第43話 惚れ薬騒動
ある日、セシリアはパン工場の地下、旧文明の遺構を調査していた。埃をかぶった書架の奥に、奇妙な装飾が施された石板文書がひとつ。魔導言語で綴られたそれを読み解いたセシリアの瞳が、キラリと光った。
「……“初見恋薬”? アルケストラ帝国時代の惚れ薬……?」
そこには、「服用後、最初に視認した対象に強い恋情を抱くようになる」との記述があった。あまりに突拍子もない効果に、セシリアは思わず吹き出した。
「ば、馬鹿みたい……。こんなもの、本当に効果が……いや、アルケストラの技術なら……!」
知的好奇心が全身を駆け巡る。
「研究よ、あくまで研究のため。実際に使うわけじゃないもの……!」
自分に言い聞かせながら、セシリアは材料の調合に取りかかる。怪しげな香りのハーブ、魔素結晶を粉末にしたもの、古代植物から抽出した香液――ひとつひとつを慎重に、けれどもどこか浮かれた手つきで加えていく。
そして完成した、小さなガラス瓶。中に揺れるのは、ほんのりピンク色の液体。
「……さあ、あとは、誰にも知られないように保管して――」
その時、ふと背後に人の気配が。セシリアが驚いて振り返ると――
「セシリア、こんなところで何してるんだい?」
「ゆ、ユリウス……!? ち、違うのよ、これは、その、研究よ、あくまで研究っ……!」
慌てたセシリアが手元の小瓶を握りしめたまま、後ずさる。その拍子に、足元の石につまずき――
「あっ……!」
バランスを崩し、手から惚れ薬の小瓶がすっぽ抜け、空中でキラキラと光を反射しながら宙を舞う。
「うそ、うそ、やめて、落ちないでええええっ!!」
セシリアの叫びもむなしく、小瓶は彼女の額に軽くヒットした後、口元へ落ち――
「ごっ……!」
――ごくん。
「………………」
「………………」
しばしの沈黙。
セシリアは硬直したまま、瓶を見つめていたが――
次の瞬間、ぱあっと顔を輝かせて振り返った。
「ユリウスっ!! ああ、ユリウスっ!!」
「へっ?」
「あなたのその無骨な眉毛! やさしすぎて逆に距離を感じる笑顔! 無意味に大きな手! 全部が好きっ!!」
「ま、待って!? それ本音!? いや、薬の影響!?」
ユリウスが戸惑い、数歩あとずさるが、セシリアはぴょんぴょん跳ねながら迫ってくる。
「今日のユリウスは……なんだか、食べちゃいたいくらい素敵!」
「た、食べ――!?」
ユリウスが限界の顔になったところで、タイミング悪く(良く?)工房の扉が開いた。
「セシリア~! またあんた変な薬作って――うわあああああ!? なに脱ごうとしてんの!?!?」
駆け込んできたミリの叫びに、さらにリィナの冷静な声が重なる。
「スキャン完了。感情高ぶり指数オーバー90。これは――まごうことなき惚れ薬の症状です」
「どこの専門機関だよそれ!?」
慌ててセシリアに飛びついて羽交い締めにするミリ。
「ちょっと! なにするのよミリ! 恋する乙女に対する妨害は許されないんだからっ!」
「許してたまるかっ!! 今すぐこのローブ閉じろ!!」
そんな混沌とした地下工房で、ユリウスはただひとり、天井を見上げながらぼそりと呟いた。
「……これ、本当に研究だったのかな」
「……全くもう、セシリアさん!」
場面は変り砦の一角、セシリアの研究室。セシリアは正座し、目の前にはミリとリィナが腕を組んで仁王立ちしていた。
「残ってとは言ったけど、こーんなことしろなんて、あたし言ってないからね!? 惚れ薬って何よ!? しかも自分で飲んで迫るとか、やばすぎでしょ!」
「……ごめんなさい……」
「これは倫理にも禁忌にも反しています。セシリア様、ユリウス様への感情に流されてはいけません」
「うぅ……ほんとに研究だったのよ……ほんのちょっとだけ夢見たかっただけなの……」
セシリアは項垂れ、肩を小さく震わせる。叱った二人も、それ以上強くは言えず、顔を見合わせてため息をついた。
「……まあ、今回は許してあげる。でももう変な薬は作っちゃダメよ」
「記録にも残しませんが、次はそうはいきませんからね?」
「……うん……ありがとう……」
そうして、セシリアとリィナはそれぞれ部屋を後にする。
「じゃあ、私は機関室へ」
「私も自室で作業が残ってますから」
扉が閉まり、部屋に一人残されたのはミリ。
「……ふぅ。まったく、セシリアは突っ走りすぎなんだから……」
そうつぶやきながら、ふと机の端に置かれていた小瓶に目が留まる。
「……あれ、惚れ薬……一本、残ってる……」
ちょん、と指でつつく。ラベルにはくるくるした文字で「アルケストラ式恋愛補助液(試作1号)」と書かれていた。
「……べ、べつに……使うわけじゃないけど。ね? 研究資料として、保管。保・管。大事よ、大事」
そうつぶやきながら、ミリはそっと瓶を懐に――
「…………」
「………………」
「…………………」
背後に、気配。
「……嘘でしょ」
振り返ると――
扉の陰から顔を半分だけのぞかせたリィナとセシリアが、無言で見ていた。
「な、なんでまだいるのよ!?」
「リィナが忘れ物したって言うから付き添って戻ってきたの。そしたら……」
「ええ。ばっちり見てました」
「ち、ちがっ……これは、べ、べべべべつに、そ、惚れ薬じゃないし!」
「ねえセシリア、ミリって実は一番危険なんじゃない?」
「わたし、もう次はユリウスに近づかせないから!」
「や、やめてーっ!!」
ミリの叫びが、砦の夜に響き渡った。




