第53話 帝国には過ぎたる男
砦の通路を歩いていたスパイ――いや、商人に扮したグロッセンベルグの密偵は、ふと視線の先に現れた男の姿に動きを止めた。
(あれは――!)
陽に焼けた肌に、重厚な黒の軍装。腰には鍛え抜かれた鋼の剣。何より、その鋭く冷静な眼差しが、記録で何度も見た姿と一致していた。
「グレン・リルケット……!? まさか、こんな辺境にいるとは……!」
心の中で声を上げ、思わず一歩引く。
帝国がまだ誇りを保っていた頃、その剣は百戦無敗の名を轟かせ、戦場では「斜陽の帝国には過ぎたる男」とまで恐れられた男。だが、帝国が衰退して以降、その名は聞かなくなっていた。
(斜陽の帝国には過ぎたる男、とまで称された騎士が……なぜ、こんな朽ちた砦に?)
額に冷たい汗が流れる。
ただの脱走農民の寄り合い所帯かと思っていたが、これは想定外だ。
「……まずいぞ。こんな人物がついているなら、あのユリウスという男、ただ者じゃない……!」
密偵の胸に、初めて「恐れ」の感情が芽生えていた。
スパイの男は、グレン・リルケットの姿を認めた瞬間、身体を硬直させた。
冷や汗が額を伝い、思考が追いつかない。あれほど忠誠心の厚い騎士が、帝都を離れ、何の縁もない荒野にいる理由など、常識では考えられない。ましてや、こんな辺境の砦で巡回など……。
「……!」
スパイは何も言わず、すっと背を向けてその場を離れた。焦るあまり、足取りがやや速くなる。
だが、その不自然さに、すぐさまリルケットが目を細めた。
「……ん? さっきの男……」
一見ただの行商人。しかし、砦の内部を何度も見回し、職人たちに妙な質問をしていた。物腰は柔らかいが、目が鋭すぎる。何より今の動揺。巡回中の自分を見て急に立ち去ったのは、偶然とは思えない。
「……やはり、嗅ぎつけられたか」
リルケット――グレンは小さく息を吐くと、その場で立ち止まり、遠ざかるスパイの背を見送った。
「泳がせておくか。だが、早めに手を打たねばなるまいな……」
風が砦の上を吹き抜け、グレンの外套をはためかせた。
夕暮れのグロッセンベルグ。代官ヘルマンの屋敷では、重苦しい空気が漂っていた。
行商人に扮したスパイは、泥まみれの外套を脱ぎながら、ひざまずいた。
「戻ったか。で、どうだった?」
ヘルマンが書類から顔を上げる。冷たくも興味深げな目が男を見据えた。
「はい。ノルデンシュタイン砦……確かに人が住み着いておりました。数は百を超えるかと。砦の周囲には畑や工房もあり、外壁の修繕も進んでいます」
「ほう……落ち延びた農民どもが集まったか。ユリウスの名前でな」
「それだけではありません。砦には、帝国騎士団筆頭だったグレン・リルケットの姿がありました」
ヘルマンの指がぴたりと止まった。
「……グレン・リルケットだと?」
「間違いありません。名前を口にする者もおりましたし、姿にも覚えがあります。あの斜陽の帝国に過ぎたる男が、なぜあんな辺境に……」
しばしの沈黙。
ヘルマンは立ち上がると、窓の外、北の空を睨んだ。
「まずいな……ユリウスはただの落ちこぼれではなくなっている。人を集め、技術を持ち、あのリルケットまで従えている……。勢いづけば、ライナルト様にも耳に入る」
額に手を当て、低く呟く。
「いや、いずれ必ず届く。だが――それより前に潰さねばならん。そう遠くないうちに……確実にな」




