第54話 魔素冷媒
ノルデンシュタイン砦、改修された西棟地下の「技術実験室」。
数日をかけて構築された巨大な装置の周囲を、ユリウスたちが取り囲んでいた。
「……魔素冷媒〈リフリジェラント〉、導入準備完了」
リィナが無表情で告げると、青く淡い輝きを放つ液体が、魔導制御管を流れはじめた。
リフリジェラントは高純度の魔素を液化させた特殊な冷却媒体であり、わずかな圧力変化でも活性化し、強力なエネルギー変換を行う。
「まず、コンプレッサー起動!」
ユリウスが魔導炉のスイッチを入れると、魔導コンプレッサーのタービンが回転を始めた。魔素の流れが一気に加速し、リフリジェラントが圧縮される。
「魔素圧力……上昇。液体から気体へ変相開始」
「コンプレッサーの吐出圧、目標値到達まであと五秒。いけるわよ、ユリウス」
セシリアが隣の計測符を読み上げ、エネルギーフィードを確認する。
圧縮されたリフリジェラントは、高温高圧の気体となり、次に魔導コンデンサへと送り込まれた。砦の地下に張り巡らされた銅魔線によって冷却が行われ、リフリジェラントは再び液体へと凝縮されていく。
「冷却効率、予測値以上。やはり荒野の夜間温度を利用した外気導入が正解だったな」
ユリウスが頷き、仕上げにエバポレーター側へと視線を移した。
液化したリフリジェラントが細い導入管から膨張室へと噴出されると、圧力の急減によって一気に気化し、その際に周囲の熱を奪った。
ブオォォ……という音とともに、装置前の排気口から涼しい風が吹き出した。
「……きたっ!」
ミリが身を乗り出し、エバポレーターの先にあるファンから吹き出す空気に手をかざす。
「冷たい! これが……これが魔導冷却サイクルってやつか!」
「圧縮、凝縮、膨張、蒸発——リフリジェラントの四工程がすべて回ってる。成功だよ、みんな!」
ユリウスは声をあげた。
冷却サイクルの駆動は完全に安定し、砦の中央棟にはじわじわと涼風が流れ込んでいく。乾いた荒野の熱気を忘れるような、その心地よさに皆が一瞬うっとりとした表情を浮かべた。
「……ユリウス様」
リィナがぴたりと装置の横に立ち、真顔で言う。
「私が膨張すれば……もっと冷えるでしょうか?」
「冷える」と「膨張」の単語の不穏な並びに、一同が凍った。
ユリウスはぎこちない笑みを浮かべ、目をそらした。
「……リィナ、あくまで比喩として使おうか、そういう言葉は」
魔導コンプレッサーの稼働に成功したユリウスたちは、次なる応用先として保存技術の開発に着手した。
「この原理なら……冷凍庫や冷蔵庫も作れるはずだ」
ユリウスは模型の前で腕を組み、構造を練っていた。すでに稼働している魔導エアコンの仕組み――すなわち、魔素冷媒〈リフリジェラント〉を用いた蒸気圧縮サイクル――を応用し、対象空間を密閉して内部の温度を下げる構想だ。
魔導コンプレッサーがリフリジェラントを高圧に圧縮し、コンデンサで熱を外に逃す。その後、減圧された冷媒がエバポレーターで気化しながら熱を奪い、再びコンプレッサーへ戻るサイクルを繰り返す。
「食品や薬草の保存にも役立つし、医療用にも転用できるかもしれない」
試作一号機の魔導冷蔵庫は、砦の調理場に設置された。鉄製の箱の内部には薄い魔導プレートが張り巡らされ、リィナが調整した魔導コンプレッサーと冷媒循環管が外装部に取りつけられている。
扉を開けると、うっすらと霜が張っていた。
「すごいわ、ちゃんと冷えてる……!」
セシリアが驚きの声を上げると、ミリが試しに中へ入れていた魚を取り出した。
「うおっ、カッチカチじゃねえか! これは冷凍庫か?」
「冷凍専用庫も作る予定だけど、現状はこの切り替え機構で調整できるよ」とユリウス。
冷蔵モードと冷凍モードを切り替えるための魔導制御盤には、温度範囲を示すルーン文字が刻まれていた。
「ユリウス様、これ、商売になるんじゃないかしら? 特に薬草を冷やして長期保存できるのは革命的です」
セシリアの目が光る。
「いや、まずは砦の生活を優先しよう。次の目標は、肉や魚の長期保存だ」
「それが優先よね」
「まあ、氷を作れるようになったら、お酒に入れるロックアイスも作るけど」
その言葉にミリの顔がパッとあかるくなる。
「今すぐにでもやってもらいてえぜ」
こうして、魔導冷却技術は砦の生活をさらに豊かにしていくのだった――。
魔導コンプレッサーによって稼働する冷却設備が完成してから数日後、ユリウスたちはその成果を試験的に一部の住民に開放することに決めた。
砦の一角、旧兵舎を改装した冷却実験区画には、簡易ながらもエアコンが取り付けられ、室内はひんやりと心地よい空気に包まれていた。隣の部屋には冷凍庫と冷蔵庫が並び、それぞれ保存食の貯蔵に使用されている。
冷凍庫には、狩猟で得たイノシシやクロウベアの肉を加工・保存した燻製肉がストックされ、冷蔵庫には荒野で栽培されたばかりの野菜、発酵させた乳製品、そして冷やしたジュースが入れられていた。
「うわ……ひゃっこいっ! なんだこれ、すげえ!」
額に汗を浮かべた農夫がエアコンの風を受けて、まるで子どものようにはしゃぐ。
「これ、毎日入っていいのか?」
「交代制よ。次、あたしと子どもたちの番なんだから、早くどきなさいってば」
村人たちは涼しさに歓声を上げ、特に子どもたちは冷蔵庫で冷やされた甘いジュースに夢中になっていた。
「こいつぁすごい……塩漬けにしなくても、肉が腐らねえ……!」
「乳も痛まずに保存できるなんて、信じられない……!」
生活の劇的な変化に驚く声が次々と上がる。
一方、様子を見守っていたユリウスは、満足げに目を細めた。
「本当に……人の暮らしって、こんなにも変わるんだな」
「ええ。これが、魔導技術のあるべき姿なのかもしれないわね」
隣のセシリアがやわらかく微笑んだ。
ミリは肩に手を当て、ふんっと鼻を鳴らす。
「さて、次はエールを冷やせるように、大型の冷蔵庫でも作るか。兄貴、そろそろ宴の準備しようぜ」
そこへ無表情なリィナがぬっと現れた。
「冷却装置のエネルギー効率を最適化すべく、ユリウス様には各出力レベルでの稼働試験を実施していただきます」
「……いや、ちょっと今はみんな楽しんでるし?」
緊張感ゼロの楽しい雰囲気に、ひとりだけ真顔でテンションの違うリィナ。その様子に、思わず笑いが起きた。




