彼のスキル【雷帝】の噂は広まり、その圧倒的な力が未来を約束しているかのように見えた。
「まさか、ライナルトが見送りに来るとは思わなかったな」
ユリウスが静かに問いかけると、ライナルトは鼻で笑った。
「ふん。わざわざ見送りに来たわけではない。貴様の憐れな姿を、この目に焼き付けておこうと思っただけだ、兄上」
ライナルトの声は、勝ち誇っていた。
「【工場】などという取るに足らないスキルしか持たぬ貴様では、公爵家を背負うなど無理な話だったのだ。その粗末な馬車で、荒野へ行って朽ち果てるがよい」
ユリウスは、ライナルトの言葉を静かに聞いていた。彼の目は、ライナルトではなく、その背後に広がる公爵領、そして遠くに見える大陸の彼方を見つめているようだった。
「ライナルト。お前は、きっと強い公爵になるだろう」
ユリウスは、表情を変えずに語りかけた。ライナルトは、その言葉に鼻で笑った。賞賛と受け取ったのだろう。
「当然だ。俺の【雷帝】の力があれば、このヴァルトハインは、帝国随一の強者となる」
「しかし、ライナルト。力だけでは、全てを制することはできない」
ユリウスの声に、わずかな憂いが滲む。それは、ライナルトの性急で武力一辺倒な統治が、将来的に引き起こすであろう破綻を予見しているかのようだった。
「この大陸は、武力だけでなく、繋がりと、そして……“持続可能な発展”が必要だ。いたずらに他国を刺激し、争いを繰り返せば、いずれお前自身も、そしてこの領地も……」
ユリウスの言葉は、まるで冷静な分析のようだった。だが、彼の胸中には、前世の記憶から来る、終わりの見えない戦争の悲惨さ、そして、非効率な争いがもたらす破滅への懸念が強く去来していた。彼が本当に心配していたのは、ライナルト個人のことではなく、彼が統治することになるこの国の未来だった。
しかし、ライナルトは、その言葉を遮るかのように、嘲笑した。
「ふん! 負け惜しみか、兄上! 貴様のその弱々しい理屈など、俺の雷の前では無力だ」
ライナルトには、ユリウスの真意など理解できなかった。彼の言葉は、自分への嫉妬や、追放されることへの無念からくる、弱者の詭弁にしか聞こえなかったのだ。ユリウスのその冷静な忠告は、彼にとっては、ただの負け犬の遠吠えに過ぎなかった。
「力こそが全てだ。俺は力で全てを支配し、この大陸に真の秩序をもたらす。貴様のように、部屋にこもってガラクタを弄ぶような凡人には、理解できまい」
ライナルトは、そう言い放つと、勝ち誇った顔でユリウスに背を向けた。
「さあ、行け。二度とこの城に戻ってくるな」
御者が手綱を引いた。ギシ、と軋む音を立て、馬車はゆっくりと動き出す。ユリウスはミリを伴い、馬車に乗り込んだ。朝焼けが、北の空をわずかに染め始める中、粗末な馬車は、公爵家の城門を後にし、荒野へと続く道を走り始めた。ユリウスの目には、ライナルトが見下す「ガラクタ」と「凡人」の知恵が、いつかこの世界を変えるという確信が宿っていた。
城門を後にした馬車は、ガタゴトと音を立てながら、北の荒野へと続く道を揺られていた。粗末な造りの馬車の中は、座席も満足になく、ユリウスとミリは、互いに距離を取りながら、ぎこちなく座っていた。外からは、蹄の音と、御者の荒い息遣いだけが聞こえてくる。
ミリは、相変わらず黙り込んだままだ。体を縮こませ、膝を抱え、ただぼんやりと外の景色を眺めている。彼女の瞳には、まだ生きる気力のようなものは宿っていない。
ユリウスは、そんなミリをちらりと見た後、再び視線を窓の外に向けた。彼の頭の中では、すでに北の荒野での生活、古い砦の修復、そして【工場】スキルの活用について、無数の計画が巡っていた。前世の知識と、この世界の魔導錬金術をどう融合させるか。考えるべきことは山ほどある。
長い沈黙が、馬車の中に流れていた。どれくらいの時間が経っただろうか。突然、ミリの、かすれた声が、静寂を破った。
「……同じ、顔」
ユリウスは、思考を中断され、わずかに眉を上げた。その視線が、ミリの方へと向けられる。ミリは、まだ外を見ていたが、その瞳は、何かを思い出すように、遠くを捉えているようだった。
「誰のことだ?」
ユリウスが静かに問いかけると、ミリはゆっくりと顔をユリウスの方へと向けた。その汚れた顔は相変わらず無表情に近いが、彼女の目が、真っ直ぐにユリウスを見つめる。
「……あの、門にいた、偉そうな、男」
ミリの言葉に、ユリウスはすぐに誰のことか理解した。ライナルトだ。
「ああ。あれは、僕の弟だ。双子だからな」
ユリウスがそう答えると、ミリは、まるで腑に落ちたかのように、小さく頷いた。
「ふうん……。同じ、顔。でも、目が……違う」
ミリはそう呟くと、再び外の景色へと視線を戻した。その言葉には、何の感情も込められていない。ただ、事実を述べただけのようだった。
しかし、ユリウスの心には、ミリのその短い言葉が、重く響いた。同じ顔。同じ血。だが、瞳に宿る光は、まるで異なっていた。ライナルトの目には、常に焦燥と、力への渇望が宿っていた。そして、今や、自分への明白な敵意すら。
(……目が、違う、か。……そうだな。僕たちは、もう、同じ場所を見ることはないだろう)
ユリウスは、窓の外の、広がりゆく荒野を見つめた。自身の追放は、彼にとっては望ましいものであった。これで心置きなく研究に没頭できる。だが、その引き換えに、兄弟の間に決定的な溝が生まれたこともまた、事実だった。武力に傾倒し、全てを力で解決しようとするライナルトの行く末を案じる気持ちが、彼の冷静な心の奥底に、わずかながらに渦巻いていた。いつか、あの弟が、その力故に破滅の道を辿ることになるのではないかと。
馬車は、再びガタゴトと音を立て、荒野の奥へと進んでいく。そして、ユリウスとミリ、二人の新たな旅が、本格的に始まったのだった。