第40話 セシリアの苦悩とミリの過去
セシリアは足早に自室へと戻った。扉を閉めると、背を預けるようにしてゆっくりと床に崩れ落ちた。
「……わたし、なんてことを」
ぽつりと零れた言葉は、自嘲と後悔に満ちていた。
ユリウスのあの表情――処刑を命じたあとの、心を削られるような苦悩の顔が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
(あの人は、ただ人を助けたいだけなのに……)
理想を掲げ、工場を築き、人々を迎え入れて、すべてを変えようとしている。その真っ直ぐで、まっすぐすぎるほどに優しい心。なのに自分は、それを利用しようとしていたのだ。グランツァール帝国の皇女として、再興のための駒として――。
「わたし、最低……」
セシリアは手で顔を覆い、唇を噛んだ。頬に温かいものがつたう。涙だった。
最初はただの手段だった。才能ある男、道具としての価値。だが、いつしかその目に惹かれ、声に耳を傾け、心を許してしまっていた。
――気づいた時には、恋をしていた。
愛していた。ユリウスを。
それなのに、自分はその愛しい人を、帝国のためという大義名分で、戦争という奈落へと導こうとしていたのだ。
(もう、近くにいてはいけない)
このままでは、ユリウスを苦しめる。愛しているからこそ、彼の理想を穢してはいけない。彼のまっすぐな夢を、血と陰謀で汚してはいけない。
セシリアは涙を拭い、静かに立ち上がった。
「わたしは……別の場所で、別の方法を探す」
彼の夢に傷をつけないために。彼を守るために。たとえ自分がどれだけ苦しくても、彼の笑顔を守ると決めた。
セシリアの背筋は、静かにしかし凛と伸びていた。迷いはまだあった。それでも、その歩みは確かに前を向いていた。
夜の砦は静まり返り、風の音さえも遠ざかっていた。セシリアはそっと扉を開け、荷物を肩にかける。足音を忍ばせ、誰にも気づかれないように砦の門へと向かう。
しかし、そこには既に一人の少女が立っていた。
「やっぱり出ていくつもりだったんだな、セシリア」
ミリだった。腕を組み、月明かりに銀の瞳を光らせている。
「……どうして、わかったの?」
「最近のあんた、目が死んでた。あんな顔でユリウスと話してても、すぐわかるよ」
セシリアは視線を落とし、苦笑した。
「私は……最低な女なの。ユリウスを利用しようとしていた。あの人の優しさを、信頼を、全部。……なのに気づいたら、好きになってた。どうしようもなく……好きになってたのに、私は……」
言葉が詰まる。肩が震え、荷物を握る手に力がこもる。
「だから逃げるのか?」
ミリの声が鋭く刺さる。
「最低だって思ってんなら、ここで償えばいいじゃんか。……あんたの気持ち、私にはよくわかるよ」
「……ミリ?」
ミリはため息をつき、前髪をかき上げる。そして小さな声で、だがはっきりと口にした。
「私、ドワーフの王族の末裔なんだ」
セシリアの目が見開かれる。
「……! でも、ドワーフの王国は……」
「ああ。300年前、あんたたち帝国に滅ぼされた。人間至上主義ってやつで、技術も文化も全部踏みにじられてさ。祖先は見せしめとして奴隷にされたって、記録が残ってる」
ミリはぎゅっと拳を握った。
「私は帝国が嫌いだ。でも、セシリア、あんたのことは――嫌いになれない。あんたは、あたしに手を伸ばしてくれたじゃんか」
セシリアの喉から小さな嗚咽が漏れた。
「それに、ユリウスも……あんたがいなくなったら、きっと悲しむ。……あの人、あたしにはわかるんだ。すっげぇ強いけど、ほんとはすっげぇ脆いんだよ。あんたがいないってわかったら、笑って誤魔化して、誰にも言わずに勝手に傷つくんだ」
「……私、そんな資格……」
「資格なんて、誰も最初から持ってないよ。あんたがここで生きていきたいって思うなら、それだけで十分だよ。あたしがそうだったから」
ミリはにかっと笑って、手を差し出した。
「戻ろうよ、セシリア。朝になったら、また一緒にユリウスの変な発明に付き合ってやろうぜ」
セシリアは何かを押し殺すように目を閉じ、それから震える手でミリの手を握った。
「……ありがとう。ミリ」




