第56話 軍靴の跫音
グロッセンベルグの町では、早朝から軍靴の音が鳴り響いていた。
「名前を書け! 武器を取れる者は年齢を問わん。拒否すれば投獄だ!」
町役人の怒号が広場に響く中、若者から初老の男たちまでがしぶしぶ列を成す。紙とペンで名前を記されるたびに、一人、また一人と「兵士」として番号を与えられていった。
「おい、これは私の店の在庫だぞ! 勝手に持っていくな!」
「代官様の命令だ。これは徴発だ。文句は聞かん!」
穀物、布、酒、工具、さらには農民たちの飼っていた馬や家畜までもが次々と徴用されていく。町の中には、物資を積んだ馬車が行き交い、広場の隅では簡素な鎧を着せられた徴兵民がぎこちなく木剣を振るっていた。
「こちら、投石機用の梃子材が到着しました!」
「よし、架台を組め! 滑車はもっと滑らかに動かせるように研げ! 目標は十機完成だ!」
広場の奥、古い倉庫跡地には、巨大な投石機の部材が次々と組み上がっていく。手慣れた工兵と徴発された大工たちが汗を流しながら組み立てを進め、ロープには魔獣の腱が用いられ、飛距離と威力の強化が図られていた。
「……まるで、本格的な戦だな」
一人の老兵がつぶやく。
「遊びじゃない。反逆者どもに、公爵様の裁きを下すのだ」
彼の横を通り過ぎた役人は、淡々とそう答えた。
そしてその陰で、ヘルマンの命を受けた部隊長たちは、作戦地図の上でノルデンシュタイン砦への進軍ルートを指でなぞっていた――。
砦の夕暮れ。兵士たちが訓練を終え、工場からは蒸気と機械音が立ち上るなか、一人の商人風の男が、城壁沿いを何度も行き来していた。
「……三歩、四歩、壁厚は……」
男は小声でつぶやきながら、歩幅を均等に刻んでいた。目立たぬようにしているつもりでも、その動きには不自然な規則性があった。
「……測量か」
離れた建物の影で、グレン・リルケットは目を細めた。手には持っていた書類を持ち直し、わずかに首を横に振る。
――これはもう、泳がせる段階じゃないな。
*
夜――。
砦の門が閉まる直前、例の商人が人知れず外に出た。商いの荷車に混ぜた観察記録と地図、そして簡素な書き付け。
「計画は予定通り。北の丘から攻めれば砦のバリスタの死角……」
闇に紛れて森道を進む男の背後に、黒い影が静かに現れる。
「……ふぅ。まさか、あれほどの工場ができているとは。魔導技術も……いや、まさか冷気を操る装置とはな」
「へえ。よく観察していたようだな」
「――ッ!?」
背後からの声に、男は跳びすさる。
「誰だっ!」
「名乗るほどでもない。ただの帝国の亡霊さ。だが……」
リルケットが足音もなく現れた。闇の中でも、その瞳だけは獣のように鋭く光っていた。
「私の砦を舐めて、測量までしてくれた礼は――ちゃんと受け取ってもらおう」
*
呻き声。縛り上げられたスパイが、血をにじませながらも最後の抵抗を続けていた。
「……ヘルマン……グロッセンベルグの代官……奴が……」
「ほう。やはり、動き出したか」
「ふざけるな……貴様一人で……これをどうするつもりだ……!」
リルケットは黙って立ち上がる。そして、しばし空を見上げた。砦の向こう、星空の下で、今もユリウスたちは冷却装置の調整をしているかもしれない。セシリアが論文を書き、ミリが整備に汗を流し、リィナが静かに見守っている。
あの日常を、あの希望を、壊させてはならない。
「……ユリウス殿は、甘い」
「な……に……」
「甘くていい。優しくていい。それを汚すような現実は、私が引き受けよう」
リルケットは懐から短剣を抜いた。
「この件は、私の胸の中だけに収める。――安らかに眠れ」
刃が振るわれ、音もなく事が終わった。
血に染まった夜風が、静かに砦へと戻っていった。




