第5話 ミリとの出会い
公爵家の城門を出て、ユリウスはヴァルトハイン領内にある奴隷市場へとやってきていた。公爵から許された「奴隷一人」という餞別。それは彼にとって、北の荒野で工場を立ち上げるための、最初の「労働力」となるはずだった。
市場は、湿った土と汗、そして人間の絶望が混じり合ったような、陰鬱な空気に満ちていた。痩せこけた人々が鎖に繋がれ、値踏みするような視線に晒されている。ユリウスは、その中で、一人のドワーフの少女の前に立ち止まった。
少女は薄汚れた布を纏い、うずくまるように座っていた。その顔は煤けて汚れ、髪は乱れ、小さい体は見るからに痩せ細っている。何よりも目を引いたのは、その瞳だった。かつては炎のように輝いていたであろうドワーフ特有の目が、今は完全に光を失い、ただ虚空を見つめているだけだった。生きる気力など、微塵も感じられない。彼女は、何度か買われては、その度に反抗的な態度や、主人の命令を聞かない頑なな姿勢から、すぐに手放されてきた過去を持っていた。そのせいか、彼女の周囲には、誰も近寄ろうとしない不気味なほどの空間が広がっていた。他の奴隷たちでさえ、彼女に触れれば自分たちにも悪い運気が移るかのように、遠巻きに避けている。
「坊主、その娘は止めておけ」
背後から、肥満体の奴隷商人が、にやけた顔で声をかけてきた。男は、ユリウスの貴族然とした身なりを見て、大口の客と判断したのだろう。
「この娘は、ドワーフの中でも体が小さい上、見ての通り、全く覇気がねぇ。それに、何度か売られたが、すぐに元の主人から『使い物にならない』と返品されてきてな。碌な飯も食わねぇし、鞭を振るっても、ただ睨み返すだけで、ちっとも動かねぇんだ。買ってもすぐに死なせるのがオチだ。こんな役立たずより、もっと体が頑丈で、気の利いた奴隷をいくらでも見せてやるぞ?」
奴隷商人は、心底うんざりしたように少女を蔑んだ目で一瞥し、他の屈強な男たちや、健康そうな女たちを指差してみせる。彼は、この少女が不良債権であることを隠そうともしない。その言葉には、少女に対する諦めと、わずかながら、持て余すような苛立ちがにじんでいた。
しかし、ユリウスは、奴隷商人の言葉に耳を傾けることなく、ただ静かに少女を見つめ続けていた。彼の前世の知識が、彼女の瞳の奥に、まだ燻る微かな光を見出したかのように。あるいは、この極限状態にあってもなお、ドワーフ特有の頑健な体質が失われていないことを、冷静に判断していたのかもしれない。ユリウスの視線の先で、少女の細い肩が、寒さか、あるいは恐怖からか、微かに震えているように見えた。
「いいえ、この娘で構いません。これから荒野に行くのにドワーフが居てくれたらと思っていました」
ユリウスは、明瞭な声で言い放った。奴隷商人は驚きに目を見開いた。
「おいおい坊主、よく考えろ! 金の無駄だぜ? 北の荒野に連れて行くってんなら、なおさらだ。こんな動かねぇ荷物、途中で捨てていきたくなるぞ?」
奴隷商人は、執拗に止めようとする。彼にとって、客が役立たずの奴隷を選んで、後で文句を言われるのは面倒だった。
だが、ユリウスの決意は揺るがなかった。彼の視線は、諦めきった表情で地面を見つめる少女に固定されている。彼の脳裏には、すでに荒野で稼働する工場の光景が浮かび上がっていた。そこには、ただの道具としてではなく、共に未来を築き上げる「仲間」となるべき存在が必要だった。この少女の、何かに抵抗し続けてきたであろう頑なな精神が、彼の目には、単なる反抗心ではなく、内に秘めた生命力のように映ったのかもしれない。
「構いません。この娘を、買い取ります。値段はいくらです?あ、公爵家が支払いますので、ユリウスに売ったと伝えてください」
ユリウスのその言葉に、少女の、光を失っていた瞳が、かすかに動いた。彼女は、ゆっくりと顔を上げ、初めてユリウスの顔を、ぼんやりと見つめ返した。その瞳に、ほんの一瞬、戸惑いと、そして奇妙なほどの静かな疑問が浮かんだ。
