第52話 スパイ潜入
商人の装いを身にまとい、ロバの引く荷車を曳きながら、男は荒野の風を受けて歩いていた。名はカスパル。グロッセンベルグの代官ヘルマンの腹心であり、密偵である。
目指す先に見えたのは、荒野の中に建てられた二つの施設――石造りのパン工場と、木製の塀に囲まれたウイスキー工場だった。
(こんな場所に工房? しかも二つ……。まさか、本当に製造しているのか?)
さらに、その後ろにそびえる巨大な高炉。しかし、密偵にはそれがなんだかわからず、アルケストラ帝国時代の遺跡かと思った。
密偵が近づくと、パン工場の煙突からはふんわりと小麦の香ばしい香りが漂い、ウイスキー工場の前では丸太で組まれた樽が陽光を浴びて並んでいる。人々は忙しそうに働き、荷を運び、笑い声すら漏れていた。
“追放された民”とは思えない――それが、第一印象だった。
しかも、周囲の畑らしき区画には作物が芽吹いている。焼けた土地のはずが、魔素で改良された土壌か。手が込んでいる。
(……これは想像以上だ。砦の周囲だけを調べて帰るつもりだったが、これは……中も見なければならん)
彼は荷車の後ろに積んだ布を軽くめくった。中には売り物の干し肉や薬草が並び、隠し底には観察用の記録水晶と偽装書簡。用意周到だ。
パン工場の女工が声をかけてきた。
「商人さん? あんた、グロッセンベルグから?」
「ええ、そうです。品物を持ってきましてね……ああ、噂には聞いていたが、ここは随分と栄えている」
「ふふ、そりゃまあ。ここにはユリウス様がいるからね」
(ユリウス……やはり、あの男が指揮をとっているか)
女工は警戒心などまるでない様子で、陽気に笑っていた。その態度からは“逃げ出した民”の悲壮感など一切見えなかった。
(……まずい。このままでは本当に、砦が一つの独立勢力として成り立ちかねない)
カスパルは軽く帽子を直し、にこやかな笑みを作った。
「できれば、そのユリウス様にも挨拶をしておきたいものですな。今後、商売を続けるうえでも――」
「だったら砦に行くといいよ。そこの坂をのぼれば門があるから」
(……中も見ることができる、か)
カスパルは一礼し、荷車を再び引いて坂道を登り始めた。風が運ぶパンと酒の香りに混じって、彼の胸には冷たい不安が渦巻いていた。
(急がねば。これを放置すれば――グロッセンベルグでは済まなくなる)
はやる気持ちを抑え、男は砦の中に入ることにした。
砦の門がゆっくりと開いた。粗末な木製の門だが、内側には補強された新しい鉄骨が見える。商人を装った男は馬車を引いて砦に入ると、周囲の様子をさりげなく観察し始めた。
砦の中は、彼の予想以上に整備されていた。かつては無人の廃墟同然だったはずだが、今は簡素ながら活気がある。家屋や工房が規則正しく建てられ、井戸の周りには子どもたちの笑い声が響く。若い男女が木材を運び、布を干し、鍋からは煮込みの匂いが立ちのぼる。
「これが……捨てられた砦の姿か」
男はひとりごちると、軽く手綱を引き、市場の一角へと馬車を止めた。
「おーい、行商人だってさ!」
「薬草ある? それとも布地?」
住民たちがぞろぞろと集まってくる。男は愛想よく笑いながら応対しつつ、鋭い眼差しで人々の服装や話しぶりを観察した。彼らは間違いなく農奴や都市民ではない。表情に怯えはなく、どこか自立心と誇りが見える。
(なるほど……これは、ただの避難民の集まりじゃない。思想を持って動いている)
男は頭の中で報告内容を整理していく。武器工房と思しき建物の前には、手入れされた槍や簡易型のパワードスーツ。もっとも、パワードスーツはオーバーテクノロジーすぎて密偵は鎧としか認識しなかったが。兵士らしき者も数人いた。女性たちが水を運ぶ姿も、まるで訓練された作業のように手際がいい。
そのとき、広場の向こうから一団が歩いてきた。中心にいたのは、かつて見知った顔――ギルマン公爵家の長男、ユリウスだ。
(やはり、生きていたか)
ユリウスは周囲の住民と気さくに会話しながら進んでいく。威圧的でもなく、かといって軽んじられてもいない。自然に人の中心に立ち、指示を出しながらも笑顔を忘れない。まるで、王のようだった。
(これはまずい……)
男は商売を終えるふりをしながら、砦の構造と人口、配置、武器や防衛設備の数などを脳裏に刻み込んでいく。そして静かに心の中で決意した。
(一日で足りる。すべてを記憶して、戻る……今なら、まだ間に合う)
馬車を引いて再び門をくぐるとき、男の顔から笑顔は消えていた。




