第35話 ミリの苦悩
翌朝、砦の中庭では朝食の準備が進んでいた。石窯の前ではミリがパンを焼きながら、ちらちらとセシリアを盗み見ては、顔を背けている。
「……お、おはよう。お嬢さん」
「……誰?」
セシリアがきょとんとしながら首を傾げた。
「わ、わたし、セシリアだけど……?」
「そ、そうだよな! わかってる! 冗談だよ、ははっ!」
ミリの笑顔は引きつっていた。明らかに様子がおかしい。
「ミリ、それ昨日からずっと言い方おかしいよ」
リィナが横から顔を出してきた。パン生地をこねながら、にやにやと口元を緩めている。
「な、なんもおかしくねぇよ! ただちょっと、今までとは、な? 接し方を改めようかと……こう、敬意をだな……!」
「敬意があるなら“お嬢さん”じゃなくて“セシリア様”では?」
「言わないって決めたの! そしたら、いつも通りがいいって……」
「でも全然いつも通りじゃないよね」
リィナの言葉に、セシリアも思わず吹き出してしまった。
「ごめん、ミリ。でも、なんだかぎこちなくて……」
「うぅ……あたし、どう接したらいいかわかんなくなってきた……」
顔を真っ赤にしたミリがパン生地に顔を埋めそうになったところで、リィナがそっと手を添えた。
「大丈夫だよ、ミリ。わたしはわかってるから。ミリは優しいから、緊張してるだけ。セシリア様が皇女でも、いつもと同じように笑えばいいんだよ」
「……わたし、笑えてる?」
「へたくそだけど、そこがミリらしいね」
「こら、からかうな!」
ミリが顔を真っ赤にしながらパン生地をリィナのほうに投げようとするが、リィナはひらりとよけて笑った。
そんな二人のやり取りを見て、セシリアも自然と笑みを浮かべていた。
しかしミリは、それでも妙に落ち着きがなかった。
セシリアとの距離をとりすぎているわけでも、わざとらしく親しげにしているわけでもない。ただ、どこかぎこちない。
「ミリ、変ですよ」
リィナが言った。
「何がだよ」
「何がって、いつものミリさんなら、ここはもう『ばーか、くすぐったいっての!』みたいに返すところです」
「そんな返ししたことねえし!」
「ほら、しました」
リィナは誇らしげに頷いた。
あまりにあからさまなやりとりに、セシリアがくすりと笑う。
「無理に気を遣わなくてもいいわ。私、鈍感だけど、馬鹿じゃないつもりだから」
ミリはちらりと彼女を見ると、耳を赤くして視線をそらした。
「別に……気を遣ってるつもりは……ねえよ」
「でも、なんだか変ですよね」
「リィナ、おまえは黙ってろ」
リィナは口に指を当て、「しーっ」と囁いた。
その動作がどこか可笑しくて、ミリの顔にようやくいつもの笑みが戻る。
そんな彼女を見て、セシリアはそっと目を伏せた。
それでも、ぎこちなさが完全に消えたわけではない。
ミリの中では、まだ答えの出ない葛藤が渦巻いていた。
けれど、それを言葉にできるほど、彼女は自分の感情に正直ではなかった。
――このまま、いつも通りでいられればいいのに。
そんな本音すら、口にするには少しだけ勇気が足りなかった。