奴隷商人はユリウスの頑なな態度に諦め、しぶしぶ値段を通知した。ユリウスは、その金額を公爵家が支払うことを約束し、ドワーフの少女――後のミリを、奴隷として買い取った。それは、絶望の淵にあった少女と、新たな世界で「創造」を目指す技術者の、運命的な出会いだった。ヴァルトハインの地で、公爵の追放宣告から数日後、新たな物語の第一歩が記されたのだ。
――ミリ視点――
冷たい地面が、肌に張り付く。薄汚れた布一枚じゃ、この冷え込みは防げねぇ。もう何度、こんな場所で座り込んできたか、覚えちゃいねぇ。朝になれば、また新しい「ご主人様」に買われて、怒鳴られて、殴られて、そして、またここに逆戻り。あたしは、誰の命令も聞かなかった。聞く気になれなかった。どうせ、誰もあたしを必要としねぇ。そう思ってた。
周囲からは、他の奴隷たちのうめき声や、商人の下卑た声が聞こえてくる。でも、あたしの耳には、遠い雑音にしか聞こえなかった。もう、何も感じたくなかった。目を開けても、世界は灰色にくすんで見えた。どうせ、同じことの繰り返しだ。
「坊主、その娘は止めておけ」
また、あのブタみたいな商人の声が聞こえる。飽き飽きするくらい聞き慣れた声だ。あたしに向けられた蔑んだ視線も、もう慣れた。
「こいつは役立たずだ。何度売っても、すぐに戻ってくる。どうせ北の荒野に行くんだろう?こんな荷物を連れて行ったって、途中で死なせるのがオチだぜ」
ああ、そうだろうな。あたしは役立たずだ。そうやって、何度も捨てられてきた。もう、何にも抵抗する気力なんて残っちゃいねぇのに。
その時、妙に静かな気配がした。ブタ商人の喚き声の隣で、誰かが立っている。顔を上げるのも億劫で、視線だけをそちらへ向ける。そこに立っていたのは、見慣れない男だった。貴族様みてぇな、妙に綺麗な格好してる。でも、他の貴族様みてぇに、ギラギラした目をしてねぇ。あたしのこと、見下してるのか、それとも、ただ見てるだけなのか、わからねぇ目だった。
「いいえ、この娘で構いません。これから荒野に行くのにドワーフが居てくれたらと思っていました」
その声が、あたしの耳に、ストン、と落ちてきた。何? このあたしでいい、だと? 耳がおかしくなったのか?
「おいおい坊主、よく考えろ! 金の無駄だぜ? 北の荒野に連れて行くってんなら、なおさらだ。こんな動かねぇ荷物、途中で捨てていきたくなるぞ?」
ブタ商人が、まだ何か言ってる。でも、あの男は、あたしから目を離さねぇ。何なんだ、こいつは。あたしは、もう、何を言われても、何をされても、反応する気力なんて残っちゃいねぇのに。
「構いません。この娘を、買い取ります。値段はいくらです?」
また、その声が聞こえた。迷いのねぇ、静かな声だった。あたしは、生まれて初めて、その男の顔をちゃんと見た。その目は、あたしの光を失った目とは違って、真っ直ぐだった。どこか遠くを見てるような、不思議な目だった。
なんで、あたしなんだ? どうせ、すぐに失望して、また売り飛ばすくせに。どうせ、また、反抗的な態度だって怒鳴るくせに。
ブタ商人の手が、あたしの肩に乱暴に置かれた。
「よし、この坊主が、お前のご主人様だ。せいぜい、今度は役に立つんだな」
その瞬間、あたしの心の中に、何かが、チクリと小さな針を刺したような感覚が走った。それは、期待でも、喜びでもねぇ。ただ、ひどく疲れた体に、ほんの、ほんの小さな、得体の知れない「疑問」が芽生えただけだった。
ブタ商人が、新しい主人にに何やら紙切れを渡して、サインを書いたものを受け取ってるのが見えた。これで、あたしはこいつのモンになった。
ユリウスは、ブタ商人の話が終わると、あたしの前に静かに屈み込んだ。その顔は、相変わらず感情が読めねぇ。でも、その瞳は、真っ直ぐに、あたしを見つめていた。
「僕の名前はユリウス。君の名は?」
まだ声変わりのしていない高い声で、そう尋ねられた。その声には、怒りも、苛立ちも、諦めもなかった。ただ、純粋な問いかけだけがあった。
あたしは、何かに弾かれたように、喉の奥から声を絞り出した。何度も、誰かに聞かれる度に、答えてきたはずの名前。なのに、今は、それがひどく新鮮に感じられた。
「……ミリ」
蚊の鳴くような声だったが、確かにそう答えた。ユリウスは、その言葉をゆっくりと繰り返すように、小さく頷いた。