第49話 口食み酒
パン工場の隣に、新たに建設されたウイスキー工場。重厚な木造の外観からは、すでに麦芽を焦がしたような香ばしい香りが漂い始めていた。
「まさかパンの次はお酒なんてね。あなたの発想には、ついていけないわ」
セシリアが苦笑しながらユリウスを見上げる。その表情には、呆れとともにどこか楽しげな色が混ざっていた。
「いや、必要だからだよ。人が増えて、息抜きができる場もいるだろ。……それに、また地下から何か出るかもしれないって、ちょっとだけ期待してたろ?」
「ふふ、バレてた?」
セシリアが小さく肩をすくめると、ユリウスも笑った。
ふと工場の扉が開き、中からミリが飛び出してきた。
「おーい、兄貴ー! 樽の中身、そろそろ確認していい頃だぞ!」
「もう蒸留終わったのか?」
「終わったもなにも、お前の〈工場〉スキルで一瞬だったじゃないか。とにかく、一回飲んでみようぜ! 味見、味見!」
「ちょっと待て、まず構造の確認を――」
「そんなの後だ後! 飲んでから考えろ!」
そう言ってユリウスの腕をぐいぐい引っ張るミリ。工場の中には、ユリウスのスキルで配置された巨大な木樽が何本も並び、精密に組まれた銅の蒸留装置が堂々と鎮座していた。
「うわ……本当にできてるな」
「当たり前だろ。兄貴のスキル、マジで便利すぎるぞ……。これで本格的なドワーフ酒場が夢じゃなくなってきた!」
「だから、お前何もしてないだろ……」
「いや、飲む役は大事だからな!」
カップを手にとったユリウスは、琥珀色の液体を一口含んで――
「……強い! けど、うまいな」
「だろだろ? この香りと刺激が命なんだよ、ウイスキーは!」
その様子を少し離れたところで眺めていたセシリアが、クスッと笑った。
「……こうして人が笑い合える場所があるって、素敵なことね」
――――
ウイスキー工場の一角、銅製の蒸留器が陽光に輝き、静かに湯気を立てていた。
その前で、リィナは真顔のまま仁王立ちしていた。
「……こんな無機質な機械に、ユリウス様が心を奪われるとは思いませんでした」
「え、いや、これは工業製品としての――」
「私の、口食み酒のほうが、きっと……」
ピタ、と場の空気が止まった。
ミリが目を見開き、セシリアは手に持っていた木のコップをぽとりと落とす。
「リィナ、いまなんて……?」
「私は古の酒造法に詳しいのです。穀物を口に含んで酵素で分解し、それを――」
「待って、待って、まってえええええっ!!!」
ユリウスが顔を真っ赤にして手を振った。
「リィナ、それは歴史的に実在する技法だけど、なんか……その、君がやると……なんか変な気分になるんだ!!」
「変な気分とは?」
「それはだな……あー……っ、セシリア、フォロー頼むっ!」
「むり……っ。酔ってて無理……」
セシリアは頬を紅潮させ、ふにゃふにゃとユリウスの腕に抱きついていた。
「ユリウスぅ……リィナの口……ふふ……口……お酒……」
「だーっ! セシリアも想像しないでっ!!」
ミリは両手で顔を覆いながら、ちらちらとリィナを見た。
「……あたしも勝てる気しないけど……でもそれ、ユリウスに飲ませるの!? ほんとに!?」
「もちろんです。ユリウス様の喉を通る最後の一滴まで、私の手で……」
「それ、違う意味にしか聞こえないからっ!!」
ユリウスは顔を両手で覆った。もはや工房は蒸留器の熱気よりも、場の空気で茹だっていた。
その日、ユリウスは生涯忘れられない教訓を得た。
《酒造りは、理性を溶かす前に、誤解を生むことがある》――と。




